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小人

小人

反瞑想カルト

どのような情況に於いても常に観照意識たろうとすること、ソレを瞑想修行という。

以下はかつてOSHOの弟子・サニヤシンのメーリングリストに入っていた時、私が坐禅しているという事で批判・揶揄する者が後を絶たず、そこの住人達の中でも特に札付きのヒドイ連中に宛てて書いたものである。当然ながら、そのリストは一方的に除名されました(笑)個人名は伏せてあります。
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反瞑想カルト(反瞑想ほう助者達)

どうもこのリストには瞑想にマジメに取り組んではイケナイという奇妙奇天烈なる論理が蔓延しているようだ。さらに輪を掛けて不思議なのは、誰もそれに異議を唱えない事だ。サニヤシンの体たらくココに極まれりか。

そういう論を展開しているのは当然のごとく、ろくに瞑想しない連中である。瞑想する回数はせいぜい一年の内で国民の祝日並かそれ以下だろう。瞑想しない者が寄り集まって互いを正当化し、承認し、エールを送り合っているのだ。何年も続く一連の歌会などは、さしずめそのエール交換会と言えるだろう。連日連夜、誠にかまびすしいことである。

では、なぜそのような連中が大手を振ってこのリストに居座り続け、歌会などという愚にも付かないマインドの悪ふざけを長年続けられるのか。それはひとえに、このリストの参加者のレベルが低すぎるからである。何のレベルかと言えば、当然瞑想のレベルである。(こう言うと、またペテン師達の応援に力が入る事であろうがね)

ペテン師を見破るには瞑想者の目を必要とする。ところが非瞑想者には目が付いてない。また、彼らは瞑想しない事を奨励するペテン師達に賛同こそすれ、絶対反対はしない。なぜなら自分も同じ穴のムジナだからだ。自分のいい加減さにペテン師達が毎日大声でエールを送り、太鼓判を押してくれているのだ。曰く、「マジメに修行してはイケナイ」等々。さぞや勇気づけられる事だろう。逆にそれと全く同じ理由から、足並み揃えて瞑想者を攻撃し、変人扱いする。全ては瞑想してこなかった自分のエゴ正当化から発する極めて低レベルな行為である。以下、xxxの言である・・・

> 和尚曰く
> 瞑想はシリアスなものではない。

ここまでは誰でも知っている。

> まじめに頑張るような人は、瞑想を体験することはできない。

これは完全なるxxxの捏造である。私がxxxをペテン師と呼ぶ所以である。

瞑想はするかしないかのどちらかだ。実にシンプルである。では一体誰がするのか、それは「する人がする」のである。この単純な事実を事実として受け取れないような者は頭脳が正常に機能していない。そのような者が寄り集まって奇妙な反瞑想カルトを形成しつつあるのがこのリストである。

しかしながら、瞑想は決して強制ではない。また強制してもできない者はできない。つまり絶対にしない。ノドが渇いていない者は水は飲まない。また、無理して飲む必要もない。ノドの渇きを静かに待てばいい。

■ 但し、瞑想しているフリ、し終えたフリは言語道断である

では、瞑想するとは何か。瞑想するとは瞑想技法に正面から取り組み、瞑想の味を味わい、その味を自己存在の基調とする事である。従って瞑想技法に真摯に取り組み、自己存在を全一に投入する事が不可欠なのは言うまでもない。そうでないなら、アシュラムで朝から晩まで瞑想プログラムが組まれている筈はないのだ。また、OSHOが勧める筈もない。OSHOを信じるのか、ここの一部の馬鹿どもを信じるのか。答えは自ずと明白だろう。

このリストを見ていると、自分の立場を正当化してくれるなら、どんな者のどんな理不尽な言でも喜んで容認してしまうエゴの盲目があちこちに見受けられる。曰く「瞑想修行する者はバカである」等々。そう言われて黙っている者は、当然ろくに瞑想していない者だけだろう。(しかし、みんな黙っていたな)

瞑想しない事を奨励煽動している者共もまた、瞑想してこなかった自分の立場を正当化するだけの為に、瞑想に励む修行者を、さも当然のように連日連夜揶揄し、攻撃し続けている。瞑想者を攻撃するサニヤシンとは一体如何なるサニヤシンか!

●試しに一度ブッダホールで「マジメに瞑想なんかするな。お前らはみんなバカだ!」と暴れてみろ。或いはどこかの禅寺に行って接心中の雲水に吠えてみるのも一興だ。きっと面白いことになる。

瞑想しないのがそれ程にも賢明な事なら、その入寂まで何十年も噛んで含めるように瞑想を語り教え、100を越す瞑想技法を授けてくれたOSHOは大馬鹿か? 滝でも浴びてもう一度よく考えるがいい。(正気の者なら別に考えるまでもないがね)

アキラ
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ここで、想像される以下への反応に対して先手を打っておくとしようか。

「瞑想はするかしないかのどちらかだ。実にシンプルである。では一体誰がするのか、それは『する人がする』のである」

減らず口の屁理屈野郎xxxなどはこれに対して、「瞑想は、しない人がしないのである」とか何とか分かったような事を言うだろう。ある意味当たっている。瞑想者は瞑想の中に消え去るからだ。しかしそれを言えるのは本当に瞑想した者だけである。また、瞑想を極めた「瞑想しない人」ともあろうお方が、瞑想修行を否定することなど絶対にあり得ない。

OSHOは21歳の悟りの直前まで狂人と呼ばれるほどの修行をした人である。その人が生涯を通して瞑想を教え導いた事を思い起こすべきである。修行を越えたと高らかに宣言しつつ修行を否定し、修行者をあざ笑い、瞑想者の邪魔をするような者は、単なる口先だけのカス野郎、ペテン師と断じて200%間違いない。

●力を抜けるのは、力いっぱいやった者のみだ

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ここで断っておくが、私は瞑想しろと言ってるのではない。そんなことは100%個人の自由だ。言いたいのは唯一点、

▲ろくに瞑想せずに、さも瞑想を極めたかのように語る者は単なるホラ吹きだ 

ということ。更に言えば、

▲そういう馬鹿ネオンを点滅させてるような者を見破れない“瞑想者”も、お粗末極まりない

以上である。


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