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カテゴリ:道関係
高野山を開いた弘法大師さん、若かりし頃、私が住んでいる大塔町、それに、天川村、野迫川村などを通って高野山に辿りついたと言われる道があります。 その道を探り出そうというプロジェクトが発足。 その人達によるシンポジウムが2012年2月26日に開かれました。 そのシンポで発表された内容を中心に、色々な資料を加え、まとめてみました。 初めに、そのプロジェクトのHPの中の案内から抜粋~ 「現代に「空海の道」を蘇らせるべく、2010年9月24日「弘法大師 吉野・高野の道プロジェクト」実行委員会が発足。 高野山開創1200年(平成27年)に向けて、ルートの選定に向け調査中。プロジェクトには奈良・和歌山両県が参加、委員長は村上保壽・金剛峯寺執行、副委員長は田中利典・金峯山修験本宗宗務総長が務める。 また県立橿原考古学研究所や奈良山岳遺跡研究会といった研究機関も交え、12月には実際に踏査をおこなった。吉野と高野山という、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の2大霊場が空海の歩いた道により結ばれ、新たな巡礼道となることを目指す。」 この道の探索の根拠になったのが、平安時代の漢詩文集で、空海の事が書かれた「性霊集(しょうりょうしゅう)」の一文が発端になっています。 「空海少年ノ日、好ノンデ山水ヲ渉覧ス、吉野ヨリ南行スルコト一日、更ニ西ニ向ッテ去ルコト両日程、平原幽地アリ、名ヲ高野(タカノ)ト曰フ」 「幽地」とは「奥深いあの世の世界」のことで、なぜ、そのようなところに行ったのか~~ 空海は774年、讃岐国(現在の香川県)に生まれ、15歳の時、長岡京に上京し、儒学者である叔父さんから論語などの漢籍(漢文で書かれた中国の書籍)をたたきこまれました。 18歳の時、当時、日本にひとつしかなかった官吏養成の最高機関である大学寮に入学。 しかし、15歳の時から漢籍を学んでいたため、大学の授業が退屈だったようで、学友などから聞いていた山岳修行などに興味を持つようになりました。 性霊集に書かれている「空海少年ノ日」とは、当たり前ですが、青年の前のことで、つまり20歳前のことです。 退屈な大学を抜け出し、興味を持っていた吉野に行っていたと思われます。 そこで知り合った山人に、おもしろいところがあるからついてこないかと誘われ、蜂などの虫の影響を受けにくい初冬の頃、その旅に出ました。 その旅の出発点になったのが吉野の手前、大淀町にある世尊寺、当時は「比蘇寺」と言われ、法興寺(飛鳥寺)、四天王寺、法隆寺とともに四大寺院の一つでもありました。 当時は、お寺と言っても、この四大寺ぐらいしか無く、吉野方面に行くには、ここを拠点にするしかなかったようです。 現在は阪本の佛心寺同様曹洞宗のお寺ですが、当時は密教の根本道場でもありました。 (左の写真は世尊寺境内) ここを出発した空海は、金峯山(吉野~山上ケ岳)に入りましたが、この辺は山岳修行の盛んな地であり、神奈備の地でもあります。 神奈備(かんなび)とは、神が鎮座する山や森の神域をさします。 水は人間にとって大事なもの。 今回のルートの吉野上千本に古くからあるのが「吉野水分(みくまり)神社」。 写真は立派な社殿と珍しい中庭を持つ吉野水分神社、「みくまり」が「みごもり」に変じて、現在は安産の神様としても信仰されています。
![]() 話は戻り、その大事な水源地を守る為、その地を神奈備として一般の人達が立ち入れないようにし、環境保全をしています。 その地に入れるのは狩人など、特別に許された山人。 古来、山を安全に歩くには尾根筋を通ります。 川筋を歩くようになったのは最近で、昔の集落は、その尾根に近い所にありました。 尾根筋の多くは分水嶺でもあり、神域でもある場所を、空海は、山人の案内があったこそ、歩くことが出来たと思われます。 この山人は、この辺一帯に居た丹生族に属していました。 「丹」とは鉄などの鉱物をさし、これ等の採掘や精錬、土器製作や土木工事などに関わる人達を「丹生」と呼んだようです。 この人達が祀ったと思われる神社があることからして、この地域で力を持っていたことがわかります。
![]() 写真は下市町丹生川沿いにある「丹生川上神社下社」、今では水の神様が祀られています。 高野山の手前にも「丹生都比売神社」もあることから丹生族の勢力圏を案内されたことが分かります。 この丹生族が活躍出来たのは吉野川水系であった為、決して尾根筋東側の熊野川水系に立ち入ることが出来ませんでした。 以上のような考察から、下記のような尾根筋ルートが空海の歩かれた道だと思われます。
![]() 一泊目は大天井ケ岳付近、そこから西に転じ、乗鞍岳あたり、つまり天辻で2泊目、そして富貴辻を通り大日山から出屋敷峠におり、野迫川の今井峠、天狗木峠を経て高野に辿りつきました。 大学を中退した空海は私度僧(国家試験を受けずに僧侶になった者)として人家の多いところを通り、吉野と高野を行き来するようになったようです。 尾根伝いの道を「高野山開祖の道」として広めるとともに、一般の人達が歩きやすい私度僧として歩かれた道を今後調査し、「吉野高野信仰の道」として広めていくようです。 現在、「すずかけの道」と言われているものですが、次回は、この道について報告させていただきます。 |