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カテゴリ:一般
今日、10日は参議院選挙。 これからの世界、日本、五條、大塔、どうなっていくのですかね? 18歳以上の若い人が選挙権を行使できるようになった選挙、若者はどういう選択をされるのか? 最近の教育現場が少しおかしいと言われる昨今、どのように成長してきたのだろうか? 今日、トイレの掃除をほぼ終え、外に出たら、緑ナンバーのワンボックスカーが障害者用の駐車スペースに停まっており、元気な中学生達が降りてきていた。 十津川の中学生、外部活動に出掛ける時、よく利用される。 時々、同じような場面に出くわす。 引率されている先生のお方に、注意すると、「運転手の方に言っておきます」と~ 自分には責任なく、あまり、悪いという意識は持ってないようだ。 過去、何度か注意しているが、効果が無い。 めっちゃ気分の悪いおっさんがいるぐらいにしか思っていないのだろう。 日本人は素晴らしいという評判を聞きますが、そうでも無くなっていくのかな?
日本のトイレは美しいとの評判。 最近、海外で話題になっているのが、写真のペーパーホルダー。 ワンタッチ式と言われるもので、新しいロールを下から押し上げていくと、古い芯が上に押し出されるとともに、新しいのがセットできるもので、我が家のもこれです。 この便利なものが海外には無いらしく、絶賛されているとか。 確かに便利で、世界的なものだと思っていましたが、違ったのですね! 日本では何気ないことが、絶賛される。 トコトコンこだわる日本人の性格か?
女子トイレの掃除で、汗だくになっていると、ショウタンさんが、久し振りに来られました。 このブログで、時々紹介させていただく山歩きを楽しまれている方で、この辺の山も地元の人よりも詳しい。 今日は、何度か歩かれて大塔から野迫川村にかけて歩かれるそうです。 以前、「すずかけの道」の事を書いておりますが、その道に脚光を浴びせようと活動されている方々は、古い定宿帳の宿の記録をたどりながら、県道53号線沿いのルートを探索されています。 このショウタンさんは、一般の参拝者は、このルートを使ったかもしれないが、行者さん達は、もっと近くて早いコースを辿ったのではないかというのが自説です。 今日は、このコースの一部を再度、検証する為だそうです。
県道53号線は非常に困難な道だったので、天川の和田あたりから天和山方面にあがり、それから滝山から高野辻、そして唐笠山を通り小代下に抜けるコースは以前にも紹介しております。 ショウタンさんは、このコースで唐笠山の手前で殿野の方に下り、辻堂、堂平、飛養曽を通り、 尾根伝いに矢放峠から野迫川 今井の方に抜けたのではないかとのこと(図の水色の線)。 何度も歩かれておられるので、信憑性があります。 今日探索された詳細はHPにアップされると思いますので、興味のある方は覗いてみて下さい。
写真はそのHPの画面ですが、「ショウタンの山歩禄」で検索していただき、その中の「最近歩いた山」をクリックしていただければ、見れると思います。 但し、今日、歩かれているので、少したってからですよ!
先日、長老が借りてこられた「大塔村の昔話」という257ページもある冊子を持って来てくれました。 立命館大学の教授をされておられた岡 節三さん等が、大塔村に来られ調査されたもので、1987年に200部限定でつくられたもの。 昔の吉野郡の10村で調査された内のひとつ。 口伝で伝わったものなので、同じような話が多く含まれております。 一番多いのは「大師と水」で19人の方から聞いておられます。 次に多いのが「河童の薬(錦草の由来)」と「蛇婿入り」で14人、そして「姥捨て山」が12人。 「大師の水」 これは良くある話で、弘法大師さんが通られて、のどが渇いたので水を欲しいと言ったところ、少し離れた川や谷まで水を汲みに行って差し上げたところ、それは大変だと、感謝を込めて杖で地面を突くと水が湧きだすようになったというお話。 多くがこのパターンですが、天川和田に伝わるのが、水を差し上げなかったので、それから水の苦労が絶えないという逆パターンで、これは珍しい話。 「河童の薬(錦草の由来)」 これに関しては阪本の方も語られておりますので、紹介させていただきます。
河童は河太郎とも言われ、これが変化して「ガタロウ」と言われるようになりました。 河童がトイレ中の人にいたずらをしようとして手を出したところ、手を捕まれてしまったので、そのお詫びに妙薬の製法を伝授するというもので、全国的に伝わっているそうです。 これに関し、インターネットで調べていると、「西行さんと歩く 大和の妖怪談義」というHPの中に「ガタロの妙薬」という詳しく書かれたものがありました。 そこに書かれているのは、河童を捕まえたのが大塔辻堂にある浄称寺の蒲生家15代祐玄(スケクロ)さんだったそうで、薬草を仕入れ、お寺で「蒲生錦草」をつくり販売していたとのこと。 その後、販売は更谷商店がするようになり、製薬会社がつくった「辻堂錦草」を紀伊半島大水害が起こるまでは店に並べていたそうです。 この薬は打ち身・捻挫・筋違い・神経痛などに効果があったようです。 さきほど紹介させていただいたHPの写真に薬や看板が載っていましたので、無断で紹介させていただきます。
写真右の薬屋にあった看板は、現在、天辻郷土館の歴史の蔵に保存されているようですので、行かれた時は、是非とも見学してください。
「姥捨て山」 この姥捨て山、「爺捨て山」というのが無かったのか気になり調べたところ、やはり男性は早死にで、あまり問題にならず、長生きする女性が注目されたとの事。 でも、実際にあったかどうかは疑問だそうで、無かったという説が優勢。 この「姥捨て山」という棄老伝説には二つのタイプがあるそうです。 それは「枝折り型」と「難題型」。 「枝折り型」とは~ 捨てに行く時、背中に担がれた姥が、要所要所で木の枝を目印で折っていったそうです。 山に置いて帰る時、息子に道に迷わないように枝を折って目印を付けておいたので、気を付けて帰るように言ったそうで、その子供を思いやる心に打たれ、置いていけずに連れて帰ったそうです。 大塔に伝わる、この伝説は、ほとんど全て、この「枝折り型」になります。 「難題型」とは~ ある国のお殿様が、役に立たなくなった老人を捨てるようにお触れを出しました。 でも、それが出来ない子供は、家の床下に親を匿ったりしていました。 ある時、隣国から、いくつかの難題を突き付けられ、それが解けなければ、国を攻撃し滅ぼすと言われ困っていたところ、床下に隠れていた老人が、その難題を解き、隣国を退散させました。 それを聞いた殿様、お触れを撤回し、経験豊かな老人達を大事にするようになったそうです。
このように姥捨て山伝説の結論は、親を大事にしろという立派なものなので、実際に捨てたことは無かったようです。 外国では、遊牧や狩猟系民族では棄老と言われるものがあるそうです。 部族が移動する必要が定期的に発生し、その時、老人や病人が付いていけないので、少数の家畜と希望介護者を残していったとのこと。 現代日本は、過疎地での仕事は少なく、若者は親を残して出ていくことになり、結果としてこの遊牧・狩猟系民族と同じようになっています。 過疎地が現代版姥捨て山にならないよう、子供達は時々でも帰り、長生きしてもらえるよう、気を配っていただきたいものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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