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道関係

2013年03月27日
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カテゴリ:道関係

 

索道

阪本には「索道垣内」という集落がある。

写真は村史に載っている索道の写真で、「索道」というものの基地があった。

大正時代に「架空索道」なるものが阪本に通じており、阪本の歴史に大きな影響を与えたものである。

昔、この地域の物流は天辻富貴辻から富貴方面に運ばれ「大深(おぶか)」、「田殿(たどの)」を経由し、橋本に至るルートが使われ、五條を経由するることは少なかったようです。

明治36年、現在のJR和歌山である紀和鉄道が開通し、五條も活気づきましたが、五條での十津川や野迫川、天川などの物資集散は2割程度しかありませんでした。

これを何とか五條に集めることは出来ないかと、紀和鉄道を延伸し、阪本まで鉄道を通すことも考えられました。

しかし、その計画は大変なものなので、取りあえず物流だけを何とかしようと、林平造など当時の名士が立ち上がり、当時、殆ど知られていなかった「架設索道」なるものを阪本まで通し、橋本に流れていた物資を五條に集めようと画策。

これが「大和索道」なるものです。

大正6年に阪本まで開通し、物資がどんどん運ばれ活況を呈し、この成功を見て、各地でも設置されていきましたので、大和索道が索道の魁になりました。

この「索道」に関して、まとめてくれないかというお話が以前ありましたが、私のレベルでは、インターネットで探し、それをまとめるぐらい。

しかし、いくら検索しても、いい情報に巡り合わず断念した経緯がありました。

先日、ある調べものをしていたら、すごいHPに遭遇。

北山敏和の鉄道いまむかし」というHPです。

北村さんは五條市の出身のお方で、国鉄に勤務されていたようです。

ソニーの創業者の一人である井深大は国鉄の理事をされていた時期もあり、鉄道関係やエレクト関係の功労者に贈られる「井深賞」を創設されています。

北山敏和さんは、この井深賞を1977年に受賞された凄いお方。

HPでは、鉄道に関することを中心に書かれており、その中に「五條探検隊」というのがあり、更に、その中に、最近アップされた「22 索道」というのがあり、「西吉野や高野山への物資輸送に活躍した索道」というタイトルで「大和索道」などが詳しく書かれています。

大和索道に関しては、このページで完璧に分かります。

写真はそのページを切り抜いたもの!

 

索道HP

 

そのアドレスは~

http://www.ne.jp/asahi/nara/gojyo/sakudo

索道に感心のある方は勿論、「五條」の名前の由来は?など五條の色々なことも取り上げられていますので、訪問されることをお勧め致します。

最後は、その中から無断で転載させていただきました「大和索道路線図」です。

 

大和索道

追記:阪本のお隣「簾」地区、現在は2軒だけの集落になってしまいましたが、吉中さんという方が戻って来られたようです。

車道につながっていない集落の復活は無理なようですが、車道があり、畑もあり、景色もいい簾は田舎暮らしにもってこいの場所。

他にも戻られる話も伝わっており、喜ばしい限り!







最終更新日  2013年03月27日 19時44分07秒
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2013年03月25日
カテゴリ:道関係

 

親族集合

暖かいといいますか、暑いぐらいの日もあれば、肌寒く、ストーブが気持ちいい日もあり、服や布団の調節がややこしくなってきました。

梅が満開になったのを追いかけるように桜も咲き出し、十津川の方では山桜も咲いているようで、慌ただしい春ですね!

虫も動き出し、我が親族も動き出し、今年初めて、長老宅に集結し、持ち寄った料理の自慢話満開!

今度集結するのは山菜が採れ出す頃。

私の山歩き、この辺で、ノンビリ歩ける仲間が居ないので、しばらく中止しておりましたが、嫁さんが歩きたいと言い出したのと、ブログに紹介させていただきました、ショウタンさんの刺激を受け、周辺探索再開しました。

手始めに、気なっていた四か所の探索を考えています。

一発目は、小代入口から小代下に下りる古道。

二発目は、簾の麓から天辻に抜ける古道。

三発目は、天川広瀬から塩野方面に通じる古道探索。

四発目は、以前ロストし迷ってしまった塩谷から簾に向かう道

いづれも、調査しようと思いながら数年以上も放置している案件。

一発目の小代下ルート探索23日に嫁さんとM君同行で実施。

 

小代下散策

ふるさとの森公園から向阪本に登り、小代の入り口、通称「風吹(かぜふき)」と呼ばれている所から小代下に下るコース。

阪本との高低差約170メートル、3キロほどを90分でノンビリ探索。

向阪本から山中に入り、二曲りした先に現れる鉄棒のある家。

長老のお話では「風吹きのオイヤン」と呼んでいた「鎌戸」さんの家。

この辺は風が強く吹き抜けるので「風吹」というのだそうだ!(上図の1)

この鎌戸さんの畑の真ん中の畔を進み右の方へ進むと、やや狭いながらの道に出る。

くれぐれも奥の方の畔を行き、十津川方面に進む杣道らしきものに行かないように!

(ショウタンさんの案内写真の方向はこの杣道になってしまいますので注意)

7年前に来た時、もう少し道が広かったように思うが、少し上から押されてきているようだ。

少し行くと右手に、小代 増田家の放置された墓が現れるが、この辺りから道幅が広くなり、古道らしくなる。

この道は「七曲り」と呼ばれているので、実際、何曲りあるのか数えたら、なんと、21曲がりほどあるクネクネの急坂下り。

知らなかったが「七曲り」を辞書で調べると「幾重にも折れ曲がっていること」と書かれている。

クネクネ道の総称を「七曲り」というらしい。

そう言えば、天川広瀬のクネクネ道も「七曲り」と呼ばれている。

落ち葉に足を取られそうになりながら20分弱で下る。

昔、小代下の人は亡くなった人を火葬する為、小代まで行ったそうだが、その時、この急坂を使い登った為、大変だったようだ。

小代下にはコミュニティ駐車場があり、その横に下りてくる。(上の図の2の写真)

釣り人などがよく利用される駐車場だが、置き方が悪いと住民の方が嘆いているので、ここを利用して登山される方は、端からキチンと駐車して下さいよ!

ここには2軒のお宅があるが、その内の一軒、Yさんに声を掛けると、道はちゃんと残っているかと心配そうに尋ねられました。

長い間、登ったことが無いとのこと!

そりゃ~、用事もないのだから仕方がありませんが、ちゃんと残っていますよ!と報告。

帰宅後、長老と話をしていると、昔は、小代下天の川には橋が無く、とても渡れるような所ではないとの事。

すずかけの道、山越えコース、ここに降りてきて天の川を横切り中原の方に向かったと思っていましたが、どうやら、それは間違いで、小代から西熊野街道を使い、阪本に行き、「馬渡し」という所で天の川を渡り、古野瀬→宇井野のコースをとったのだろう。

「馬渡し」というのは、現在の阪本市場の交番あたりの下側で、丸太橋があったそうだ。

なぜ、遠回りする無駄なコースを取るのだろうかと思いますが、昔は川を簡単に渡れなかったり、急斜面などの自然に逆らえなかったようです。

すずかけの道で、阪本から塩谷に行くのに、川沿いに行けば早いのに、簾の上の方まで登り、塩谷で下るという大きな迂回コースを取ったのも、簾側面の岩の斜面が川まで続き、人を寄せ付けなかった為だとか!

こんな大変な時代、大変な所に多くの人が住んでいたのに、便利な時代になってから逆に人が減っていっているというのが不思議な感じ!

 

先日、国土交通省が1月1日の土地公示価格を発表した。

奈良県北部は全国同様下げ止まり感が出ているようですが、南部は~~

奈良県の住宅地は平均で1.1パーセントの下落。

下落のトップは五條市2.8パーセント、2位は御所市の2.7%下落。

商業地でもトップは五條市で3.7%の下落。

 

地価はどのように決めるのか調べている内にある文書にぶち当たった。

「大都市圏では、地価は日本の経済状況によって左右される。 地方圏では住んでいる市町村の行政によって左右される。」

「つまり、地価は自治体の通知表とも言われており、良い行政では人は集まってくる」

下落率トップの自治体に住んでいる人は悲劇です

「他市町村との差別化や他市町村にはあり得ない一流のものを構築する必要があり、それは一朝一夕に出来るものではない」

「全てが行政の責任とは言えず、それら行政に携わる人達を選挙で選んだ住民にも問題はある」

色々考えさせられる文言が並んでいる。

 

先日、十数年振りに難波をウロウロした。

難波で開かれた「弘法大師の道 シンポジウム」に参加したのですが、シンポ自体には期待したものは何もありませんでした。

感心したのは、難波周辺、昔に較べゴミがほとんど落ちていない。

その美しさに唸ってしまった。

掃除している人達を多数見掛けましたが、どこから給料がでているんですかね?

私がウロウロする奈良中南部で綺麗だと思ったところはほとんど無い。

又、余計な事を書いてしまった。

悲劇の住民の独り言!







最終更新日  2013年03月25日 20時55分40秒
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2013年03月07日
カテゴリ:道関係

以前、高野発見の道について書きましたが、それに加え、信仰の道について書くといったまま放置していました。

現在、ブログから役に立つ記事を抜き出し、加筆修正した小冊子をつくっています。

その中に「すずかけの道」を書き加えましたので、そこからの抜粋ということで紹介させていただきます。

抜粋ということで、少々文章がぎこちない感じになっています。

それと、今回は真面目な記述ですので、ふざけた内容はありませんので、念の為に!

すずかけの道

「吉野高野信仰の道」とは、「すずかけの道」と言われている高野大峯街道です。

この「すずかけの道」は、現在、県道53号線と言われるもので、高野山から野迫川を通り、大塔町、天川村洞川に続くものです。

昔の道は、この県道より左右にづれていたり、上の方を歩くルートでした。

阪本周辺のそのルートは~

 

すずかけるーと

天川広瀬付近から山の上の方に登り、塩野→塩谷→簾を通り、ここで川沿いに下り、阪本→古野瀬→宇井野→小代下へと続きます。

小代下からは中原川沿いに進むのですが、この辺は急激な谷の為、再び登り、現在の中原開拓付近から中原に進みます。

今井付近から川沿いに進み、「上」集落の先にある高野谷から再び急登で天狗木峠に至り高野山に向かいました。

大峯街道碑「上」から天狗木に向かう道は、「高野大峯歴史街道」として整備されています。

以上のルートは上の図面の「すずかけの道(古道)」と書いているルートです。

現在の県道53号線は載せていませんが、県道は天の川と中原川に沿っていますので、それを基準に古道の位置関係を理解して下さい。

このコースを二日間で歩るくのですが、そのほぼ中間地点にあたるのが阪本、宿場として栄えました。

写真は、ダムに沈む前の旅館「いずみや」。

私の実家でもあります。

玄関の奥に、タカばあちゃんが座っているのですが、少々暗くてわかりにくくて残念!

いずみや旅館

阪本以外にも中原や広瀬などの街道沿いにも宿があったようです。

このコース、広瀬までの天川区域は川沿いに歩くルートで、細い木橋を渡り歩く大変なコースだったようです。

この木橋は、増水などで度々流される為、和田から天和山の方に上り、天和山手前の川瀬峠から尾根伝いに滝山→高野辻→唐笠山→行者山→小代→小代下→中原の尾根コースも利用されました

上の図の「すずかけの道山越えコース」です。

大塔の名所である大峯奥駆道を一望できる「高野辻」の名前の由来が、これで理解できます。

高野辻

ほこら又、行者山には岩場があり、そこには朽ちた祠も残っており、山の名前は、行者が修行したところから付けられたと思われます。

祠の裏の方には麓につながる深い穴があると言われており、右の写真は、その穴を確認すべく覗き込んでいる長老。

 

この山越えコースは平地コースの整備が進むにつれ、段々使われなくなり、それとともに、道沿いの唐笠や小代という集落も消えていきました。。

小代は、昔「小田井」とも言われ、五條から十津川に向かう西熊野街道と交差する要所でもありました。

空海の名残

このすずかけの道を空海も行き来したようで、それにまつわる話が色々伝わっています。

天川村は洞川のある方面を「天川郷」と呼び、西側にある庵住、籠山、山西、広瀬、滝尾、塩野、塩谷を「三名七か村」とか「三名郷」と呼ばれていました。

この「三名」という言葉の語源の一説に、弘法大師縁の名前が三か所あったところからきているというものがあります。

籠山の覗き岩=大師が籠り、道場となったのが籠山,そこにあるのが覗(のぞき)岩

白井谷の白井滝(紫流滝)=籠山の横にある白井谷の滝。 この谷には大人一人が横たえることが出来る岩があり、それを仏棚といい、大師が仏様を彫ったと伝えられています。

広瀬の鏡岩=弘法大師が衣で岩を撫でると、鏡になり、修行でどれだけやつれたかを確認したそうです。

この岩がどれなのか探してみましたが、分かりませんでした。

広瀬には他の伝説も残っています。    

川沿いにある弘法大師伝承の菩提樹菩提樹

大師が地にさした杖が根付いて大きくなったと言われいるもの。

写真は、その菩提樹。

この伝承は各地でも残っており、広瀬の伝承では、この辺りの天の川の川音がやかましく、昼寝も出来ないので、大師が杖で地面を突いたら、静かな流れになり、逆に「音無しの淵」と呼ばれるようになったとさ!

中原の磨崖仏不動明王

中原から少し西の方に行ったところにある岩谷山の通称イノン谷と言われるところに、大師が一夜で仏を彫ろうとしたが、間に合わず、片足を彫り残したままになっている仏さんが残っています。

私が覗き込んでいる奥の方の岩肌に、その仏様があります。

片足ということで、足の病気の仏様といわれ、お参りされる人も多かったようです、

でも、足の悪い方がここまで登ってくるのも大変だったと思います。仏縮小版

右の写真の黒っぽいところが仏様です。

昔の街道は、この辺りから先、ハッキリしなくなります。県道53号線の拡幅工事で削られてしまった為で、今井あたりから、53号線沿いに見え隠れします。

 

中原を通る街道の少し上の旧中原小学校の跡地に見事な「長寿桜」があります。

街道を行き来する人達の安全を願い、見守ってくれた桜です。

長寿桜記念

中原を過ぎ、野迫川村に入り、今井を過ぎ、柞原にあるのが野川弁財天

大師が高野大峯往来の時に泊まったと言われ、同じ境内にある妙音院の本尊、大弁財天女像は大師の手によるものだと伝えられています。

このすずかけの道、現在でも山伏姿の修験者が時々通ります。

山伏

山道では無く、53号線を歩く為、一日で歩けるようです。

未明に出発し、阪本天神社境内で昼食、夜遅く到着するハードな1日コースになっているようです。

昼食前、法螺貝を吹くので、来たことがわかります。







最終更新日  2013年03月20日 18時44分12秒
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2012年04月01日
カテゴリ:道関係

高野山を開いた弘法大師さん、若かりし頃、私が住んでいる大塔町、それに、天川村、野迫川村などを通って高野山に辿りついたと言われる道があります。

その道を探り出そうというプロジェクトが発足。

その人達によるシンポジウムが2012年2月26日に開かれました。

そのシンポで発表された内容を中心に、色々な資料を加え、まとめてみました。

初めに、そのプロジェクトのHPの中の案内から抜粋~


「現代に「空海の道」を蘇らせるべく、2010年9月24日「弘法大師 吉野・高野の道プロジェクト」実行委員会が発足。

高野山開創1200年(平成27年)に向けて、ルートの選定に向け調査中。プロジェクトには奈良・和歌山両県が参加、委員長は村上保壽・金剛峯寺執行、副委員長は田中利典・金峯山修験本宗宗務総長が務める。

また県立橿原考古学研究所や奈良山岳遺跡研究会といった研究機関も交え、12月には実際に踏査をおこなった。吉野と高野山という、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の2大霊場が空海の歩いた道により結ばれ、新たな巡礼道となることを目指す。」


この道の探索の根拠になったのが、平安時代の漢詩文集で、空海の事が書かれた「性霊集(しょうりょうしゅう)」の一文が発端になっています。


空海少年ノ日、好ノンデ山水ヲ渉覧ス、吉野ヨリ南行スルコト一日、更ニ西ニ向ッテ去ルコト両日程、平原幽地アリ、名ヲ高野(タカノ)ト曰フ


幽地」とは「奥深いあの世の世界」のことで、なぜ、そのようなところに行ったのか~~

空海は774年、讃岐国(現在の香川県)に生まれ、15歳の時、長岡京に上京し、儒学者である叔父さんから論語などの漢籍(漢文で書かれた中国の書籍)をたたきこまれました。

18歳の時、当時、日本にひとつしかなかった官吏養成の最高機関である大学寮に入学。

しかし、15歳の時から漢籍を学んでいたため、大学の授業が退屈だったようで、学友などから聞いていた山岳修行などに興味を持つようになりました。

性霊集に書かれている「空海少年ノ日」とは、当たり前ですが、青年の前のことで、つまり20歳前のことです。

退屈な大学を抜け出し、興味を持っていた吉野に行っていたと思われます。

そこで知り合った山人に、おもしろいところがあるからついてこないかと誘われ、蜂などの虫の影響を受けにくい初冬の頃、その旅に出ました。

その旅の出発点になったのが吉野の手前、大淀町にある世尊寺、当時は「比蘇寺」と言われ、法興寺(飛鳥寺)、四天王寺、法隆寺とともに四大寺院の一つでもありました。

世尊寺1

世尊寺2

当時は、お寺と言っても、この四大寺ぐらいしか無く、吉野方面に行くには、ここを拠点にするしかなかったようです。

現在は阪本の佛心寺同様曹洞宗のお寺ですが、当時は密教の根本道場でもありました。

(左の写真は世尊寺境内)

ここを出発した空海は、金峯山(吉野~山上ケ岳)に入りましたが、この辺は山岳修行の盛んな地であり、神奈備の地でもあります。

神奈備(かんなび)とは、神が鎮座する山や森の神域をさします。

水は人間にとって大事なもの。

今回のルートの吉野上千本に古くからあるのが「吉野水分(みくまり)神社」。

写真は立派な社殿と珍しい中庭を持つ吉野水分神社、「みくまり」が「みごもり」に変じて、現在は安産の神様としても信仰されています。

 

吉野水分神社

話は戻り、その大事な水源地を守る為、その地を神奈備として一般の人達が立ち入れないようにし、環境保全をしています。

その地に入れるのは狩人など、特別に許された山人。

古来、山を安全に歩くには尾根筋を通ります。

川筋を歩くようになったのは最近で、昔の集落は、その尾根に近い所にありました。

尾根筋の多くは分水嶺でもあり、神域でもある場所を、空海は、山人の案内があったこそ、歩くことが出来たと思われます。

この山人は、この辺一帯に居た丹生族に属していました。

「丹」とは鉄などの鉱物をさし、これ等の採掘や精錬、土器製作や土木工事などに関わる人達を「丹生」と呼んだようです。

この人達が祀ったと思われる神社があることからして、この地域で力を持っていたことがわかります。

 

丹生川上神社下社

写真は下市町丹生川沿いにある「丹生川上神社下社」、今では水の神様が祀られています。  

高野山の手前にも「丹生都比売神社」もあることから丹生族の勢力圏を案内されたことが分かります。

この丹生族が活躍出来たのは吉野川水系であった為、決して尾根筋東側の熊野川水系に立ち入ることが出来ませんでした。

以上のような考察から、下記のような尾根筋ルートが空海の歩かれた道だと思われます。

 

空海の道

一泊目は大天井ケ岳付近、そこから西に転じ、乗鞍岳あたり、つまり天辻で2泊目、そして富貴辻を通り大日山から出屋敷峠におり、野迫川の今井峠、天狗木峠を経て高野に辿りつきました。

大学を中退した空海は私度僧(国家試験を受けずに僧侶になった者)として人家の多いところを通り、吉野と高野を行き来するようになったようです。

尾根伝いの道を「高野山開祖の道」として広めるとともに、一般の人達が歩きやすい私度僧として歩かれた道を今後調査し、「吉野高野信仰の道」として広めていくようです。

現在、「すずかけの道」と言われているものですが、次回は、この道について報告させていただきます。







最終更新日  2012年04月02日 05時17分49秒
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2012年03月01日
カテゴリ:道関係

除雪昨日は未明の雨がドカ雪になり、凄まじい状況になりました。

ドカ雪では、塩カルを撒いても効果が薄く、久し振りの除雪作業。

写真は委託を受けているNさんの除雪風景。

天辻の上の方の除雪が済んでいない段階での私の出勤、スタッドレスの効果が薄くなったマイカーは、オケツを振り振り、恐い想いでの登板になりました。

昼からは、春のような暖かさになり、ドカ雪も、見る見るうちに溶けていきました。

こうして、段々春になっていくんですね~!

3月の予報では、平年並みかそれ以上とのことなので、春の訪れが余計に楽しみ!

 

26日の日曜日、「弘法大師 吉野・高野の道」シンポジウムに行ってきました。

 

シンポ

 

このプロジェクトの中心になられている吉野 金剛峯寺執行長の 田中利典さん、高野山金剛峯寺教学部長の村上保壽さん、橿原考古学研究所所長の菅谷文則さんのご三人でのシンポジウム。

さすが、このくらいの人達だと、お話されている内容がすばらしい。

普段、お寺で聞くお話とはレベルが違うような感じ!

このシンポ、例のICレコーダーでバッチリ録音していますので、ジックリ分析したいと思いますが、その詳しい分析結果は後日報告ということで、今日は、弘法大師の道がどうなったのかの報告だけに致します。

 

弘法大師の道2

春秋に開かれる佛心寺の教会法要に来て下さる世尊寺が出発点だというお話にビックリ。

このお寺、何度か名前が変わっているようで、昔は比曽寺といって有名なお寺だったらしい。

この道の事が書かれている「性霊集」という、空海の事を書いた詩文集によると「少年の日に吉野山から1日南行し、さらに西に2日間歩いて高野山に至った」と書かれています。

吉野山から大峰奥駈道を南下し、大天井ケ岳というところで、方向を西にとり、洞川付近に至る。

この辺までが1日目、今、歩くとしたら、1泊目は大天井ケ岳手前の「二蔵宿小屋(にそうのしゅくごや)」に泊まるか、洞川まで下りて泊まればいい。

二日目は扇形山から西吉野町と天川村の境界稜線を辿り、天狗倉山高城山を経由し、天辻そばの乗鞍岳から富貴辻に出る。

この辺が二日目の宿泊地になるので、少し下りて星の国に泊まるのがいい

最終日は、富貴辻から大日山を通り、損保谷奥の出屋敷峠に向かう。

この稜線は阪本区所有の造林地との境界になるところ。

出屋敷峠から、更に稜線を進み、野迫川村の今井峠天狗木峠に至り、そこから最終の高野山というのが、今回決まった弘法大師のルート。

こうして歩いてきた稜線は、吉野川と熊野川を分ける分水嶺でもあるのですが、これが、このルートを決めた重要なポイントでもあります。

この辺の詳しいお話、今、シンポのお話を詳しく調べたりしていますので、後日、色々肉付けしてから、第二弾としてご報告致しますので、お楽しみにして下さい。

今日は、この辺で~!







最終更新日  2012年03月01日 16時21分32秒
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2012年02月15日
カテゴリ:道関係

 

2月15日

今朝、7時頃、急に雨から雪にかわりました。

春先に多いボタン雪。

この辺では、道には積もりませんでしたが、天辻ではシャーベット状に~!

9時頃には、ほとんど雨になりました。

昼ごろ止むとの予報でしたが、ほぼ雨の一日に~!

 

家の前のやかましい工事が始まったこと以外は特に話題もないので、昨年の秋に予定していて陽の目を見なかった記事を紹介致します。

2/15カメラ軌跡以前に書きましたが、私の現在のカメラはGPS機能付き。

常に位置情報を記録しており、そのSDカードをパソコンにさし、グーグルアースを立ち上げると写真のような軌跡が現れます。

カメラは腰にぶら下げ、車で移動していたのですが、キッチリと軌跡が残っています。

この軌跡は、昨年の秋、天辻でお掃除終えてから、その足で高野辻、そして、そこから延びる工事中の林道高野辻阪本線の探索に行った時のもの!

こういうGPS軌跡を見なくても、グーグルアースで地図を見ると、その工事中の道が八ッキリと見ることが出来ます。

次の写真は、その地図を利用し、分かりやすくする為に書き加えたものです。

 

2/15高野辻阪本線予想図

上の図で薄い橙色の線が工事が終わっている所。

その先の水色と赤色の線は私が適当に予想したもの。

この工事、森林環境保全整備事業の一環で、本来なら平成27年に阪本までつなげる計画でしたが、五條と合併してからは、あまり熱心に取り組まなくなり、大幅な遅れ。

ここにも合併の弊害が~!

この遅れを取り戻すことはせず、阪本までの完成を諦め、1年で200メートルほど工事を進め、平成27年に唐笠山付近のところで事業を中止するらしい。

上の写真で水色の線のあたりが終着点予想。

その先の赤線は、阪本まで、どのようなコースで行く計画だったのか、適当に予想したもの。

多くの人の話では、唐笠山から行者山付近をまわり、阪本小学校の所に出てくるというもの(赤色の右側の線)と行者山から向阪本の方に下りてくる(赤色の左側の線)のがあり、それを、こんな感じかな~と書いたものです。

2/15阪本線先端部右の写真は、この工事の先端部。

手前部分が先端になります。

幅3.5メートルの道で、将来的には、この道から多くの作業道(2.5メートル)をつくり、木の搬出や整備に利用するようになっています。

人工林を切り出した後は天然林誘導を目指す動きがあり、いづれは自然の美しい林道に変貌していくかもしれません(今でも結構自然林があります)。

この林道、ほぼ尾根づたいに走っている為、景色も見応えあります。

下のパノラマ写真は、この先端部横の尾根から天川側方面を撮影したもの。

 

2/15阪本線パノラマ

どうですか、素晴らしいでしょう!

阪本まで開通したら、この景色も簡単に見にいけたのに残念。

この工事に関する諮問の中でも、観光にも利用出来るのではないかと書かれています。

唐笠山や行者山と絡めて、立派な観光的資源になるかもしれません。

最後に、お向かいの解体工事、今日の姿!

 

2/15解体

 







最終更新日  2012年02月15日 17時29分23秒
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2011年03月21日
カテゴリ:道関係

昨日から雨模様、お彼岸といえども車の量は少ない感じ!

お墓参りに帰省する人が減ったというよりは、お墓自体都会に引っ越ししていて、帰省する必要が無い人が多くなったんだという気が致します。

寂しくなった故郷を元気にしようというグループが、お隣の西吉野町にあります。

その名も「賀名生の里地域活性プロジェクト」、そのプロジェクトなどが中心になり、13日(日曜日)に開かれた「賀名生の里ウォーキング」に参加してきました。

 

ウォーク

 

五條駅から少し歩いたところにある通称「八幡さん」と呼ばれている「統(スエ)神社」に集合。  正確な人数は分かりませんが、約60名前後の人達。

私たち夫婦とよく似た年代が中心。

カッキー君館長西吉野のカッキー君も駆けつけ、最初は主催者の「賀名生の里歴史民俗資料館」の館長さんのご挨拶から始まりました。

この館長さん、晴れ男らしく、この日も快晴のウォーク日和!

館長さんの名前はあまり公表されておらず、愛称「コゲ館長」、このお名前でブログも作られておられますが、名前の由来を聞こうと思っていたのに、聞き忘れました。

私と同じ62歳の方で、神職の資格を取る為、2年間通信教育を受け、どうやら、最近資格を取られたようです。

何の為に取ったのかお聞きしたところ、例の大きな銀杏がある「丹生神社」の神主さんを務められるとか~!

凄いお方なんですね!

 

新装なった吉野ストアーの少し先から五新線跡の道に入っていきました。

このウォークには京都造形芸術大学非常勤講師であり旧街道研究家でもある「北原 仁巳」さんが同行され色々な見どころや歴史の説明をしていただきました

 

説明

上の写真は御霊神社本宮での説明。

五條周辺にはこの「御霊神社」の名前が付いたのが多数みかけますが、この本宮を宮分けしたもので、その数は20社もあるそうです。

神社などには必ず左足から入りなさいとか、お賽銭を出す前に鈴を鳴らし、必ず神様を起こしてからお賽銭を入れる姿をみてもらうと効果があるとか、ほり投げるのではなく、静かに入れ、金額は5円(ご縁)か45円(始終ご縁)などがいいというタメになるお話満載でした。 

片道約8キロのコースを約2時間ちょいで歩き、梅見物で賑わう賀名生の里に到着。

トップの写真でも分かるように、本当にいいコースで、秋にも開催する予定らしいので、それにも参加してみたいと思います。

いつでも好きな時に歩けばいいようなモノですが、こういうイベントを利用すると、解説があったり、特別拝観があったり、更に物産展なども開催されたりで、楽しみが倍増します。

今回もウォーク参加者には天皇の皇居であったとされる「堀家住宅」に入ることが出来、しかも座敷でお吸い物までいただきました。

 

堀家

写真は堀家内部、写っているのは私達ではありませんが、ここで持参したオニギリなどを食べ、同じように参加された佛心寺会計の奥様に美味しいコーヒーを立てて頂きました。

ソムリエの資格を持っておられるそうで、本当に美味しかった。

奥様、幅広い趣味をお持ちのようで、道程、色々な話を聞かせていただき、勉強になり、楽しく歩けました。

帰路はバスで帰ろうかと思っていましたが、楽しい道連れが出来たので、歩いて戻ることにしました。 下の写真は奥様同志!

写真下の方に写っているのは蜂の巣箱!

 

帰路

 

組木

資料館付近や旧小学校校舎で西吉野物産展や演奏などのイベントが開かれました。

そのお店の中に宇陀郡御杖村で立体組木を作られている松村さんという方のお店がありました

どうですか、この出来栄え、惚れ惚れします。

今後の参考にと、有り金叩いて買い求めましたが、8センチぐらいの厚みを刳り貫くような電動糸鋸は無く、特殊なものを使用されているそうなので、私なんぞでは無理なよう~

うまく木目を生かし、こういうものを作れるのは先天的な芸術センスなのか、それとも努力でなんとかなるものなんですかね~?

こういう木工品を作ってみたいな~!

松村さんも60歳ぐらいから始められたようです。

証明書今回のウォーク、春の快晴の下、楽しく歩かせていただきました。

久し振りに歩いたのと、靴がもひとつだったので、足が痛くて~!

五條には「大和社中」や「うちのの館」などの地域活性化NPO団体がありますが、こういう催し物を積極的にする「賀名生の里歴史民俗資料館」は、どちらかのNPO団体に属しているのだろうと思っていたら、なんと、「西吉野町 和田自治会」さんが指定管理者になっているとのこと。

賀名生のあるところを和田といいます。

凄いですね!!

どこかの自治会と雲泥の差、頭下がります。 







最終更新日  2011年03月21日 22時23分29秒
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2010年11月30日
カテゴリ:道関係

今日で11月も終わりですね!

いよいよ師走、道の駅の掃除を頼まれて満2年、一日も休まず、よく続きました。

人間の裏側、ジックリ見させていただき、田舎に来て人間不信になるとは思いませんでした。

先般書きました「性悪説」の考えで見るようにし、心穏やかに~~!

昨日、晴天のもと、和歌山 田辺市中辺路町の「古道歩きの里 ちかつゆ」に行き「お手軽古道歩き満喫プラン」なるものを楽しんできました。

ちかつゆ飯参加したのは高い方のプランで、「イコー コドー」をもじった1550円のプラン。

セット内容には「古道歩き」+「熊野路レストランの食事」+「温泉入浴」+「お買い物割引券」。

「古道歩き」には2種類あり、今回は4.5キロ90分の「継桜王子コース」を選びました。

写真はその時の定食、私は非常に満足しましたが、嫁さんは梅干や紫蘇が食べれないので、もひとつといった顔をしてました。

その後、DVDで古道の説明を観て、更に、今回歩くコースの注意点などを聞いてから、バスで出発地点まで送っていただき、その後は各自の責任でパンフレットなどを見ながら歩き、もとの「ちかつゆ」まで戻ってくる設定。

 

とがの木茶屋

コースの詳しい説明はやめますが、出発してすぐに「野中の清水」という大きな湧き水があり、そこから少し上の方に登ると、上の写真の「とがの木茶屋」というテレビなどにもよく登場するいい雰囲気の街道があります。

その少し横に本命の「継桜(つぎさくら)王子」と、そこにある杉の大木「野中の一方杉」をみて、「比曽原王子」、「近露王子」を見る、本当にロケーションのいいコースでした。

この「ちかつゆ」の前後は中辺路の中でも特にいいとこらしく、古道の雰囲気、景色を堪能出来るとのこと!

今回、想定外だったのが、このコースの中に「野長瀬の墓」があったこと!

実は私、母方の姓を継いでいるのですが、本来の姓は「野長瀬」なんです。

中辺路に、この野長瀬の本家筋?の有名なお墓があるとは聞いていたのですが、どこかも分からず、その内、歩いて探してみようと思っていたら、偶然にも遭遇!

今回、スマフォのGPS機能で歩いた軌跡をとったのですが、胸のポケットに入れたままではいい軌跡はとれないだろうと期待していませんでした。

それがどっこい、すばらしい精度で記録されてました。

 

軌跡図

 

トイレでウロウロした分までキッチリ記録されており、航空写真の映っている道路ともバッチリ合っているその精度に唸ってしまいました。

「野長瀬の墓」は古道沿いの山の中にあるのかと思っていたら、「古道歩きの里 ちかつゆ」からすぐ傍で、車でも行ける所にあります。

 

野長瀬の墓

いろいろ、細かいことを書きたいところですが、親戚以外の方には興味ないことだと思いますので、そこにあった説明文を載せておきます。

 

野長瀬説明

この野長瀬は、この「近露」の地に居た人達らしく、その後、十津川に行き、なんと、逃避行中の「大塔の宮 護良親王」を救ったそうです。

阪本のある「大塔町」は、この護良親王から由来した地名であり、野長瀬一族が、この護良親王を助けた人達だったとは不思議な縁で繋がっているものだと感激!

姫伝承救った功績に対し「横矢」姓を賜わり、以降、分家筋はこの姓を名乗ったそうです。

又、側女として仕え、王子まで授かったとの説明がお墓の横の一角にありました。

又、どこにあるのか存じませんが、野長瀬家の庭には中辺路町の天然記念物で紀南を代表するしだれ桜の銘木があるらしく、その種から出来たものを移植した桜が、このお墓の敷地の端の方にありました。

さと桜」という名で、来年の春、「牛馬童子コース」を歩くのと、この桜を観に行こうかと思ってます。

 

 

さと桜

 

このお墓から少し下っていくと、「長瀬晩花生誕の地」と書かれた古民家が道沿いにあります。

有名な日本画家らしく、この作品は和歌山県立美術館や田辺市立美術館、それに、この生誕地のすぐ傍にある「熊野古道 なかへち美術館」に展示されてます。

 

生誕の地

私が行った月曜日は「なかへち美術館」はお休みで、12月は更に休館日が増えるようですので、もし、行かれる時はHPを見られ、調べてから行かれることをお勧めします。

ちなみに、どんな作品なのか、無断で掲載させていただきます。

晩花1晩花2

 

 

 

 

 

 

この「ちかつゆ」の里が野長瀬の里であったとは、有意義な一日でした。

わたらせ温泉

旅の最後はホームセンター「コーナン」の系列?である「わたらせ温泉」の大露天風呂を楽しみました。

西日本一とかいうだけあって、さすがに大きく、久し振りにゆっくり堪能!

写真の二つの露天風呂の先にも小さいのが3ツもあります。

写真に子供が写ってしまってますが、別に幼児の裸に興味があるわけではありませんので、念の為に~!

もっといい角度の写真があるのですが、それには、シッカリとオチンチンが写ってしまっており、仕方なしにこの写真にしました。

この「わたらせ温泉」といい、「ちかつゆ」といい、非常にいいのですが、そこで受け付けているオッサン職員、過疎地の人員不足で、あまり商売に向いていないといいますか、教育も出来ていないので、態度の悪さが気になります。

この辺が過疎地の課題といいますか、商売っ気の無さが問題。

私も、愛想の悪いのでは、人に負けてませんので、偉そうには言えませんが~!

念の為に書いておきますが、今回参加したお手軽プラン、今日で終わりですので、又、来年にでもお問合せ下さい。 ただし、古道歩きは年中してますので、いつでもどうぞ!

昨日、月曜日ということで参加する人は居ないのではないかと思いましたが、団塊の世代が~!







最終更新日  2010年11月30日 19時55分02秒
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2010年08月13日
カテゴリ:道関係

今日の産経新聞奈良版に「空海の道開く」という記事が掲載されてました。

記事によると、弘法大師が高野山・金剛峯寺の開山に際して吉野山・金峯山寺から歩いて候補地を探した道を特定し、「弘法大師の道」としてよみがえらせ、世界遺産の2大霊場を結ぶ新たな巡礼道とするプロジェクトに奈良県や両寺が乗り出したとのこと!

高野山開創1200年(平成27年)に向けて確定作業を進めるらしい。

 

弘法新聞記事

 

この記事をなぜ紹介したかといいますと、3年ほど前の別冊「阪本便り」で、阪本分収造林地の境界道が、その調査の対象になっているらしいことを報告していたからです。

その道とは、損保谷から始まる732号線を進み、和歌山県との境界になる出屋敷峠から山に入り、尾根伝いに大日山から天辻の富貴辻に至る道です

調査板その道には写真のような標識が木にくくり付けられており、この道が調査対象になっていることが伺えます。

富貴辻から吉野方面へは天川村を通っていくらしいですが、どのルートが有力なのか知りません。

又、出屋敷峠から高野山へ至るルートも知りません。

もし、このような表示がある場所をご存知の方は、その場所を教えて下さい。

このルートが認知され、脚光を浴びれば、この道のそばにある星の国の宿泊施設も脚光を浴びる可能性があります。

記事にもあるように、空海の弟子がまとめた詩文集「性霊集」によると、空海の少年の時に3日かけてたどり着いたという記述があるそうです。

当然、途中での宿泊が必要なわけ~!

十津川「昴の郷」が小辺路の宿泊拠点になっているような位置付けになる可能性大。

このルートが完成されれば、大峯奥駈道・小辺路を加えた世界遺産大環状ルートが出来上がることになります。

今後、どのように進められていくのか楽しみです。

最後に見にくいですが、分収造林地の地図を載せておきます。

左の方に黄色の線で描いている出屋敷峠から富貴辻に至るのが、この候補地。

赤い線が多数描かれている所は分収造林地です。

 

分収地図

 







最終更新日  2010年08月14日 10時56分21秒
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