佐野市の近代化と田中正造
栃木県の佐野市郷土博物館の企画展、佐野の近代化と田中正造を観て来ました。【栃木の偉人田中正造】田中正造といえば足尾鉱毒問題に取り組み、明治天皇へ直訴した人物として教科書に載っていると思います。田中は佐野市の名主の家に生まれ、明治政府が行った地租改正に測量スタッフとして参加しました。その後経済発展に賛同し、積極的に援助を行いました。そうして培った人脈を生かして県会議員、衆議院議員になります。さらに栃木新聞(現在の下野新聞)の編集長となって政治活動を行いました。政治活動の中で足尾の鉱毒問題を知り、解決に奔走しました。そして教科書にも載った天皇への直訴を行い、その後没するまで鉱毒の被害の調査を続けました。【佐野の近代化と田中正造】明治時代の日本は伝統産業が近代化するだけでなく新しい産業が興り、さらに身分の制約なく参入できるようになりました。こうした中で急速に近代化が進み、佐野市では石灰業が盛んになり、それに伴って鉄道も整備されました。しかし発展を優先するあまり環境や人々の健康は後回しにされ、渡良瀬川流域は鉱毒の被害が広がって行くことになりました。本展では佐野の近代化を資料とともにたどることができます。また、田中正造の政治家時代の姿も見ることができます。【運命すら感じるその生涯】吾輩が学生の時、歴史の先生が栃木県出身で日本中誰でも知っている人は藤原秀郷と田中正造だけだと言っていました。小学校には田中正造の写真が飾られていました。当時はあまり意識していませんでしたが、今回の常設展示で田中の生涯を見ると、知らないことがたくさんありました。田中は非常に強情な性格であったようで、幼い頃は両親の手を焼かせたそうです。国会議員時代は不正や鉱毒問題について罵詈雑言を使って糾弾するという手法をとっており「栃木にすごいヤツがいるらしい」と話題になったようです。そして天皇への直訴の際は「職責を汚す」として議員を辞し、一般人になった上で行いました。田中は鉱毒の河川調査中に足利で病に没します。病床に臥せっている時も看護師に「皆田中が病気になったと心配しているが、私が取り組んでいる問題の心配をしている者はいない。君は帰っていいから田中がそう言っていたと皆に伝えてくれ」といったことを言ったそうです。こうした彼の言動に、武士のごとき意志の強さを感じました。田中の生涯について資料を見ると、運命のようなものを感じました。政治家という一般時よりも発信力のある仕事をしていたからこそ、鉱毒問題を多くの人が知る所となったと思われます。経済発展を優先する当時の風潮では、こうした問題に物申すのは勇気がいる行為であったでしょう。天皇への直訴といい、強情とも言える意志の強さがあったからこそこうしたことができたのでしょう。直訴後も渡良瀬川流域の河川調査を精力的に行い、しっかりとしたデータを元に政府への改善を要望しようとしていたそうです。感情論に走らないエビデンスに基づいた活動によって問題を解決しようとする姿勢は、現代の我々も大いに見習うべき所だと思います。それが可能だったのも若い時に測量に携わっていたからであり、巡りあわせを感じます。身近にこれほど偉大な人物がいたとは、なんだか感慨深いです。もはや大河ドラマにできそうな人生だなあと思いました。本展は2022年6月19日まで開催中です。常設展示も含めるとかなり見ごたえのある企画展です。皆さまをぜひ足を運んでみてください。よかったらクリックお願いします。にほんブログ村