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坂野上事務所・本音の日記

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September 21, 2010
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こちらのブログをやめてアメブロに引っ越してから随分経ちますが、最近、引越ししたことをご存知でない方からお問い合わせをいくつか頂いておりますので、引越し先(こちら)をお知らせします。

http://ameblo.jp/sakamann/

しかし、今でもアクセス数が30ほどあるのにはビックリ。アフィリ中心でしょうが・・・。






最終更新日  September 21, 2010 11:39:17 PM
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March 30, 2010

カテゴリ:カテゴリ未分類
http://ameblo.jp/sakamann/entry-10495679882.html






最終更新日  March 31, 2010 12:25:04 AM
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September 21, 2009
カテゴリ:カテゴリ未分類

以前も似たようなテーマで書いたかもしれない。しかし、民主党が政権を取ってからこと、エコについて何か違うような路線を歩み出したような気もするのでもう一度自分の考えをまとめてみようと思う。

エコロジーというのは我々が住む地球上の環境が(主に人間の活動によって)変えられていくのを防ぎ、祖先から頂いてきたこの自然環境を次世代以降につなげていこうという考えだと思っている。この考え方には無論、賛同するのであるが、「エコ」と略されると何か違うものに捻じ曲げられてしまうような気がする。あまりにも白黒はっきりつけたがるというか、「エコ」様がこの世で一番偉く尊い存在であるが如く扱われているような気がするのは私だけだろうか?

中でも一番胡散臭いのは「二酸化炭素の温室効果」という点だ。温室効果というのは地球上の大気が熱せられて気温が上昇し、我々の住環境を変えてしまう効果のことをいうらしいが、確かにそれはそれで危惧すべきことではある。しかし、本当に大気中に存在する気体の中で二酸化炭素だけが極端に温室効果が大きいのか?もっと他にも温室効果が大きいものがあるんじゃないか?それとも、そんなに温室効果のある気体自体がもともと存在しない?

一つ仮説を立ててみることにする。

実は、温室効果というのは人間の活動に関係なく長い周期で見るとここ数十年は何もしなくても地球上の気温が高くなる時期であり、二酸化炭素にもそんなに温室効果はないとしよう。すると二酸化炭素を悪者に仕立て上げた者、それに乗った政府や各産業団体はかつての富士山噴火説を唱えた学者のようにバツの悪い時期を過ごさなければならなくなるが、逆にこの「二酸化炭素の温室効果」と「地球温暖化」を結びつけた誰かの本当の目的は何かを考えてみると面白い。

本来、エコというのは人間の気まま勝手な活動により消費、ときには浪費される限りある物資をもっと大切に使うようにして、資源をあまり消費しないことにより地球環境を保持しようとする考えに立っているのは間違いない。私はエコはとても地味で、経済とは対立軸にあるものだと思っていた。人間の消費活動を抑制し、もって地球環境のためになることをしようというのだから至極当然だと思う。しかし、経済とエコの利害を一致させるとどうなるか?

先ほどの仮説が真実に近いものとするならば、エコを言い出したのはおそらく経済との利害を一致させたい者がいろんな学者を口説き落としてこの世に広めていったものと思われる。その筋道はこうだ。

今や先進国では食べるものはおろか、耐久消費財に至るまで隅々まで行き渡り、もはや欲しいものはなくなってしまった。これは経済成長や世界景気というものを考えるとそれらの牽引役である先進国が早晩、経済的に行き詰まってじり貧になることを意味する。そうなるといずれその影響は新興国や開発途上国にまで及び世界経済は破綻の憂き目にあうことになる。それは困るから先進国でもこれまで同様、経済需要を喚起しなければならない。そこでにわかに懸念されていたのがオゾンホールの拡大や地球温暖化という環境汚染だ。これに経済を結びつければ需要が引き起こすことができると考えた頭のいい人がいたのだろう。

つまり、「今すでにいろんな耐久消費財(車、テレビ、エアコン、冷蔵庫など)をお持ちだろうが、それらは地球環境に配慮しなくてもいい時代に作られたものだ。だから、それらをそのまま使い続けると地球環境に良いはずがない。よって、それらを手放して地球環境に配慮された新製品を買うことによってエコロジーに寄与するのだ」とした訳だ。エコには道徳心がつきまとうから、買換えすることによって自身の善良さが自覚できる。しかし、古い時代に作られたものと今の時代に作られたもので地球環境にどれだけ影響の違いがあるかというと殆どないに等しいという寸法だ。エコが経済需要を引き起こす買い替え需要のエサにされてしまったという訳だ。

では、何故二酸化炭素だけが悪者になるのか?確かに二酸化炭素には温室効果があるらしい。しかし、それの何十倍も温室効果のある気体が我々の周りに存在している。それは何かというと水蒸気だ。やかんを火にかけておくとしばらくすると沸いて出てくるあれだ。その様を見ていると(目に見えるのは水蒸気ではなく、湯気であるが)確かに熱を伝える力は相当なものがありそうだ。湿度が高いときも蒸し暑く感じるとともに、その状態が続くと温帯も亜熱帯くらいになってしまうと言われるとそうかな、と納得してしまう。それほどの物質なのに何故かエコにはとんと登場しない。

まず、二酸化炭素以上に身近な水蒸気を悪者にすると俄にエコ自体が胡散臭さを放ち、人々への広まりが困難になってしまう懸念が出てくる。そんなことを政府が発表するとその国でパニックが起こるかもしれない。何せ、「明日からお湯を沸かすことを禁止する。湯沸しはエコに反するからだ・・・」なんてことになりかねないから・・・。それと、水蒸気には温室効果とともにマイナスの温室効果をも兼備している。つまり、水蒸気が多くなるとやがて雲になり地球に太陽光が届かないようにする効果が出てくるということだ。だから水蒸気自体は大きな温室効果を持っているが、マイナスに働く場合もあるためいろんな面でややこしくなるから悪者にされなかったのだろう。

では何故二酸化炭素なのか?やはり化石燃料から出る気体だからだろう。化石燃料の大量消費国はこれから先進国より新興国にシフトする。人口も経済規模も大きいし、何といっても経済の延びしろがあるから当然の成り行きだと思う。しかし、これまでの世界経済を牛耳ってきた先進国としてはそれを座して見守るというのはとてもじゃないができることではなかった。そこでこれから延びてくる新興国に一定の消費枠をエコを使って設けたのではないだろうか?「我々先進国はこれまでたくさん化石燃料を使ってきたけど、これからは地球環境のことも考えないといけないから君達新興国はこれまでとは違うよ」という筋道を作ったのだ。ここでもエコの持つ道徳心をくすぐる力というのは大きい。

二酸化炭素を悪者にすることによって買換え需要が起こるのはどんな商品か?車、バイク、機械に至るまで化石燃料を消費するものは全てにこの需要が起こり得る。なかなかよく考えたものだと思う。実際、現在の我が国でもエコカー減税とかいってエコカーに買換えた者に税の特典という形で買換えのインセンティヴを与えている(私は税のために買い換えるというのは本末転倒であると常々思っているが・・・)。

もともと、日本というのは資源がない国だからこの小さな島の上にあるものでしか生活ができなかった。だから我々のDNAには「もったいない」という意識が深く刻み込まれている。このことが戦後の経済成長にうまく利用され、モノづくり国家として巨万の富を手に入れることができたのだと思う。これはこれからも未来永劫、我々の民族の武器となっていくであろう。その「もったいない」という精神があるから我が国のエネルギー効率は世界でもトップクラスだ。つまり、少ない資源で大きなエネルギーを手にすることができる、太古からのエコロジー国家なのかもしれない。

前政権時の誤った国土計画により山林などの自然破壊が進み、また、工業化により公害を引き起こすなど我が国も環境汚染が進んでしまったからことさらエコを言いたくなるのは分かる。しかし、我が国はもともと「もったいない精神」に富んだ国であり、エネルギー効率は世界一高いといっても過言でないくらいエネルギーを消費しない国だ。そこにきてエネルギーを25%削減とか乾いた雑巾を絞るようなことを言っても何かぴんとこない。数字をいうのは格好いいが、もともと資源を消費しない国が25%削減したところで全世界的な見地でどれだけ地球環境に貢献するのだろうか?この高いエネルギー効率を駆使した機械なりシステムなりを世界に輸出してこの分野のリーダーになることこそが本当の意味での我が国の地球環境に対する貢献だと思うがいかがだろうか?

少なくとも国内ではもったいないことはやめようというかつての「省エネ」のような国民活動で十分だと思うが。ここでもエコが政治に利用されているのだろうか?

(注)この仮説はあくまで仮説であり、真実は不明。







最終更新日  September 21, 2009 11:55:12 PM
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September 10, 2009
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標題のようなことを聞かれたらどう答えるだろうか?確かに日本人に限らず、国民性というのはいろいろあってこれだ、と一つに絞ることはなかなか難しい。しかし、私は日本人の特性を聞かれたら迷わずこう答えると思う。

「周りと同じであろうとすること」。

今まで何度もここに書いてきたが、私の仮説によると日本人は大陸から追い出された者が東の端に見つけた島に住み着き、いじめられた苦い経験のある者同士一定のルールを作って暮らし始めた。このルールというのは「みんな仲良く」すること。二度と大陸のような争いに巻き込まれないためにも、そもそも争いごとをなくせばみんなうまくいく、という発想だったのだろう。だから「みんな仲良く」暮らすことが何より大切な訳だ。

では、「みんな仲良く」するためにどのような知恵が出てきたか。やはり、平等であろう。みんな同じであれば仲たがいすることもない。平等の実現がなされたことはなかったにせよ、どの時代の日本人もそれを目指してきたと思う。そうでないと、恵まれている層と恵まれない層との間でいつも仲たがいが起こる。この理想と現実のギャップを「身分」というもので納得させられてきたのであろう。そこで、「仕方がない」という仲良しグループを維持するのにとても都合のいい感情を表す表現ができたのだと思う。

また、仲良しグループを恒久的に維持していくためには嘘つきを廃除しなければならない。嘘つきを野放しにしておくといつグループ内の信頼が崩れ、ひいてはグループ自体が崩壊する危機につながるかもしれないからだ。日本人は実害の有無にかかわらず嘘つきを非難する。これはいいことなのだが、いきすぎる部分もある。最近の例でいえば、産地偽装など。それによって食中毒が起こるとかいう訳でもないのに、また、数日の賞味期限を過ぎたものを売ったということで会社が潰れることもある。これも偏に日本人の嘘つき嫌いのなせることであろう。

もう一度言うが、日本人の最大の特徴は「周りと同じであろうとすること」だ。つまり、みんなと同じ色でい続けるということ。それによって大陸という怖いところとは隔離された、自分達だけの弱い者パラダイスを維持できるのだ。

この特性もいいところもあれば悪いところもある。いいところの例は、やはり教育と道徳が同じ方向性で教えられ(最近はそうでもないかもしれないが・・・)、国民全体の底上げができることだろう。戦後の経済成長はこの国民性なしではここまで成功しなかったと思う。この国民の上に優秀な「お上」が立ってリードしていけばその方向が間違っていない限り全体が向上していく。この「全体」を考えた場合、日本人のこの特性はかなり大きなアドバンテージとなる。

しかし、最近ではこの国民性の悪いところも露呈している。どうしても周りと同じ色でいようとするため、ちょっと変わったことをする人や妙な感じで優れている人を叩いてしまうのだ。「出る杭は打たれる」ってやつだ。出る杭は周りとは違った色となる。これはどんなに優秀でも周りの色とは違った色になり、全体の和を壊す可能性が出てくる。だから打ってしまえ、ということだ。これは現在のように社会が変化を求めるときに足を引っ張る。何か今までどおりではないことをしようとしても、妙に保守的な年長者によってその芽を摘み取られてしまうのだ。

2週間ほど前、この国で信じられないことが起こった。衆議院総選挙で今までこの国を支配してきた「お上」にNoを突きつけたのだ。国の支配者を国民自身の手で変えたのはある意味、日本史上初のことではないか。我が国にも他の民主主義国家並みの経験値が加わったのかと思う。

自由や民主を標榜する欧米諸国はほとんどが国の体制を国民の力で変えた歴史があったり、国の成立に携わった経験があったりする共通点がある。だから我が国ほど「お上」が偉くならない。車を降りれば運転者も歩行者という交通弱者になるのと同じで、「お上」もその立場を離れれば一国民であるということを我が国よりはよく分かっているのだろう。しかし、我が国では「お上」は一般国民とはかけ離れた特権階級だ。よっぽど極悪な犯罪でも犯さない限りニュースでも名前は出ないし、仮にそのようなことがあっても仲間が国家権力というとてつもない力を使って全力で守ってくれる。そして、何といっても仕事の最終責任を取らなくていい。選挙で落選すればただの人となってしまう与党議員が代わりに責任を取ってくれるからだ。中学生の頃、インドではカースト制度という身分制度があると習ったが、我が国にも今だに極端な身分制度が存在するのだ。

こんなパラダイスのような身分で、実際に行われているのは学生時代の延長線上にある出世競争だけ。はっきりいうと、こんなの自己満足にすぎない。「お上」の本分は国民の奉仕ということになっているが、そんなのはおかまいなしだ。「英語で98点取った、お前は90点か、俺の勝ちだな」。こんなことと大差ないことが各省庁で行われているのだろう。そこに仕事の「本当の」成果は関係ない。

そんな「お上」が今まで守ってくれた与党議員が下野することとなり、代わって自分達を攻撃する人達が与党となるということで戦々恐々としているようだ。まさしく、国民がこの国の上層部をひっくり返したと言っていいだろう。与党の派閥の長と言われる議員といい、「お上」といい、その立場に安穏としていた人たちにとってはこれからずっと向かい風が吹くだろう。自分たちの本分を忘れて(というか、棚に上げて?)自分に向かってだけ仕事をしてきた報いだ。それにしても現与党の混乱ぶりを見ると長らくこの人達に政治を託してきた我々の間違いに滑稽さすら感じる。

何はともあれ、こういう特性を持ち、「長い物には巻かれろ」主義の仲良し軍団が本当に自分達の意思で国を変えたというのは感心した。これからうまくいくかどうかは分からないが、国民が自分達で選んだ道。「お上」と与党議員の馴れ合いのために費消されていた我々の財産(=税金など)が本当に我々のために使われる日が近いかもしれない。いいことばかりではないにせよ、来週から与党となる党の議員の皆さんに淡い期待を抱く。







最終更新日  September 10, 2009 11:33:39 PM
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August 25, 2009
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今年も忌わしい夏の高校野球の季節が終わった。伏兵というと失礼かもしれないが、隣県の新潟県代表、日本文理高校が最後まで粘り強く反撃し、準優勝ながら人々の記憶に残るいい野球をして、県の高校野球史に間違いなく大きな足跡を残した。関係者はもちろん、度重なる震災の難を乗り越えてこられた新潟県の皆さんには心からお祝いを申し上げたい。

このブログを以前から読んで下さっている皆さんは何故私が「忌わしい」というのかはお分かり頂けると思うが、今回は平成21年8月7日の北日本新聞朝刊に興味深い記事があったのでご紹介しようと思う。これは「目指せ県勢21勝目」と題して富山県高校野球連盟の関係者の方がまとめられた記事であるが、この資料が秀逸な切り口を呈している。どんな資料かというと「夏の甲子園での1県1校制導入前後の勝利数」である。

1県1校の代表が夏の甲子園に出て行くのは今では当たり前であるが、実はこの制度が実施されたのは昭和53年の第60回大会からだそうだ。私がちょうど小学校3年生で(今の私の上の子供とちょうど同じ年)、我が県の栄えある第一校目は石動高校だったと記憶している。この前の年までは県大会で優勝した後、二次予選があり、そこで優勝した高校のみが夏の甲子園に出場できていたとのこと。今のように1県に必ず代表が送れる訳ではないからそれこそ「出ることが目標」という学校も多かったと思う。

さて、本制度導入の前後で県別の勝利数はどうなったか。まずは昭和52年(1県1校ではなかった時代)までの勝利数を下から数えてみると・・・47位滋賀県(0勝)、46位山形県(2勝)、45位山梨県(4勝)、43位佐賀県と新潟県(6勝)、42位石川県(7勝)、41位福島県(8勝)、39位茨城県と青森県(9勝)、38位三重県(10勝)、37位長崎県(11勝)、36位富山県(13勝)・・・・だそうで、我が県よりも勝利数の少ない県が11もあったようだ。

ところが、1県1校となってからは様子ががらりと変わる。今年の夏の大会が始まる前までの通算勝利数では47位が新潟県(16勝)、46位が山形県(17勝)、45位が富山県(20勝)・・・となり我が県はワースト3位となってしまう。引き算とすると分かるが、我が県は1県1校制が導入されてから去年まで31年間でわずか7勝しかしていない。5年に一度しか勝てないのだ!これは1県1校制になった後だけを見てみるとダントツの最下位だ。しかも、同一大会で2勝以上を上げた最も最近の大会は何と、昭和33年に魚津高校が初出場で3勝し準々決勝であの板東英二投手率いる徳島商業と延長18回引き分け再試合を演じたあの時まで遡るのだ。つまり、私が生まれてからというもの、夏の甲子園で2勝した富山県代表校は存在しない。

4~5年に一度しか勝てず、しかも2勝することは不可能な状態では昭和52年までは最下位の滋賀県と13勝差あったものが、今では逆に5勝差をつけられているというのも半ば当たり前のことだと思う(滋賀県は25勝、平成13年には近江高校が準優勝している)。何故ここまで高校野球が弱くなってしまったのか?

私は高校野球に携わったこともなければ、高校野球をやっている子供を持ったりしたこともないが、素人目で言わせてもらえるならばいくつかの要因があると思う。

最大の要因は、「出場することが県下各校の最大の目標」となっていることだ。これは選手だけでなく、各校の指導者、県高野連、そして我々県民もそう思っている節がある。富山県は、以前もちらっと書いたが、大変排他的で保守的な土地柄である。ある意味、日本の中で最も日本らしい県だと思う。長いものにはまかれろ、勝てば官軍負ければ賊軍、寄らば大樹の陰・・・・。このような県の代表が二次予選の北陸大会あるいは北越大会で優勝し晴れて甲子園の土を踏みしめる栄誉を浴したときはそりゃ、拍手喝さいで「出れば結果は二の次・・・」というところもあっただろう。ところが、1県1校制となり必ず富山県からも代表が送り出されることとなったにもかかわらずこの辺の価値観が変わらなかったのではないか。富山県大会優勝校=官軍(上に認められたチーム)となり、あとは負けても「官軍」であるが故に「惜敗」「全力でプレイ」などと美辞麗句でごまかされるようになった。高校野球という全国挙げての国民的行事に毎年一回戦ころりで帰ってくるのを半ば当たり前のことと捉えるようになって久しい。

また、一時期問題となった「越境入学生」を最終的に拒んだことも要因として挙げられると思う。越境入学生とは他県の中学を卒業しているが、甲子園へのルートが近いと思われる県(つまり、弱い県)の高校に特待生などとして入学して野球をする生徒であるが、最近の北海道や東北地方の私立高校が突如として強くなったのもこの影響と言われる。今ではどこの県にもこのような私立高校はあると思う。しかし、我が県はこれを頑として受け入れなかった(色眼鏡で見てきた?)。確かに県内の私立高校にも越境入学生はいる。大阪弁の飛び交う野球部もあると聞いているが、どういう訳か我が県は県立が強い。私立で夏の甲子園に行ったのは高岡第一高校と不二越工業高校がそれぞれ1回ずつだけだ。やはり越境入学生と地元出身者とまぜこぜにするのも難しいところがあるということか・・・。

私は越境入学生は全く悪いことだとは思わないし、これだけで甲子園で活躍することができるようになるとは思わない。しかし、我が県はあまりにもこれを廃除したがる向きが大きすぎるように思う。

我が県にはプロ野球独立リーグ、BCリーグの(私が愛してやまない)富山サンダーバーズというチームがある。このサンダーバーズも殆どが県外出身者である。エースの小山内は岐阜出身者だし、今年から阪神タイガースに行った野原は埼玉出身で富山には縁もゆかりもない。現在25名の登録選手のうち県出身者は8名だけ。だけどファンは皆サンダーバーズが優勝すると我がチームが優勝したといって喜ぶ。何故高校野球はそれがダメでプロならいいのか、大変理解に苦しむ。

プロは生活をかけていわば「転勤」してきたんだからしょうがないが高校生はまだ子供だから・・とでもいいたいのであろうが、高校生だって将来プロに行きたいと思ったら当然に甲子園で活躍しアピールできる環境が整っている高校に行きたいに決まっている。例えば、私が尊敬する東京大学に行きたい高校生がいるとして、その生徒が住んでいる県には東京大学に進学できるレベルの高校がないとする。その生徒が勉強のために隣の県の私立高校に入って東京大学に合格したらこの生徒を非難しますか?

このような訳の分からない、意味のない地元純血主義者の方に聞いてみたいのは、将来、富山県に越境入学生がエースや4番を務める私立高校が代表として甲子園に行き今年の日本文理高校のような活躍をしたら喜ばないんだろうか、ということだ。私は妙な大義にこだわって勝てない甲子園に毎年恥をさらしに行く(表現はきついが)よりもこっちの方が数100倍いいと思う。

突き詰めるに、我が県の高校には全国の舞台で勝つ方法、喜び、楽しさを知っている生徒、指導者、保護者、その他関係者が極端に少ないのだと思う。シーズンになれば毎週のように遠征に出かけ試合をしている高校も多くあるが、甲子園という全国の舞台に上がったとき、目的を果たしたと思って試合に臨むか、これからが自分の人生をかけた舞台だと思って試合に臨むかで勝敗がどちらに傾くかは火を見るより明らかだ。

これはちょっと趣を異にするが、サッカーの日本代表がワールドカップに出るまではいいが、本戦で勝てないのと何か共通するのではないか。確かに外国でプレーし、エース級の活躍をする選手も出てきたし、ブラジルから選手を帰化させ日本人としてワールドカップに出る選手も古くからいるから富山県の高校野球とは少し勝手が違うが、やはりワールドクラスに入るには決定的な何かが足りないのだろう。日本代表がワールドカップ本戦で勝てないことのくやしさには富山県民は高校野球で慣れているから割と耐えやすいのかもしれない。

越境入学生が少ないということはただでさえ閉鎖的な富山県という中しか知らない人が殆どであることを意味する。これは日本人がこの島国の外で何が世界の常識とされているかを知らないのに大変よく似ている。日本人は閉鎖的だ。これは歴史的にも紛れもない事実で、支配する側には大変都合がよかった。自分達のやっていること=常識としておけば容易に人々を納得させることができたからだ。このような経緯を辿って我が国の「お上」は今日の地位を確立してき訳だが、もはや、「自分たちだけが知っている」という時代ではなくなった。「お上」の不祥事とその不祥事に対する大甘の対応が国民に知れる時代となってしまった。もはやトップダウンで全て物事が片付くほど単純な時代ではない。

外を知らないことと外を薄々ながら知っていることはこれほど違う。あっという間に人々の価値観は180度向きを変える。無論、今からどうなっていくかについては良くなるという保証はない。今まで考えもしなかった事柄に対処しなければならないことも多々あるだろう。しかし、変えていかなければ国がもたない時期にきてしまった。それが今、実行の期を迎えているのだろう。

保守王国富山県も2年前の参議院選挙では自民候補を破って民主候補が当選した。これがいいことかどうかはともかく、県民の意識も大きく変わってきているようだ。高校野球についてもたかが・・・などと思わず思い切ったことをする学校の出現と県高野連の施策に期待したい。







最終更新日  August 25, 2009 11:21:09 PM
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August 18, 2009
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私が半年余りの沈黙を破ってこのブログに時々投稿するようになったのも菅家さんの冤罪事件が発端であった。だんだんこの国の支配体制が分かるようになるにつれ、何かもやもやとしていたものが「そうだったのか!」と腹にすとんと落ちるような考え方を身につけることができるようになった。本当かどうかは定かではないが、こう考えると全てつじつまがあう・・・・というような考え方だ。

先ほど、楽天infoseekのニュースでこの菅家さんの今回の総選挙の選挙権が認められないということがトピックとして出ていた。ここでも、我が国の「お上」の考え方が見て取れる。

このニュースが伝えるところによると、何でも公職選挙法では禁固以上の刑が確定しその執行が終わらない者は選挙権を有しないと定められているためまだ再審で無罪が確定していない菅家さんについては今回の選挙権は与えられないとのこと。

法律を守るのは市民・国民の務めだし、それを執行していくのは行政の仕事だ。ところが、悲しいかな、法律は万能ではない。法律は条文となっており、このケースについては・・・、このケースについては・・・と事細かに書いてある訳ではない。無論、全ての出来事を想定してそれらに対応するなど度台無理な話なので「解釈」というものが出てきて個別のケースに当てはめて考えることになる。

今回は公職選挙法以前の話に端を発するので少し話がややこしくなる。菅家さんは冤罪で刑に服役させられた。やっていないのだ。やっていないことを栃木県警察と東京地検が「やった」とでっちあげ、無能な司法セクションが右から左に「黒」としたために何も悪くない人が17年も牢屋に入れられたのだ。これは人ごとではない。これは何もやましいことがなくても警察に目をつけられたら何が何でも服役の憂き目に遭う可能性が誰にもあるということを意味する。

このことだけについて考えれば刑法の適用誤りを犯したのは警察であり、検察であり、裁判所だ。ところが、後からそうではないということが明らかになってそれを「釈放」という形で取り消した。これから再審となり無罪が言い渡される予定だそうであるが、それまでの間の菅家さんの市民権はどうなるのか。「釈放」=無罪を意味するのでなければ釈放とは何なのか?単なる「お上」の照れ隠しなのか?

確かに、法律の文言を字づらで辿っていくと「再審による無罪が確定していない」=「刑の執行が終わった訳ではない」となるから選挙権はないのであろう。しかし、これについては足利市の選管の態度に大きな疑問を感じる。今言った部分だけを見れば確かに選管の処分が正しいように見える。しかし、これは近視眼的な法律を大きく捉えることができない、単に「頭が良さそうに見える人」がやることだ。

何を言いたいのか。選管は「菅家さんには落ち度がないということを司法が認めようとしている」ということを全く考えていないのだ。今回の事件の顛末の落ち度は完全に「お上」にある。市民である菅家さんには落ち度は全くないどころか、完全な被害者である。なのに、法律を近視眼的に解釈し「お宅に選挙権はありません」とどのような顔をして説明したものか。この場合の正解は、せっかく時の総理が40日ものできる限りの長い選挙期間を用意してくれたのだからこの被害者である一市民の民主主義最大の権利について司法と協議し、何らかの処置を施すことだ。「それは法律でできないことになっているから・・・」と唱えるのは小学生でもできる。しかし、今回は「お上」が法律を破ったのだ。それの後始末をする義務があるのは「お上」にあることくらいウチの小学3年の娘でも容易に理解できる。

この事例でも分かる通り、日本の法律運用の落ち度がどこにあるのかというと「お上」が法律を破ったときの後始末なのだ。洋の東西を問わず、「法は一般市民を規制する。しかし、上流階級の人間については法が彼らを守るように変化する」などと言われるが、我が国ではそれに加え、堂々と「お上」による法律無視が行われる。年金問題で我々の拠出したお金の記録はどうなっていたんだっけか?公務員は巷の損得からは完全に独立しており、デキのいい人間の集まりだという前提で、「悪いことをしない」とされた上で法律が施行されてきたと思うが、その「悪いことをしない」人たちがこともあろうか人様の拠出した年金保険料をこっそり自分の懐に入れたり、免除にならない人を免除にして収納率を上げようとしたり、実態よりずっと低い標準報酬月額にして労働者の将来年金を受け取る権利を奪ってみたり・・・。全て「自分達の都合のいいように仕向けた収納率アップの秘策」だ。誰も国民のことなんて考えていない、自分達に向かって仕事をしていることの典型だ。

舛添厚生労働大臣もこの件については「盗人は牢屋に入ってもらう」と意気揚々だったが、調べてみると、役人の悪事については罰することがなかなかできない法律になっていたらしい。大臣の感覚はまともなものだ。しかし、法律を決める「お上」は自分達が都合が悪くなったときのことは誠にぬかりなく対応する法律となっている。つまり、お手盛りの法律を作っているということだ。それを戦後長らくこの国を支配してきたある政党の議員に議場で賛成の挙手をさせ、見返りに議員の地元にお金を落とすというやり方をしてきたのではないか。こう考えると、人口100万人あまりの我が県に不要不急の道路や橋、トンネル、新幹線がたくさん作られてきた訳が納得できる。土井たか子さんの「マドンナブーム」により参議院選挙でこの政党が大敗したときも地方区でこの政党が勝ったのは我が富山県と和歌山県、佐賀県の3つだけだったことを記憶している。つまり、富山県はそれだけJM党が強い県だということだ。だから社会インフラも十分すぎるくらい行き届いている訳だ。

お金が国内に有り余っていた時代はそれでいい。しかし、お金がなくなって久しくなった今、借金をしてまでかつての金満大国だった頃の無駄遣いを続けようとしている「お上」にはそろそろ考えを変えてもらわないと。まさか、「お金を使わないと自分達の威厳にかかわるから・・・」などとは言わないだろうな。確かに、今の我が国の官僚制度はお金が回らないと持たないようになっているように見える。

話はそれたが、「楽な仕事」というのは法律に逃げることだ。それが仕事だと信じて疑わない公務員の皆さんは多いと思う。多いというよりも殆どがそうだろう。確かに、法律を守ることは大変なことだ。しかし、全てにおいてそうでなくても、今回の菅家さんのようにかなり特殊なことについてまでいつも通り「法律にそうなっているから・・・」で通すのは市民感覚というか、社会常識から言っておかしいとは思わないのか。法律というのはその時その時の社会常識の塊ではなかったのか。いやしくも、自分の仕事を厄介なものにしたくないためそのように解釈したなどということはあってはならないと思う。

確かに「お上」の仕事は大変だ。法律にがんじがらめにされているし、何といっても仕事を断ることやお客を選ぶことができない。だから事細かに対応するときりがなくなり、自然、自分に向かって仕事をするようになるのも分からないことではない。しかし、だからといって市民の権利を平気で侵害したり、小役人よろしく高圧的な態度で市民に接したりするのはご法度だ。誰があなたのスポンサーなのか。日の丸ではない。市民、国民だ。それが嫌なら公務員にならなければよかっただけのこと(よく、公務員から逆のことを言われたりするが・・・「年金もらいたければあなたも公務員になればよかったじゃない」・・・)。

私も法律で飯を食っているが、法律の文言を杓子定規に捉えて解釈することだけはしてはならないと開業以来思っている。法律は我々の社会生活に重要なものではあるが、絶対のものでもない。「たかが法律、されど法律」といったところか・・・。







最終更新日  August 18, 2009 10:48:09 PM
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August 16, 2009
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夕べ、フジテレビ系列で放送していた「硫黄島からの手紙」を観た。この作品は映画館で観ようと思っていつつ、ついつい見逃して今に至った作品だ。8月15日の終戦記念日に放映することができたのは大変意義深いことだと思う。

この作品が世に出る前からも硫黄島の攻防については悲惨を極めるということで語り継がれてきたが、やはり映像になると戦争の悲惨さ、無意味さ、そして人間というものの本質について大いに考えさせられる。

私もこのブログで日本人の本質に近づこうと、日々考えていることを綴っている訳だが、先の大戦を部分的に過ぎないが知るにつれ、今の日本政府と当時の大日本帝国政府は本質的には全く変わらないのではないかと思う。さらに、極論と言われるかもしれないが、今の北朝鮮政府と今の日本政府もかなり似通っている部分があると思う。

まずこの三者(現日本政府、当時の帝国政府、現北朝鮮政府)に共通しているのは、権威主義による人民統制だ。恐怖政治となっているかどうかは別として、「お上」を絶対のものとしてその体裁を守ることを第一の使命としている。人民の命や権利などはどちらかというと二の次になっているように思えてならない。その「お上」の一員となればゆりかごから墓場まで国家が相応の面倒を見てくれるため、エリートと呼ばれる人は「お上」のメンバーになりたがる傾向がある。そのためのルートが我が国では東京大学⇒国家一種試験などであり、北の国では金日成総合大学⇒朝鮮労働党幹部候補なのだろう。若者はどの国でもまじめで情熱的だから、このルートに入ることに己の全精力を傾ける。そこで出される課題が実に無意味なもので、困難なものであってもそれを乗り越えようと努力する。

このような権威主義に決定的に欠けているものがある。それは「人間、誰しも間違いを犯す」ということに対する答えである。

「お上」が絶対に誤りのない存在ということになっている世界では、「お上」が道を誤ると当然に国家全体が誤った方向に進んでいってしまう。一旦誤った方向に進んでしまうとそれを過ちと認めて軌道を修正することが難しくなる。「間違える」=「権威の失墜」を意味すると考えられているからだ。為政者(ここでは、政治家ではなく官僚のこと)が最も恐れるのは自分達の立場が危うくなることだ。これに直接つながるのは「権威の失墜」とこれら三者の政府は昔から考えているようだ。その証拠に、間違いがあっても絶対に謝らない。以前、薬害エイズ事件で政府の対応に当時の管厚生大臣が頭を下げたことがあったが、霞ヶ関から相当、非難があったとか。これらの世界では「お上」が頭を下げることは自分達の立場を危うくするから「やってはならないこと」とされているようだ。

本来、政府というものは国民の生活を規制し、保護し、調整する役割を国民からの委託を受けるという形で存在しているべきものだと思う。こう書いても霞ヶ関の人々がこれを見ていたらどう思われるかは分からないが、もし今書いたようなことが政府というもののあるべき姿だとしたら、少なくとも現在の我が国の政府とかつての帝国政府は「そのようなことをやっているつもりだけれども実は全く違うことをやっている」といわざるを得ないことが多々出てくる。じゃ、何をやっているの?と問われると「己の保身」というのが一番しっくりくる答えであることが多い。

やはり、どう考えても特定の人、ましてや同じ学府の卒業生という共通点のある特定の人の保身から出る政策というのは怖い。ときに暴走したりすると取り返しのつかないことになったりする。先の大戦がどうであったかは分からないが、例えば戦況が不利になった時に「捕虜になるのは恥であり、皇軍の軍人は誇りある最期を遂げよ」と命令するのは若者に自爆テロを促しておきながら自分達は安全なところにいる悪い大人たちと大差ないように思う。そこには合理性の欠片などみじんもない。ただ、精神論を唱え、それなりに説得力のある戦術もないままに己の振り上げた拳の下ろしどころがなくなったからといってそれを無碍に国民に負担を強いるやり方は今の政府も共通したやり方と言えないだろうか?

話は変わるが、昨今、国内の製造業が極端に業績を悪化させている。この現状を政府はどう捉え、どうしていこうと考えているのだろうか?

いうまでもなく、製造業は我が国の基幹産業である。我が国の国民はモノづくり(大きすぎるものを除く)にかけては世界でも屈指のレベルにある。何故かというと、我が国は資源がない島国だ。例えるならば海に浮かぶ船である。船の中にあるものはごく限られている。だから船の中で起きるできごとには船の中にあるモノで全て解決しないといけない。たとえ鉛筆一本でも船内においては限りなく貴重な財産だ。このような状況では効率的に物事に対処していくことが要求される。資源(=モノ)がない訳だから、あるモノで全てに対処しなければならない。自然、「モノを粗末にするな」、「もったいない」という思想が生まれてくる。そして、それに我々がご先祖様から与えられた手先の器用さが加わり、少量の資源から最大限の成果を生み出すようになる。これが我が国が工業国として成功した大きな原因だと思う。これが戦後の我が国の国富につながってきたのだ。

このことはこれから先も変わらないと思う。日本にしかできないことはいつの世になろうが存在し続けると思う。もちろん、黙って口を開けているだけではジリ貧になるであろうが。何故か。地球そのものが船となってきていることに世界が気付き始めてきているからだ。地球の上に存在するモノ以上に消費することはできないという単純なことにようやく気付いたのだ。そうなると、我々祖先から受け継いできた「船理論」がある意味脚光を浴びることとなり、一日の長がある我が国にアドバンテージがある。つまり、省エネルギーなもの、目に見えないほど小さいもの、大きくないとできないとされていたことなどについては我が国が今から世界をリードしていく分野だ。これを産学官で力を合わせてどこまで推進できるかに我々の将来の相当部分がかかっているといっても過言でななかろう。

しかし、ここで懸念されるのが「お上」のミステイクである。大陸から追い出された古い記憶を持つ我々にとって外交というのはやらなくていいならばやりたくないことである。いつまでも日本丸という船の上だけで物事をしていたい。他の国々がどうなろうと船の上さえ安泰ならそれでいいという考えが我々のDNAに記録されている。そういった性質を持つ国民の上に立つ「お上」にそれ以上のことを求めるのは無理としても、彼らがミステイクを犯したとき、非合理的な保身に走ってしまうと道を誤ってしまう恐れがある。権威主義的な体制がかなり劇的に変わらない限り我々下々の者にとって軌道修正を彼らに促す手段はない。それで世界から総スカンを食らってもそれに甘んじるしか方法がないのが現状だ。

輸出に関してはいろんな問題が存在するのはとてもよく分かる。しかし、だからといって我が国の根幹である製造業に輸出規制などのしわ寄せをしてはならない。いつだったかトヨタ自動車の社長が「政府は額に汗してモノを生産している我々製造業にばかり圧力をかけ、モノを生産しない金融関係に圧力をかけることはしない」といってぼやいている新聞記事を読んだことがあったが、これは本当のことだと思う。我が国が世界でやっていこうと思うとやはり製造業抜きでは話にならない。これを戦略的に皆で(合理的に、納得を得ながら)推し進めようとするのか、それとも半ばエイヤで方向性を決め、失敗したときに国民にだけ責任を取らせ、旗振り役の自分達は免責とばかりにシカトを決め込むのか。

今のようなフクザツな社会では誰しも満点ではありえない。間違うことが当たり前で間違わずにい続けるなどというのはもはや不可能だというのは小学生でも分かりそうなものだ。にもかかわらず「我々だけは絶対だ、間違うことはあり得ない」という態度を取り続ける政府に本当の信頼が寄せられるのはいつの日のことになるのだろうか。

終戦の日を過ぎて、無意味で精神論的な命令により命を落とした何の罪もない我々の先輩方が今の世を見たらどう思うだろうかと考えるのだが、残念ながら、国家のあり方に関してはあまり進歩していないように思う。世が世なら「非合理的な保身」のために上げた拳の下ろしどころがなくなり、その拳が私にも向けられていたのであろう。毎年、この時期になると今日ここに書いたことを考え、胸が痛くなる。







最終更新日  August 16, 2009 11:53:49 PM
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August 6, 2009
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(神が国境を定めし国のお上神話1からの続き)

お上にとって都合のいい(例えば特殊法人や税などに関するもの)法案にはほぼ「Yes」で通し、見返りとばかりに選挙の地元に不要不急の道路や橋などの建築物をプレゼントされてきたこれまでのナァナァというか、ズブズブの政官の関係はもう既に継続不可能なところまで来ているのではないか。そのプレゼントたるや、国民の血税と無計画な借金である。このようなエリートの保身のために不要な金がばら撒かれて「さらに足りませんから消費税率を上げる」とはどのようなツラで言うのか。さすが、かつて選挙カーの上から有権者に「下々の方・・・」と呼びかけ落選した人だけあるなぁ、と思う。

今日は余談ばかりであるが、私のイメージし、理解している「日本人」と「お上神話」について長々と書かせて頂いた。そろそろこの国も変わっていく頃だろうと思いながら、国民一人一人が「どうあるべきか」を真剣に考えていく時期に来ていると思う。この夏は後々歴史の教科書に載るような、大きな転換点となるかもしれない。そうなったとき、我々はその生き証人となるであろう。

(注)私は保守でも革新でもなく、特定の政党や政治家を応援している訳でもないので誤解のないようにされたい。







最終更新日  August 6, 2009 11:44:08 PM
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どこかで書いたような気がするが、前回もおさらいだったので今回も(もし、以前どこかで書いていれば)おさらいということで少し内容を加えたものを書くこととする。

サミットなどを見ているとよく分かるが、日本という国は国際舞台での発言力が比較的弱いとされる。それは先の大戦で負けたから・・・というのもあるが、イタリアやドイツはどうなのだろうと考えた場合、それだけではないような気がする。今や世界の一部となっている「日米関係」の主従関係のうち「従」の国だから「主」を差し置いて大きな発言をすることができないから?それもあるだろう。

先日、面白い本を読んだ。日本人というものは世界でもかなり特殊な価値観をもっているというのだ。それが世界の常識とはかけ離れているからなかなか外国人とは話がかみ合わないのだとか。その特殊な価値観というもののうち、私が特に興味を持った部分は2つあって、いずれも今日の日本社会・日本人を考えるとなるほど、と膝を打つものであった。

まず一つは国境である。世界地図を見るとよく分かるが、普通、国境というのは陸地にある。それが川の上だったり分水嶺(つまり、山)であったりする訳であるが、これらに共通しているのは「人為的にラインを引いたこと」と「人が作ったラインだから何かのもつれで移動することがあり得る(=国境が侵害される)」ということだ。だから洋の東西を問わずどの国も軍隊が国境を必死に守っている。しかし、我が国はどうか。我が国は言わずと知れた島国だ。国土を自分達の力で勝ち取ったものでは決してない(私が唱える、日本人の大陸からの移動説の後のこととして)。その後の国境も19世紀頃からの戦争により取ったり取られたりした島々は別として、古来より本土は侵されていない。つまり、侵略の危機という目に遭ったこともほとんどない。

ということは、日本人の価値観による「国」というものと世界の標準的な価値観による「国」というものとの間には大きな隔たりがあるのではないか。日本人のそれは「神から与えられしもの」で世界のそれは「自分達の力で一度は勝ち取った、又は創り上げたという歴史のあるもの」。この差は大きい。金満な家庭に育った子が考える「お金」というものと、今日明日食うにも困る貧乏な家庭に育った子が考える「お金」というものが違うように、日本人は安定した国土があることを当然と信じて疑わず、世界中の国々についても同様だと思っているだろう。このような国についての価値観が異なる人たちが例えば世界平和について協議したとき、果たして本当に実のある話合いができるのだろうか?

もう一つは意外であるが、「家畜の肉を食べるかどうか」だそうだ。我が国に獣の肉を食してきた歴史は殆どない。歴代の為政者がそれを禁じてきたからだ。我が国は粗食を基本とし、穀物や野菜などの植物と魚、せいぜい肉は鳥しか食する機会がなかったといえる。余談ではあるが、ウサギを一匹、二匹・・・ではなく一羽、二羽・・・と数えるのはウサギの肉を食べると獣の肉を食したということで罰せられるため、「これはウサギではなく、鳥の肉でございます」とごまかすために鳥と同じ単位で数えるようになったとか・・・。実際、ウサギと鳥の肉は脂分が少なく白身なので似ていると聞いたことがある。さて、これが民族の価値観にどう影響したのか。

ちょっと宗教を持ち出して恐縮ではあるが、キリスト教の聖書に「さまよえる子羊たちよ・・・」という一節があるのはよく知られているところだと思う。ここでいう「子羊たち」というのは一般民衆というか、今現世に生きている人間のことを指しているのは容易に想像がつくが、我々日本人には今ひとつピンとこない表現である。なぜか。日本人は羊を飼いならす習慣がないから。

世界の大部分の国々では羊を家畜にしているそうだ。羊は毛が洋服になり乳と肉は食用になる。大変飼いならしやすくおとなしいので長年人間とともに暮らしてきた。さて、この「飼いならしやすい」ということであるが、どうしてかというと「群れのリーダーさえ手下にしてしまえばあとのその他大勢はそれについてくるから」。アルプスの少女ハイジなどを見ているとよく分かるが、年端もいかないペーター少年(おそらく小学校低学年~中学年くらい)の家での仕事は羊の群れを操り草を食べさせたり小屋に誘導したりすることである。何故年端もいかない少年に何百匹もの羊を操ることができるのかというと、リーダーをてなづけてしまえばその他大勢はそのリーダーの後を何も考えずに追うからだ。「さまよえる子羊」というのは人間をこのことに例えているのだ。

しかも、飼い主は最後はその羊(全部ではないにせよ)を食ってしまう。草や魚などと違い、四本足で歩き人間と同じく毛で覆われた動物、しかも毎日行動をともにした半ば家族ともいえる家畜を最後は殺して自分の腹に収めてしまう。この感覚は我が国では養豚業者や肉牛を育てる業者を除いては今でも我々には想像だにできないことである。この羊の群れを国家、それぞれの羊を国民と考えたとき、「人間というもの」に対する価値観が異なったものとなる。国益をかけて複数の国家間で揉め事があったとき、発言力の強い国家が他の国家に不利益を与え、これでもかとばかりの制裁を行うことがあるが、我々からすると「何もそこまでしなくても・・・」と思うのであるが、昨日まで家族同然だった家畜を今日は殺して食ってしまう世界の常識ではそういったこともありなのだろう。我々はこういう意味でも違った価値観を持っている。そして、外のことや世界の常識を知らない。

かつてアインシュタインが来日したとき、我が国を「一つの由緒ある家系に守られた神の国」と評したらしい。彼も祖国ドイツを追われ、人種のるつぼといわれるアメリカで生涯を過ごすこととなった運命を持っていたため、このような国をうらやましく思ったのであろう。帰るべき田舎がない人が田舎がある人をうらやむのに少し似ている。私も我が国は歴史的に「恵まれた国」だと考える。神から国土を与えられ、さしたる侵略の危機も数度しかなく、侵略された歴史がない。資源は乏しいかもしれないが、ないならないで節約する精神を身につけ不平不満は言わない。何といっても世界標準(と私が勝手に思っている)羊のような殺伐とした価値観がない。このような、いい意味で一種独特の環境下にあるのが我が国だといえるだろう。

さて、いつもの「お上について考える」のコーナーとなるが、このような国を支配してきたお上が恐れることは何だろうか?

国土は神から与えられ、常に変わらぬ状態で「ある」のが当たり前とお上も下々も思っている。さらに侵略者もそうそういないとする。そういう状況にあってお上が恐れるものは「他国からの異なる価値観の人が領土に入ってくること」であろう。これは今でもそうだと思う。

お上に属する人の境遇を考えてみる。私の住む富山県では「お上」になるルートはごく、限られていておおよそ次の通りである。1.御三家プラス2と言われるTY高校、TC高校、TA高校、UO高校、TN高校のいずれかを卒業する 2.東京大学(文科1類⇒法学部)に入学する 3.国家1種か外交員試験に合格する 4.入省式で大臣のお言葉を聞いてその後「大過なく」過ごす こんなところであろう。

ここで強調したいのは、「お上」の人となるには上記のいずれをも突破しなければならない(もちろん東京大学OB以外にもたくさんいるが、いずれも難関大学)ということだ。つまり、1~4全てをパスする必要があり、そこから外れた時点で「落ちこぼれ」となるということだ。「お上」にとって「お上」になれなかった人は全て下々の者であり、お上の仲間ではない。ゆえにお上は必ず強いエリート意識を持っている。

かく言う私は一応、1.は該当したのであるが、そこでこのルートからは外れてしまった。頭が悪いのだから仕方がない。お上にはなれない人間であったということだ。しかし、私も高校生のときはいわゆる「御三家」と言われる進学校であったこともあり、勉強にそれなりに必死だったからはっきり言うとエリート意識が当時はあった。他の高校生とは違う、選ばれた人達なんだと恐らく皆そう思っていたと思う。

私は2.には進むことができなかったためエリート意識というのは社会人になって割とすぐにギャフンと言わせられたこともありなくなっていったが、そのまま2.に進んでいたらどうたるのか。おそらく、私の高校時と同じように周りの連中は皆仲間兼ライバルだろう。そして、自分達以外の人は下に見えることだろう。すなわち、ずっとエリート意識を持ったまま自分との戦いに明け暮れることとなる。こういう法律を作ったら国民がどうなるかではなく、自分の出世がどうなるかとか、自分の省益がどうなるかとかしか考えられなくなるのではないか。つまり、社会人になってもずっと学生の状況のままだ。

この国ではエリートは強い。下々がそう思っているからだ。こう考えると、30代の某〇〇省の職員がホテルに連泊し、100万円近くの宿泊料金を払わないという事件が起こったのも何となく分かる。彼らの意識の中では先ほどの1.~4.の全てをパスした人が偉いのであり、パスできなかった人とは違う。ゆえに偉い人は何をしてもいいから金は払わないと。

また、お上は国会議員より偉い。国会議員は下々の者の代表であり、選挙に落ちればただの人だし、何といっても1.~4.を全てパスすることができなかった「落ちこぼれ」だ。国民の代表という都合のいい立場を逆利用してお上が自分達に一方的に都合のいい法案を作って自民党の議員(=下々の者)に言い訳をさせ、何か悪いことがあっても罰せられるのは国会議員であり、お上の自分達は顔すらさらすことがない。「くやしかったら1.~4.を全てパスしてお上になればよかったんじゃない」これがお上の本音であろう。

ちょっと余談が長くなったが、お上が恐れるものという話。下々の多くはあまり海外に出ることはない。旅行に行くことはあっても諸外国の政治やものの駆け引きという場面に出会うことはまずない。しかし、外務省に限らずキャリアと呼ばれるお上は留学や海外出張により外の世界を知っている。これがまたエリート意識を強くさせるのであるが、せまい島国で仲良く暮らしている国民を支配するのは「我が国で起こっていることは世界の常識」とばかりにお山の大将を気取っていれば「大過なく」過ごすことができる。お上は予想外の変化が起きて自分の立場が危うくなるのをとても恐れるのでこの島国がずっと今の状態を維持し続けてくれることが彼らの願いである。しかし、そこに外の世界を知る人が入ってきたらどうなるか。その人達がお上自身の立場を危うくさせる存在となる可能性がある。だから外人とか帰国子女を厄介もの扱いしたくなるのだろう。

留学生や帰国子女は大学の入学に際して特別枠があるのはご承知の通りだと思う。それは日本の(無駄に厳しい)教育を受けられなかった人にも大学で学ぶ機会を与えようということだと思うが、本音は、「お上の立場を危うくする可能性のある存在には先に恩を与えておいても損はないだろう」というところではないだろうか。だって、この国では「疑問に思うこと」はお上がよしとしないことだから何かにつけ疑問に思ううるさい人達がギャーギャー騒ぎ出したらお上も支配がしにくくなるでしょ?そして彼らは「お上」が世界標準では一番偉いものとされていないということを知っている。

私が勝手に思うには、我が国はお上神話があり官僚支配の国である。しかし、このお上の本当の上層部は今でも学生と同じ競争社会を生きており、それが必ずしも国民のためとはなっていない部分がある。何といってもこの人たちの舵取りが間違えたとき、誰もその間違いを正すことができないシステムとなっている。このお山の大将を気取り続けたい人達も間違いはあるのだからそれを自覚させ、優しく導いてやる組織が必要だ。それが我々の代表である国会議員ではないのか。







最終更新日  August 7, 2009 12:01:36 AM
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August 1, 2009
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これまで日本人というものの本質、心理などについて私見を書かせて頂いた。割と批判的な面を捉えて書いてきたように思うが、別にそれがいい悪いという2元的な結論を導きたいとは思わない。結局、現代の日本人はどこを目指すべきなのかということも私なりに意見は持っている。いつかここでご披露させて頂くことになると思うが、今日ここでそれをやってしまうとまたこのブログが長い眠りにつき、下手をすると永眠してしまうのではないかと思うのでもう少し後のこととしたい。

さて、今日はここまでのおさらい。私が日本人をどう思っているのかということについて今一度確認してみることとする。

まず第一義に、日本人は東アジア出身の農耕民族であるということだ。農耕民族とは「土地に縛りつけられ、絶えず遊牧(狩猟)民族の脅威や争いに巻き込まれ、生産物については自然環境に左右されやすい」という特徴を持つ。一方で遊牧民族は「特定の土地に留まることはせず、獲物を求めて移動しながら生活する」という特徴があり、移動するため農耕民族より他民族との触れ合いが多いためいろんな知識や物資を持っている。その遊牧民族が移動するときに農耕民族の縄張りを侵すため争いが耐えない訳だ。

我々の祖先はもともとは大陸にいた。ところが、これらの争いにことごとく負けたか何かで住む土地がなくなってしまった。つまり、大陸に居場所がなく追い出された格好となった。そこで行き着いた先が東の果てにある資源の乏しい日本列島だったという訳だ。そこには大陸に比べて文化レベルの低い(文字を持たないので弱かったと思われる)先住民しかいなかったので、大陸出身の弱い者でも自分達のルールで版図を広げていくことができたのだと思う。

この弱い者たちが列島で生活を始めてからというもの、傷をなめ合いながら生きていくうちに独自のルールができた。それは「みんな、仲良く」である。このことは聖徳太子の作った十七条の憲法で「和」を最も尊いものとしていることからも分かる。争いは大陸で嫌というほど見てきたから侵略者のいない(実は、自分達が侵略者であるが)この新しい場所では争いのない、意見の食い違いがあっても本音を言わず勝者と敗者を作らないための仕組みをこしらえたのであろう。今でも外国人と話すとき、「日本人ははっきり者を言わなかったり本音(本当に伝えたいこと)を言わないから何を考えているのか分からない」などと言われることがあるが、きっとこの辺に起因しているのだろう。

このようなルールで生活を営んでいくうちに「奥歯にものがはさまったような言い方」とか「ツーといえばカー」というような状況が出てきたものと思われる。この島国ではこのルールは絶対で、これを破ろうとしようものなら村八分にされた。ここにも東アジアの農耕民族らしく、「全体を守るために個を犠牲にする」という精神が表れているように思う。

また、狩猟民族社会と農耕民族社会の大きな違いとしてリーダーの位置づけがあると思う。狩猟民族社会ではリーダーが集団の先頭となって戦略を練り、各人がそれぞれの役割を果たして獲物を捕らえる。捕らえた獲物はリーダーがいいところを好きなだけ取り、集団の重要な役割の者の順に配分される。その代わり狩りが失敗すればリーダーは追放される。つまり、責任を取らされる訳だ。一方、農耕民族は収穫の成否は「お天道様」が握っているとされ、リーダーたる長は責任を取ることがない。豊作のときの成果は狩猟民族に比べて長の功績度は低いかもしれないが、凶作のときには「お天道様には勝てない」ということで責任を取らなくていいシステムなのだ。

このようなシステムの社会では支配層に一旦身をおくと責任を取らなくていいため、ずっと支配側に居続けることになる。この支配層のことを我々は「お上」と呼んでいる。特に我が国では独自の「仲良しルール」があり、全体の和を脅かす行為は絶対ご法度で村八分という仕打ちが待っているため「お上のいうことは絶対」というお上神話なるものを作っておけばこんなに支配しやすいことはない。さらに我が国では大陸で負けた者同士という大きな共通点があるため「ツーといえばカー」というような全て言わなくても共通の価値観を持つ異常ともいえる一体感がある。このような状態で「お上が間違えるはずはない、もし間違えてもお上に責任はない」という意識が芽生えていくのは自然であろう。

このようなお上と民衆の関係がいいか悪いかと言われるととても難しい。全体がいいときはこのようなシステムが十分に機能し、国全体がものすごいスピードで豊かになっていく。余計なことを考えなくていいため、お上の言うことを全員で守っていれば効率よく生産活動が進められる。しかし、このシステムの致命的欠点は全体が悪くなったときだ。お上に意見する者がいないか、お上が下々のいうことを聞く耳を持たないため、誰にも状況を打開することができなくなってしまう。このことは我々も体験している最中である。

我々の祖先がこの国に移ってきて以来、大陸では飽きもせず民族間や国家間の争いが続いており、生産活動や文化的な進歩も少し進んでは振り出しに戻り、また少し進んでは振り出しに戻り・・・を繰り返していた。一方で我が国では資源の乏しいことが幸いし、大陸に住む連中からは見向きもされなかったため数度の被侵略の危機を除いては殆ど侵略されることがなかった。すなわち、誰にも邪魔されずに独歩的に文明の進歩を進めることができたのだ。これを我々は当たり前のことと思っているが、地続きで人為的に国境を定めてきた世界中の大多数の国家とはこの辺の意識というのは全く異にする。こういう背景もあって、「自分たちの発展は自分達だけが享受するのは当たり前。大陸で何が起こっていようが我々だけが発展すればそれはそれでいい」と考える民族になっていった。

現代を見てみると、終戦の後しばらくしてからバブル経済までの間、東西冷戦の恵みが我が国にもたらされた。アメリカ合衆国という大国の下で金のなる木を与えられ、何も考えなくても一生懸命まじめに働いてさえいれば目に見えて豊かになっていった時代である。その金のなる木を牛耳っていたのは我が国の中ではやはり「お上」ということになろう。このお上のいうことさえ聞いていれば「何も考えなくても」お金が入ってきた。その恩恵の見返りのような形で税金を納め、また金のなる木をゆすってもらい下々に金がもたらされたのだ。こんな世界史上でも唯一とも言えるいびつな経済発展の形がもたらされているうちは「お上」も豊作のときの長のように得意でいられたし、国民も独自の「仲良しルール」を絶対のものとしてお上に物申すことがタブー視されていたのだと思う。座右の銘は「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」という時代であっただろう。

ところが、ベルリンの壁が崩壊して以来、東西冷戦が終結し世界の歴史が大きく変わった。我が国の金のなる木も次第にこれまでのような役割を果たさなくなり、変わって大陸の大きな国の金のなる木が急激に大きくなり始めた。我が国でも10年ほど前までは考えられなかったような社会現象が起こり、いくらまじめに働いていても必ずしもおまんまにたどり着くことができない時代が到来している。「貧乏暇なし」というのはとても恵まれている状態で、「貧乏暇あり」という人も増えてきている。このような時代で「何も考えない」「考えることはお上にやってもらい我々はそれに文句を言わずただついていくだけ」というのはさすがに危機感を下々では持ち始めている。

先ほども述べた通り、我が国には「お上神話」が存在する。「お上」は失敗しても責任をとらなくていいためその地位は一度就いた者は死ぬまでその地位から無縁となることはない。つまり、親方日の丸の人は死ぬまで日の丸に面倒を見てもらえるということだ。さらにはお上に意見することはできないか、もしくは無意味なこととなっており実質的な独裁政治になっているためお上のお手盛りのルールを作られても下々はそれを受け入れなければならない。具体的にいうと、官僚OBに老後の安心を与えるための特殊法人や公的な役割を担う法人の天下り先を確保する法律を後輩の現役官僚が作り、それらの役員に天下ったOBが書類に判を押し(しかも、この判を押すこと自体に責任はない)、あとは仕事時間に新聞を読んで公費で研修旅行という名の観光旅行に行くだけで年間数千万円の報酬が入ってくるようなシステムを作られても我々はそれにNOを突きつける手段がないということだ。当然、それらの費用を負担しているのは我々の税金。その恩恵に預かる当人たちは多少の後ろめたさを感じながらも「法律で国民の代表が決めたこと」「予算についても国民の代表の承認がある(実は、承認されていない特別会計から出ているものも少なくない)」、何といっても「みんなやっている」、ひどいものになると「我々は若い頃、安月給で苦労してきたから」という感想を持ちながらその地位にしがみついている。ン千万円という退職金(何度ももらうから通算するとすぐに億単位になる)や共済年金をもらいながらよく言えたものだと思うが、自分達「お上集団」はエリート集団なんだから下々とは違って当然という意識が共通しているようだ。

このような仕組みは右肩上がりの経済成長によって興味の対象から久しく外れていたこともあるが、教育システムを利用して国民には「難しいことには興味を持たせない」ことに成功した。政治・法律・経済のことについては専門的な用語を並べ立て、頭のいい者だけの所有物としてこれらのことは「雲の上の人」だけが取り扱うものなのだということにしてしまったのだ。結局、右肩上がりの経済成長によりお金しか判断の基準に置くことができず本質的な思考をすることができない国民が出来上がってしまった。

国民性というのは時代によって変わっていくものとは知りつつ、太古の昔に大陸から新天地を求めて海を渡ってきた我々の祖先が今の状態を見たらどう思うかな、と思う。自分達の生活、子孫達の未来すら考えることを放棄し目の前のお金の計算に追われ大事な時間を犠牲にしている現代の生活に大きな転換点が差し迫っているように思えてならない。







最終更新日  August 1, 2009 06:28:48 PM
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