依存心(いそんしん)
今日は7月31日、弊社の申告と納税の期限日だった。両方とも無事済ますことが出来ていちだんらくしたせいか、来期以降を想像し意気軒高としていたりもする。酒屋でいられることは私にとり今は無量の喜びを感じられる天職である。少なくとも今はそう感じているし今後もそうだろう。実家に戻り親の元で働き始めたころは毎日のっぺりと果てしなく続く艶の無いプラスチックの壁のトンネルの中を歩いているような気分だった。太陽の光も当たらない代わり風は吹かない。ましてや雨も降らない、そんな仕事が酒屋だった。そのプラスチック製の筒の中を来る日も来る日も休みなく(実際年中無休だった)ぼんやりと歩いているだけだったように思う。私の歩みには靴音すら伴ってはくれない。それほどつまらない仕事だったが安定はしていた。それが酒類の規制緩和で酒小売業の取り巻く状況は一変した。雨どころか暴風雨に襲われた。酒小売業の一般小売店のシェアは、規制緩和前の1985年度は92.6%と圧倒的であったが規制緩和後シェアは急速に落ち込み2000年には55.1%、2005年は27.9%にまで減少した。半年で年商の半分を失いくっつかんばかりに眉根を寄せた母からお前は跡取りだろう何とかしろと毎日怒鳴られた。こんなことに巻き込まれたのも親のせいだ、この家に生まれてきたからだと、そう思っていた。たまたま生き残ったのも日本酒という救命ボートを手にすることができたからであり、それを必死に求めようとした私を渾身の力でもって止めようとしたのは両親、特に母であったから余計にそう思った。母はまだ私が幼いころから酒屋の跡継ぎになることを強要した。不自由なく育ててはもらったものの仕事に関しては全く自由はなかった。だからこの規制緩和の暴風雨にさらされて困っているのは親、特に母のせいだと思ったのかも知れない。しかし結局のところ私は家に、母に依存していたのだ。依存心という毛布に包まれていたほうが責任を取らずに済むと思っていた。言われた通りにやっていれば良い、どうせ俺なんかそんなもんだと。今日自分の手で納付書に金額を書き入れて税金を納め、取引銀行の支店長にこんにちは暑いですねと笑顔で挨拶をしすでに重いシャッターが下ろされた後のエントランス横にある唯一の出口となった非常口へ歩きながらやっと自分の二本の足で歩いていることを感じた。やっと依存心という殻から孵れた50過ぎのヒナの気分である。