淀風庵の酒詩歌日記

2009/06/28(日)01:42

大黒屋光太夫そして織田作と井上靖

詩情俳趣(74)

 わが故郷、伊勢湾岸にある白子の浜(鈴鹿市)は源平のその昔、伊勢平氏の水軍白児党の拠点であったが、近世における大きな二つの事件により歴史上にその名を留める。 ●家康の出船 一つは明智光秀による本能寺の乱(1582年)によって、信長を安心させるために少数の護衛しか伴わず堺に滞在していた家康は、明智の追跡を逃れるために慌てて岡崎に戻るべく逃避行を図る。  堺~枚方~6月2日~宇治田原(京都府)~信楽(滋賀県)~北伊賀(三重県)~加太~亀山~白子浜に馬で辿り着くが、伊賀越えを守護したのが服部半蔵以下の伊賀忍者集団であった。  http://www4.airnet.ne.jp/sakura/ozakike_5fr.html  この白子浜から船で対岸の常滑(愛知県)に家康を運んだのが、江島(白子の隣)の漁師、小川孫三であり、孫三は身の安全を守るために,伊勢に戻ってくることなく,駿河に土地を与えられてその地に住んだ。これが,今の藤枝市にある白子町の名前の由来であり、現在は姉妹町として鈴鹿市の白子との交流がある。 ●大黒屋光太夫の出帆  1782年12月の寒い時期、大黒屋光太夫を船頭とする十七名は千石船『神昌丸』で伊勢木綿などを積んで江戸に向けて白子湊(この地域は当時紀州藩の直轄地)から出航した。  不幸にも遭難してロシアのカムチャックに漂着、シベリアを経て首都ペテルベルクまで行くことを余儀なくされ、エカテリーナ女王に謁見、許されて10年の歳月を経て光太夫と磯吉だけがロシア船に乗せられて帰国した。しかし、江戸薬草植場に差し置かれ、郷里の白子や若松には戻れなかった。  http://www4.airnet.ne.jp/sakura/kodayu_frame.html  この光太夫の出来事については、織田作の小説『異郷』(昭和18年)に初めて登場するが、ロシア漂着史に残る最初の日本人、デンベ(大阪商人の淡路屋伝兵衛)の現地での女性とのロマンや郷愁の物語である第一部に力点が置かれている。第二部の光太夫の物語は小説というより、残された史実を述べている感を免れない。  しかし、これがもとにか、井上靖は長編小説『おろしや国酔夢譚』を著し(昭和41~43年連載)、緒形拳主演で映画化(平成4年)もされたが、このロシアを舞台にした冒険物語は見応えがあった。    なお、井上靖の筆になる光太夫・讃の碑(白子新港公園)があるが、さらにこの白子浜に戦後しばらく住んだ俳人の山口誓子の筆による「舟漕いで海の寒さの中を行く」との碑が当地の寺の境内(悟真寺)にある。

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