Sakura Diary

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2004年02月29日
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カテゴリ:カテゴリ未分類
「デイリー・サクラー」オープンしました。
それではみなさん、サヨウナラ。アリガトウ。






最終更新日  2004年02月29日 11時57分13秒
2004年02月04日
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近日始動。
デイリー・サクラー






最終更新日  2004年02月04日 16時05分49秒
2003年09月17日
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予定より少し遅れたが、10日振りに帰宅。






最終更新日  2003年09月18日 13時28分01秒
2003年09月07日
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昼間、「男子はだまってなさいよ!3」観劇(@下北駅前劇場)。基本的にはコント集なので面白いものもあり、あんましなものもあり。A・キアロスタミがR・デニーロを演出するというコントが一番笑った。いつも通りの自分の役作りアプローチ(体重を上げたり下げたりとかの例のアレ)をしたいデニーロ対いつも通りの自分の撮り方(これまた例のアレです)を敢行するキアロスタミ、というようなヤツ。しかし、だんだん「手慣れたもの」にというか「デタラメ」度が目減りしてきたような。芸達者(デメタンとか今回のゲストでは池津祥子)とデタラメな役者の出番とか人数のバランスが7:3になっちゃてたな。細川くんもっと出なさい。
そのあと、黒沢美香「ハワイ」。お茶などして余裕で麻布ディプラッツへ向かう。受付で前の人が「え?黒沢美香さんの公演は神楽坂のディプラッツですよ」と言われている。ゲッ!! 何ということだ。しかし間違える人は俺だけではなかったのだな。あわてて駅へ向かうと、改札から木村くんが。さらに後で聞いたところによれば、世田谷パブリックシアター制作のMさんも、引き返し組だったことが発覚。とにかく30分遅れで到着。でも1時間半は見れたから、まいいか。「ハワイアンの裕次郎メドレー」で踊るハワイアンダンサー黒沢になごむ。日活アクションのキャバレーな感じ。ほかにもいろいろ。おすすめしときます。明日明後日、「神楽坂」のディプラッツ
さて、明日から「お務め」にいってくる。5日ほどの短期だけど。おそらくネット環境にはないので、日記もしばしお休み。お急ぎの方は携帯に。ただしこれも留守電になってる可能性が大きいですが。






最終更新日  2003年09月08日 00時57分44秒
2003年09月06日
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ボクデスが「ランコントル(以下省略)」の横浜プラットフォームに出ることは先日書いたが、康本雅子も出場が決まったというではないか。康本にボクデス参戦のことを話したら、「うわっ、蟹と昆虫の闘いかよ!」だって。先日、公演したばかりの『脱心講座』のワンパート「昆虫編」を出品するからだ。康本には「エロ」と「運動能力(テク)」という強みがあるので、カニの「臭い」という反則技をもってしても、ボクデスの優位は保証できない。あー愉快だ、これは面白くなってきたぞ。他に誰が出場するのかまだ知らないけど、常々「デタラメ」度の高いダンスがどんどんバカ・ウイルスをダンス・シーンに撒いてくれるといいと思っている僕としては、喜ばしい限りである。
で、きのうはきのうで、噂の覆面ダンサー3人組「KATHY」をようやく見ることができた(@表参道NADIFF)。僕はそのうちの2人を知ってるけど、いずれもコンテンポラリーダンスではそれなりに活躍中のダンサーだ。彼女たちの「売り」はまずなによりそのコスチュームで、一つめのパターンは、髪の毛を顔の前にたらした「貞子」ヘア(今回はさらに貞子カツラをあごに引っ掛けて頭の上にもっていってくくった状態の覆面ヘアに仕上げていた!)、もうひとつは、黒いパンティストッキングを顔に被って、その上からブロンドのボブのかつらを被る(ちょうど目のあたりから足の部分がダラーリとたれている)、という「コワカワイイ」出で立ちだ。まあ、「踊りじたい」はどうかと言えば、べつに画期的なものというわけではないのだけど、赤青黄のカラフルなワンピースにブロンドのボブヘア、でも顔からはパンストの足がたれてる女の子3人が、ひたすらクルクルと回転し続けるというような光景は、相当にくだらなくかつ美しい!
彼女たち、村上隆の「GEISAI 3」で審査員特別賞(蜷川実花賞)とスカウト賞(美術手帖賞&NADIFF賞)を受賞してデビュー、アート・シーンでブレイク中ということで、ダンス業界とは別のところから出てきて、評判を取ってしまうというアプローチが好もしい。しかも、それが「バカ系」であるのだから、ますます擁護したくなる(そういえば、ボクデスも「GEISAI」の前身「芸術道場グランプリ」に出て「誰でもピカソ賞」を取ったのだった)。しかし、案の定、ダンス関係者は僕とあと木村覚くんしか来ていなかった。こういうの端からチェックしてないのかな。それじゃダメでしょ、と思うのだ。






最終更新日  2003年09月06日 23時49分50秒
2003年09月03日
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河童二郎、じゃなかったボクデスこと小浜正寛があろうことか来年の「ランコントル・コレグラフィック・アンテルナシオナル・ド・セーヌ・サン・ドニ」(旧バニョレ賞)の横浜プラットフォームにノミネートされ参戦するという。こういうのを「痛快な壮挙」、というのだろうか。どうせやるなら河童二郎をとまでは言わないが是非とも「蟹ダンサー多喜二」はやってもらいたい。横浜で、そしてフランスでカニ汁&カニ味噌をぶちまけて欲しいものだ。
その河童二郎をはじめ、最近のこの国のコンテンポラリーダンスの状況について『舞台芸術』誌4号(京都造形大学・舞台芸術研究センター)に書いたが、ようやく発売されたようだ。特集テーマは『歴史と記憶』。帯には「グローバリゼーションの中で抹殺された<歴史と地理>。忘却をまぬがれるために演劇とともに到来する歴史と記憶の本質を探る」だって。ムズカシ。一応そのテーマに関連付けて(かなり無理矢理)書いたのだけど、送ってもらった本をざっと見てみると、やはり僕の原稿が浮きまくっているな、いろんな意味で。ちなみにアイデアのおおもとになっているのは、ニブロールの「ノート」のレヴュー。で、僕の今考えていることは、どうなんだろうか、妥当性があるんだろうか、とんでもなく間違っているのだろうか? いろいろな人の意見を聞きたいのです。立ち読みでもいいので、読んだらご意見下さい。タイトルは『「コドモ身体」ということ』、20ページ目です。ってどこの本屋に並んでるか知らない私。






最終更新日  2003年09月05日 12時32分20秒
2003年08月30日
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さて、夜は、まつだい雪国農耕文化村センターのピロティで、ニブロール「ノート」改訂版。初演では、ほとんどなりゆきで「ガイジンとコラボ」した結果、本人たちも不満が残る結果となった(でも、それはそれで思わぬところに面白さがあったけど)のを、日本人だけのバージョンに作り直し、さらにヴァージョンアアップを図った、というか当初からのコンセプトを徹底させた「NO-TO」。これはもう何といいましょうか、レム・コールハウスに見せてやりたい、「錯乱」の極地。「でたらめ」の極地。そこで彼等が繰り広げる行為たち、そこで起こる「出来事たち」は、これまでにも増して超高速で因果・脈絡を欠いていた。印象を例えていえば、ある1本の起承転結のある「ナラティブなドラマ」を、細切れに断片化して徹底的にシャッフルし、スクラッチ、リバース等の加工をし、リミックする、で、4倍速で再生。みたいな。もとの素材には行為に結びついた感情があるわけだが、それがコンテクストを奪われ、増幅や反復やクローズアップされたかたちで間断なくアウトプットされるので、それが「シミュラクル」であることがかえって異様なまでに見ているこちら側の情動を駆動するように作用している。意味不明の「叫び」や「歓声」や「喚き」「怒号」「こう笑」を伴った、意味不明のエネルギーの発露(猛烈なダッシュの走り、衝突、転げ回り、接吻、蹴り、格闘、抱擁、大立ち回り、足の引っ張りあい)が遠心分離器上で攪拌され続ける怒濤の一時間だった。しかも、この半野外のスペース、ステージの横幅をかなり取り、さらに「袖」は屋外へ伸び、奥は土手、外は雨、という場所・光景をフルに利用していたので、例えば「猛烈にダッシュしてはける」というのもほんとにあっというまに遠くのほうへ走り去るし、でもまだ走ってるが見えるのだった。劇場の舞台で一番やりにくいことはこの「直線で猛烈ダッシュ」なのではないか。スピードは欲しい、が速く走るとすぐに袖になってしまう、しかたがないので、舞台をぐるぐる回る、と。
ところで、今回の舞台には遊園地の『トーキョー・ボディ』に出演していた三坂知絵子が初参加していた。ダンス・デビュー戦で、これほどハードででたらめな作品を課せられた女優はいなかったのではないか。しかしがんばったね。肉弾戦、見せて頂きましたよって感じ。初ニブロールのダンサーは他のメンバーと比べて、多少の違和感があるのはいつものことで、それも次には必ず馴染んでいる。ということで、三坂、次回公演も見に行くぞ。10月30日@上田、か11月15,16日@神戸アートヴィレッジ・センター。ちなみに東京の「NO-TO」公演は8月のシアタートラム、その前に新作で2月のパクタワー。来年の秋にはNYの「キッチン」、これも行きたいなー。






最終更新日  2003年09月02日 23時15分50秒
2003年08月29日
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日帰りで越後妻有トリエンナーレに行ってきた。同行者は女性がS文化財団のHさんとOさん、男性が若手ダンス批評家の武藤くん木村くん。電車の中で「どことどこを見てまわるべえか」相談。結果、ものすごく計算された(タイトな!)スケジュールを立案、敢行した。
いやー、いろいろ見た。見たけど、駆け足だったので「味わう」というより、「了解」「確認」という感じになりがちなのだった。でも、そもそも作品じたいが、コンセプトをそのまま直訳しただけのシロモノだったりするという「いわゆるゲンダイビジュツ」な表現にたいしては、そうならざるを得ない面もあるのだ。相対的にもそういうのが多かったことは確かだし。
あと、タクシーの運転手さんが、さすがに何度も回っているからか、「あれも作品、これも作品、あれは前回のヤツ」と、道すがらいたるところにゴロゴロしている「アート作品」を教えてくれる。すると、目にする物体すべてがだんだんと「もしかしてあれも作品だったりして?」というふうに見えてきた。道路わきの交通安全用のキッチュなフィギュアとか、田んぼの中の案山子とか、農機具が入っているのだろうバラック小屋(川俣正?)とか、青いシートで覆われたビニールハウス(クリスト?)とか。
もちろん、「当たり」もあった。母袋俊也 の「絵画のための見晴らし小屋」は、中に入って、短い階段を上ると腰かけがある。そこに座ると、目の前の壁面(三方)にことなるサイズでいくつか長方形が切り取られていて、そこから、外の田園風景が見える。言い方を変えると、テニスの審判とかプールの監視員のいる高い椅子に登った状態に、いくつかちいさな明かり取り窓があけられた箱をかぶせたようなもの。これがなぜか気持ちがいい。狭くて暗い内部から見える風景は、ことのほか緑の色が鮮烈で驚く。風も意外と通るし。
そのあと、手塚貴晴+由比の建築作品 「森の学校/キョロロ」の塔にも登った。やはり狭くて暗い螺旋階段で30メートルを登る。まあ、この手のシチュエーションが好きなんだけどね、ノートルダム寺院にも登ったし善光寺の胎内巡りもしたし。でも、ようやく登ってみたら、そこは、見晴らしはいいけど狭いしガラス窓で塞がれていて、息苦しい。すぐ目の前に拡がる自然と決定的に隔てられている感覚。嬉しくない。
一番よかったのは、ジェニー・ホルツァーの「ネイチュアー・ウォーク」。ホルツァーはかつて電光掲示板のメッセージ作品で一世風靡したシミュレーショニズムの騎手だが、今回の作品は、木々に囲まれた田舎道を森のほうにどんどん歩いていくと、石が落ちていて、そこにメッセージが彫られている、というもの。雨の中歩いていくが、なかなか石が現れない。見落としたかと少しあせる。雨脚はどんどん強くなるしもうズブ濡れになっっちゃったし、引き返すかと思った瞬間あったあった。何て書いてあるかな?「運ばれるのを待っている」だって。うわー、いいな。さらに行くと「機会があったらいつでも親切をしよう」「残酷さはいつものことなのだから今は優しさを味わいなさい」うん、そうだよな。と一瞬だけすごく優しい気持ちになりました。このような作品こそ、この「田舎」の「野外」の「コンテンポラリーアート」の美術展に相応しいアプローチなのだ。後で聞いたら、実はこの先の道にもさらにずっと石が置かれていたというので、残念なことをしたと思ったが、じゅうぶん満足。






最終更新日  2003年09月02日 22時48分58秒
2003年08月28日
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夜、早稲田大学の校内にある大隈庭園に田中泯の「森の空気」を見にでかけた。これは、「東京」の「森」で踊る国際共同制作ダンス・プロジェクト「気配の探究」シリーズの第一弾とのこと。田中と桃花村のダンサー、そしてロシアのダンサーで、計6名が庭園のなかの一画、小さな森で踊った。
先週、白州で感じた「感覚」が、果たして自然のなかでダンスを見ることから来たものなのか、を確認したいと思ったのだ。白州のときと同様に、虫が鳴き、蛙が地面をピョンピョンと跳ねている。だが、地下鉄に乗って早稲田に着き、見慣れた都会の町並み、車がいっぱいの道路を歩いて来て、いきなり庭園に足を踏み入れた状態では、こちらのモードが依然として日常=都市生活のままなので、あれは、その場所に暮らす、少なくともしばらくそこにいないと、得られない感覚なのだと思った。このギャップは、要するに大部分の観客が都市で生きている国のアートとして、田中泯のようなコミューン的な生き方の帰結としての表現が、どのように説得力を持ちうるのか、ということにかかわる大きな問題だ。
もちろん、それでも劇場空間と野外という差は大きい。田中泯は前から「闇」にこだわっているが、これまで劇場で見た作品(「グリム」とか)の「闇」は、単に「照明が暗い」状態で、閉じられた空間で暗いと、どうしても息苦しさとか、集中を阻害する(よく見えねーよ!)ことにしか作用しなかったが、野外の「闇」ではそうならない。たしかにそこに「闇」はあり、ものの輪郭は定かではないし、例によってダンサーの動きは極端にスローモーなんだけど、心理的に言えば「ちゃんと見える!」のだ。それはやはり、視覚だけでなく均等に五感で「見ている」からだ。近代劇場芸術とはすなわち「視覚を特化してそこへの刺激を強調する芸術」なのだろう。ところが、我々の身体行為において「見る」とは、実際は五感と共同しての行為なのだ。「気配の探究」は、ダンサーだけではなく、観客もその時行ったことにほかならない。それをごく自然に作動させるための装置としての野外、という方法論はまったくその通りだ。
さて、土曜は新潟で開催中の「越後妻有アート・トリエンナーレ」に行く。目当てはニブロールのダンス公演だが、せっかくなので、美術のほうも見てこようと思う。ただ、個々の作品が固まってあるのではなく、畑の中にぽつんとオブジェ1個が置かれていたりするのが、広汎な範囲にわたって点在しているらしい。ま、半日じゃたいして回れないだろうけど。
それにしても、今年の夏は僕としては珍しくなぜかアウトドアな夏になってるな。






最終更新日  2003年08月29日 16時43分29秒
2003年08月27日
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牧バレエのローラン・プティ『デューク・エリントン・バレエ』を見る(文化村オーチャード・ホール)。
先週の「ノートルダム」ではラカッラをベタ誉めしたけれど、きょうはあまり感心できなかった。「軽い!」のだ。要するにまた「子供の踊り(カワイイ!)」に戻ってしまったということ。前言撤回します。もちろんこれはエンタテインメント色の強い作品だが、だからといって「軽く」踊るの大間違いだ。
ラカッラの出番は3曲だったが、特に「ソフィステケイテッド・レディ」がよくない。これは、傷心から酒に溺れる女の悲哀、苦悩が、あくまで「倦怠」の煙りに包まれて(“洗練”とはそういうことだ)表現されなければならない。つまり、華やかさ・陽気さの背後に絶望感が見えてこないと、ただの「群がる男どもをうまくあしらう美女」になってしまう。それではまったく「ソフィステケイテッド・レディ」ではない。この曲をこなすには、レディ・デイ(ビリー・ホリディ)とまでは言わないが、アニタ・オデイ、いや、せめてヘレン・メリル程度の表現力は必要だ。初演でこの曲を踊ったシャーロット・タルボット(英国ノーザン・バレエ)は、テクニックの点で見ればラカッラに及ばないが、表現においてはキャラクターを正確に把握していたし、「真剣」に踊っていた。つまり、完璧な踊りだった。ラカッラは、少なくともエスメラルダと同じように気合いを入れて踊るべきだった。






最終更新日  2003年08月29日 15時09分48秒

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