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花尊し

花尊し

子供たちと私たちの未来のために

一言居士
往復書簡、闘士の遺言


子供たちと私たちの未来のために Sun, 20 Jul 1997 buchi

はじめまして
「じへいしょう」と診断された13歳の長男と、日々苦闘を重ねています。PC歴は10数年なのですが、今月モデムをINしたばかりの、ネット初心者です。これまでインターネットもPC通信も、オタク族とポルノ患者の玩具だと思っていたところがあってね。間違いでしたね。 「情報過疎地」に居住していると、「しょうがい」をもつ人をめぐる「教育」にしても「福祉」にしても、「地域格差」に気づかぬものなのですね。いや、気づかされないで居るのですね。「情報」を管理・統制しているモノが存在するのですね。「知らしむべからず、寄らしむべし」ってね。我が家の状況は、中学の「とくがく」へ通う長男と、小学6年の長女の4人家族。妻は小規模な海産物商社に勤務。私は自宅でPC入力代行業。かれこれ4年程前に、長男の処遇をめぐって「とくがく」教師・学校と揉めまして 以来、妻は「しょうがい」をもつ子の「お母さんのための福祉講座」を自主運営。 妻は昨今、ステップアップして、「しょうがい」の種別・特性の垣根を超えた「地域生活支援を考える会」の世話焼きに邁進しています。まだまだ微力ですが、社会の理不尽な処遇と無理解をただしながら、真のノーマライゼーション社会の実現を目指して、「しょうがい」の重い人の地域生活を「活動センター構想」実現を手がかりに考えていこうといったところです。頑張りましょう!共に進みましょう! 「しょうがい」をもつ人と私たちの未来のために!HP注視しています。貴方のご家族のご健康と、そしてご健闘を祈ります。

追伸
厚生省のHP見たことありますか。障害保健福祉部のチャッチ・コピーには「傷害のある人もない人もともに暮らせる社会をめざして」とありました。「障害」=差し障りがあり、害になるモノ。「せいしんはくじゃく」=死せる魂とレッテル貼った厚生省は今度は「傷害」と、レッテルを貼るのかとね。「傷付ける恐れがあり、害になる」モノとね。単なる誤字じゃ済まさないぞと、激怒のメールを送りました。さすがにすぐに修整しました。「差し障りがあり、害になる」ほうにね……。まったく、たるんでいゃがると思いませんか。 当地のよりよき「地域福祉」の発展を目指しましょう。情報交流してください。






差し障りがあって害になる Mon, 21 Jul 1997 sio

 メールありがとうございました。同じ札幌ということで今後ともよろしくお願いします。 私もPC歴は10数年なのですが、と言っても会社での表計算程度ですが、インターネットは昨年の夏からです。オタク族とポルノ患者ですか・・最近は、他にも色んな種族があるようですね。 「障害」は「差し障りがあって害になる」ということで、障碍、しょうがい、 challenged、the handicapped というのも有ったりして、実態に変りが無いのに言葉遊びのような気がしないでもありません。正しく簡潔に表現出来る用語があれば良いのですが・・ 「自閉症」を「じへいしょう」と書いておられるので、「自分の殻に閉じこもり心を閉ざす」「自ら心を閉ざす」といったような障害ではないことを強調しているのだと思いますが、「自閉症」改め広汎性発達障害(PDD)、・・、・・、・・まるで出世魚ではないでしょうか・・ ここが「情報過疎地」なのかどうか、「情報」が管理・統制されているのか、情報が少なくて!判断できませんが・・ 厚生省などおかみの御用HPを見るくらいなら、ポルノ患者になった方がましですねえ。でも、そんな偏見はいけませんねえ・・ 「しょうがい」をもつ人と私たちの未来のために何が出来るか、私も考え行動したいとは思いますが、もう気力も失せかかって・・





ことば遊びの認識について Mon, 21 Jul 1997 buchi

ことば遊びとのご批判について
わたしが「しょうがい」と書いたり、「じへいしょう」と書いたりするので、言葉の言い換えでは、何も変わらないと、ご批判があったのでね。そのことについての認識をしたためます。 私たちの日常を取り巻き、氾濫している言葉には、医学用語にしろ、心理学用語にしろ、科学技術用語にしろ、それぞれその成立及びそれ以降の歴史性があると考えられていますよね。 その多くは欧米から輸入したモノですね。明治期に誤訳し誤記した用語が、そのまま業界用語として氾濫しているのです。当時の医学者にしろ、心理学者にしろ、言語学者ではないので、今日に見る「差別語」を意図したものではもちろんありませんね。しかし、知りうる限りの文字を駆使して、文字どおり「言葉遊び」をした結果、今日の、WELFARE=神の恩寵「福祉」であり、FEEBLE-MINDEDNESS=貧困なる魂=「精神薄弱」なのですよね。「障害」にいたっては、IMPAIRMENTの損傷にも、DISABILITYの機能喪失にも当たっていませんね。OBSTACLEの「障害物」のままなのです。OBSTINATEなどとは、もう誰も言いませんよね。特定の状況を表現する手段としての用語が、一般化する中で二次的に生成され「差別・偏見の意識を表わすモノ」として流通しているのですね。 ザンギリ頭の先輩達の仕事は、それはご苦労さまなことですが、誤りは正す必要があるのです。「言葉遊びの結果」が、用語として流通・定着していくのですからね。ですから差別と偏見にまみれた用語を変えていくのは、今からでも遅くはないし、やがて、良きにつけ悪しきにつけ2世代もたてば、淘汰されるものなのですから。 それにしても適当な言葉がない、これは私たちの「貧困」ですね。出世魚でも漢字の名があるものもあるのにね。ひらがなでかくのは、漢字のそれぞれの意味が許せないからです。「心など閉ざしていない」のが、私の息子です。やりたい放題、勝手気侭の毎日です。まったく開けっぴろげ。「この子のどこが、自閉症なのサ」とは、近所の人々の声。つまりそうした認識が一般化されているのでね。地域での作用反作用は、皆さん先刻ご存知の通りです。そんな悪戦苦闘の日々ですからわたしは「レッテル張り」には過敏なのです。 厚生省は、これまでセクションを分けていた「身体障害」「精神薄弱」「精神障害」担当部門を昨年7月に、「障害保健福祉部」として統合しましたよね。そして本年3月に、外郭団体のリハビリ協会が「障害者保健福祉国際セミナー」を大々的に開催しました。この一連の動きは、「WHOの障害分類三つのレベルの定義」を受けた、制度的改編であり、政策的見直しの端緒なのだそうですね。これは福祉切り捨てに繋がる行革改編にしてはならないし、重度の人々の地域生活を保証する改編にしなければと、考えているところです。 8月5日と6日、札幌において「障害の重い人のための活動センター構想」実現へ向けた北海道社会福祉協議会主催の研究会議が開催されます。北海道、全国社協の後援です。「活動センター構想」の主唱者 高松鶴吉(西南女学院大学教授)を始め、岡田喜篤(国立秩父学園園長)、柴田洋弥(武蔵野市デイセンターやまびこ施設長)、松友 了(全日本育成会常務理事)などの、全国社協の調査研究委員らが、一堂に会します。これは昨年5月に打ち出された、障害の重い人ほど行き場がない現状を直視し改める施設体系見直しの提言実現のために、全国各地で開いてきた会議を方向づける大事な研究会議です。札幌からは、妻の水先案内人「北の沢デイセンター」施設長の花崎三千子さんと、私の妻と活動を共にしてきた燕 信子さんが「しょうがい」をもつ子の母親としてシンポジウムに参加する予定です。注目してください。 長々と書きましたルール違反かな。失礼しました。






ホームページを開設されますよう Sat, 26 Jul 1997 sio

  ひらがなが良いかどうかは何とも言えませんが、ひらがな化したとしても、その語源、歴史までは抹消出来ないでしょう。誤りは正す必要があるのは確かですが、差別と偏見にまみれた用語を変えたとしても、変えたその言葉が再び新たな差別用語になっていくのではないでしょうか。言葉は生き物ですから、どのように成長していくか、予測は困難でしょう。 言葉の言い換えでは、何も変わらないと言う人もいるでしょうが、そういう様々な努力の積み重ねは大切だと思います。 ザンギリ頭の先輩達が苦労した翻訳のことから、目指すべき《「しょうがい」をもつ人と私たちの未来像》についてまでの、岩渕さんの豊富な知識、確固たる主張、意見、訴えなどを御自分のホームページで公開されますよう希望します。

ところで、「しょうがい」関係用語にお詳しい岩渕さんに教えて戴きたいのですが、私の次のような認識について、間違っておりますでしょうか。
・「精神障害者」という表現についてですが、身体障害者に対比して精神障害者と呼び、身体的に対して、精神的であることを意味し、精神作用に関わる障害の一般的な総称としての表現である。
・「知的障害」と精神障害とにカテゴリーを分けるのは法律の便宜上の区分からきているもので、医学的分類ではない。
・「知的障害」とは、精神薄弱、知恵遅れ、精神遅滞などと呼ばれていた障害を言い換えたものである。
・アスペルガータイプとは高機能自閉症で、精神障害に分類される。カナータイプで知的障害を併せ持っている場合を低機能自閉症と呼ぶ、

というのが私の認識なのですが、・・・





「独断と偏見」の私見 Sun, 27 Jul 1997 buchi

岩渕です。メールありがとうございます。あちこちの友人や人々から「HPを持ちなさい。」HPなしでメールで好き勝手な「言葉遊び」を言ってもそれは「ホームレス」のごまめの歯ぎしりと、批判されています。責任を持った主張は、HPでということでしょう。HPを持たない者を「ホームレス」とはフザケた言い方で瞬間湯沸かし器の私は、カッと怒りますがね。メールの書き方も覚束ないでいるのでね。妻にHP作成ソフトを強請っている次第ですが、なかなか。実は先日、HDを3G内臓したばかりで、来年にはと思っています。

自分のHPへ投稿しろと勧める奇特な人が居てね。ご存知でしょうか。鹿児島の「じゃじゃ丸」ドクターが、そう言ってきてくれて「私たちの子どもを取り巻く表現と用語」というこれは、私の妻がその仲間と回し読みした時の資料を送ったところです。妻の仲間のその時の反応はスカでした。言葉なんかどうでも良いから、処遇を、地域資源をというのが、母親達の切羽詰まった要求なんですね。私や妻は、くどいぐらいに原則的に表現に拘っているのですが。

>変えたその言葉が再び新たな差別用語になっていくのではないでしょうか。言葉は生き物ですから、どのように成長していくか、予測は困難でしょう。

その通りです。言葉や表現は、一般には2世代も経てば変化・変質します。100年以上も前の誤った概念と用語規定をそのままにしている「法と行政と業界」の不変?を批判しているのです。そういえば、私の誤字を訂正していただいて有り難う。私などがいくら誤字脱字しようが、体制どころか大勢にも影響はないのですがこと国であるとか、官であるとかいう機関が、「不適切な用語」これは差別表現であることを認める官僚用語ですが。それを続けているのが許せない。そうした無自覚で無慈悲な在り方にたいして、私は声を上げていくのです。「癩」の問題でも、HIVの問題でもね。声を上げ続けた。運動したから変化は見られたのですからね。
ですから「法律用語として明文化」されたもの、つまり官僚=行政用語と、業界用語(医学会、心理学会、教育学会、福祉学会などなど)として人為的に定着してあるものについて「差別と偏見を助長する」がごとき用語・表現であるから、それを廃せと主張したいのです。

>精神作用に関わる障害の一般的な総称としての表現である。

ご存知とは思いますが、「精神保健福祉法」における「精神障害者」の規定には、「精神分裂病、中毒性精神病、精神薄弱、精神病質、その他の精神疾患を有するものをいう」と、その対象を定めています。ですから、ここでいう「疾患」つまり、病気ですよね。それを有する「患者」と。しかし「精神薄弱」とも明記してあるのです。「精神障害者」ともしてありね。「疾患」を有する「障害者」としているのです。ここでは「精神薄弱」も「疾患」の一つになっているのです。しかし「精神薄弱者福祉法」では、「精神薄弱者」の規定はしていないのです。事務次官通知として「児童相談所または精神薄弱者更生相談所において精神薄弱と判定された者」としているのですよ。おかしいじゃないか。方や病理学上の「疾患」、一方では「判定」。これだから曖昧な規定だと批判するのです。 アスペルガー学派にしろ、カナー学派にしろ研究するのはご苦労さんですが、それでメシを食うのなら、ハッキリせんかいと、怒るのですね。誰でも良いから、ハッキリさせて、それでノーベル賞でもとらんかいとね。

>医学的分類ではない。

これは、前述したようなその「規定自体」が、病理学上曖昧なために、法制上もそのまま反映されているものだと考えます。

>「知的障害」とは

その「言い換え」の要求を40年前からしてきた人たちも居るのですね。そこから始めようとね。それが必要だとね。 「じへい」に関しては、少し違いますね。「日本自閉症協会」は、東京支部などは「自閉症は精神薄弱じゃない。アスペルガー型を見ろ」といったふうにね。入手されましたか。その辺のことは東京支部30周年記念誌『未来をめざして』に活動初期の世間との格闘?が詳しく語られています。 私は「じへい」は「せいはく」じゃない。とは言いません。「じへい」だの「せいはく」だの「しょうがい」だのとレッテルを貼るな、「一人の社会生活を送る上で極めて困難な状態にある人」と見ろ。と、言うことですからね。人間として、生きとし生けるものとして、尊厳を傷付けるなということです。その上で、社会は介助の手を差し伸べよと、いうことです。

塩入さん!貴方は、大変に勉強なさった方だ。尊敬します。ですが、私たちは学者でも研究者でもないのですよね。未だに私たちを混乱させている学者や研究者として生業をたてている者たちの怠慢のケツを叩いて上げましょう。そのためには、私のような無学であっても発言することです。引用だらけ、孫引きだらけであっても表現することだと思うのです。著作権とやらがありますがね。研究の学問のアカデミズムのといいながら、金もうけするなというのです。 アメリカの「自閉症協会」の機関誌は『代弁者』アドボガシーだっけ、一知半解で済みません。こなた「日本自閉症協会」の機関紙・誌は『いとしご』と『心をひらく』この落差だな。 3月にスゥエーデンの「FUB」の会長が、来札。講演しました。妻も実行委員会の一員で、ワイワイ言ってましたが。講演記録がまもなく発行されます。私がテープおこしと編集をしました。読んでみてくださいね。

閑話休題
フィンランドでのことだそうですが、「しょうがい」をもつ人々が結党して、国政選挙に候補者を立てたのだそうです。政党の名は、あちらの言葉で「かたわ」を意味する差別語「クリッパン党」?とか名乗ったそうです。「そうデモしないと、世の中はわれわれの存在に気づかない」といつたそうです。当選したそうです。福祉先進国、北欧での話しです。 20年前のデンマーク、スウェーデン、フィンランドなどのいわゆる「高福祉社会」の到来。そしてアメリカの1990年の「アメリカ障害者法」の制定。日本はマダマダです。ですが、WHOの「三っの定義」に従って、例の「しょうがないふくしぶ」の組織改変があった訳でね。これからです。体も脳細胞もガタの来たオヤジですが、子どもと私たち自身のために頑張ります。 お嬢さんの自助努力が何とか世の中と折り合いの付く方向で結実することと、ご家族の皆さんのご健康を祈ります。






「じゃじゃ丸」ドクターことDr.伊地知のH.Pの投稿意見 Sun, 27 Jul 1997 sio

  「じゃじゃ丸」ドクターことDr.伊地知のHome Pageの投稿意見、私たちの子どもを取り巻く表現と用語: 「法律用語」と「役所用語」の誤訳と不適切表現について 拝見させていただきました。

病院、学校、役所、施設、その行く先々で様々な《レッテル》[法律用語]、[医学用語]、[教育用語]、[福祉用語]・・これはやむを得ない面も有ると私は思います。例えば、「自閉的」とか「自閉傾向」というのは教育関係者の呼び方で、医者が「自閉症」と診断は出来るけれど、教育者が診断を下すわけにはいかないので「自閉傾向」と言っている、とかいうようなことです。 非合理的な用語は改めていくべきですが、非合理的とは言えない用語でも、差別的ニュアンスで受け取られてしまうことがあり、これは言葉の問題ではなく差別する人間の心の問題なのですね。

「同病相哀れむ」、「目くそが、鼻くそを嗤う」、「隣の芝生」、「軽い」とか「重い」とか、「よりまし論」・・これは人間の性と言うべきか、自閉症でも高機能と低機能の家族間で、ありますよねえ。

「なんのため」「誰のため」「他人の目」「健常児モドキ」この子の普通じゃいけないの・・自閉症の療法は色々有り、行動療法については、自分の行動とそれに対する賞罰との関係を理解出来ない子にとってどれほどの意味が在るのだろうか、という疑問が有ったのですが、調教的、ロボット的でも結果として社会への適応が可能となるのであればやむを得ないのか、とは思います。ただ、社会へ適応するということが、真に本人の幸せになるのだろうか?幸せの押し売りではないのだろうか?それでは全て受容するのが良いのか?それはただ諦めきって何もしないという事ではないのか?疑問ばかりで解答の無い問題のような気もします。

「不適切な表現」とは、その表現・言葉を使う側が意図すると意図せざるとにかかわらずに、受手が「アラ、嫌な言い方」と感ずる表現・言葉をいうのです。・・全く目から鱗の思いです。

「社会通念上、精神薄弱児(者)と考えられる者」という措置便宜上の「一括り」・・お役所の逃げは、敵ながらあっぱれ、と言っては不謹慎ですね。

『障害者』の通行の妨げ、邪魔物、『障害』となっている放置自転車、はみ出し自販機。 私たちの子どもは、一体、どちら様の「障害」になっているのでしようか。 ・・確かに・・上げ足取りですが、昔「障碍」と書き、その後、当用漢字、常用漢字の制限から「障害」に言い替えたのではないでしょうか。 「精神薄弱」を「知的障害」に言い替え・・
厚生省 IQ70以下
文部省 IQ75以下
法務省 IQ70未満
・・・??? 言葉遊び、言い換え、言葉狩りでは実態は変わらない・・正しく簡潔に表現出来る用語があれば良いのですが、そういう様々な努力の積み重ね、声を上げ続けていくことは大切だと思います。





揚げ足取りへの反論 Sun, 10 Aug 1997 buchi

岩渕です。 電気屋さん。北電では「碍子」を「害子」と書きますか。「しょうげ」が問題なのではありません。「しょうがい」が問題なのです。だから「傷害のある人」などとなるのです。 また、
>「自閉的」とか「自閉傾向」というのは教育関係者の呼び方で、医者が「自閉症」と診断は出来るけれど、教育者が診断を下すわけにはいかないので「自閉傾向」と言っている、とかいうようなことです。

誤りです。教育者というか文部省は「情緒「しょうがい」」のレッテルです。 いわゆる「小児じへいしょう」と「精神病理学上のじへい症」の概念がいずれも曖昧なために、「じへい的症候群」として診断を下す医学界の流派が半数を超えている結果のように思います。世界的傾向ですって。AUTISMは、ギリシァ語だそうで、その名づけの理由がなんであれ「自分の殻に閉じこもって」などいない子どもを日々見ていれば「何言ってやがんでぇ」てのが、私の理解です。

お嬢さんの関係先のDr.田中がこう言ってます。「訓練、訓練で、がんばり主義の失敗」とね。昨年帯広で開催された彼らの全国規模の学会での発表だそうです。青年期の「がんばり主義」「あれもよかろう、これもよかろうの」我が子への「愛の鞭」かねぇ。つまり訓練と作業、「労働」の押し付けが、まわりは「がんばれ、がんばれ」とね。それが本人の「社会適応」だとね。本人も「がんばれば誉められる」から、「がんばりすぎる」結果としてストレスはピークに達して、退行現象が現われる。それは予想もしていなかった「暴力と引きこもり」これが全国的に問題になっているということです。今ごろ何を言うかです。 私たちは「嫌なこと」「大嫌いなこと」をし続けて成長しましたか。第一に「学校の勉強」のいかほどが、人生の役に立っていますか。教室の外でのやり取りで、「ベンキョウ」したことが、どれだけ大きいか。 単に「受容」を言っているのではありません。 生まれてきた、そのことだけで、「人間とは何か」を考えさせてくれている この子たちに、「社会はこれ以上、何を望むと言うのか」と言うことです。「訓練」で一生この子を縛るのですか。「リハビリ」ふざけるんじゃないよ。この子に必要なのは「ハビリテイション」「リハビリ」なんて「赤ちゃんに戻るしかない」それこそ退行現象じゃないか。

あぁ、もう夜明けが近いね。今日は、いや昨夜は溜まっていた帳票を入力整理していたところでした。「じゃじゃ丸」の投稿以来、メールが随分寄せられてね。週末はドットね。メールを書くのも疲れるね。 貴方とのメール交換は「知的冒険」があって楽しいよ。暫く留守にするのでね。また「揚げ足取り」をしてくださいね。 我が家は、明朝5時から、6時間の長距離ドライブ函館の隣町上磯町の「おしま学園」での「じりつせいかつくんれん」一週間の母子分離の合宿参加です。「おしま学園」は、第2種「じへいしょうじ施設」です。広大な山が、二つ。いわゆる「コロニー」になっています。「コロニー解体」「地域生活支援の実現」が、私たちの主張ですが彼らのノウハウの獲得は必要です。貴重です。これで2年おきに3度目の参加です。うるさい「オヤジ」は来るな。と、言われていますがね。彼らも時に批判に晒されることが必要です。アハハ。

以下に、8月5日の全社協研究会議へのアピールを付記しておきます。

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札幌[Well-Being Wind's]通信
全社協研究会議 臨時号 1997年8月5日
発行:札幌[Well-Being Wind’s]
全社協提案「活動センター」構想の実現へ
「しょうがい」をもつ子の親たちの声
ひろがれ、ひびけ、とどけ、全国に !!

 全社協研究会議にお集まりの皆さん!  「地域生活支援を考える会」の一員であり、「しょうがい」をもつ子の親の私の声を聞いて下さい。 私は「じへいしょう」と診断される「しょうがい」をもつ子の親です。 私の子どもは、現在13歳、市立中学の「とくしゅ学級」の2年生です。 重度のコミニュケーション上の困難と、いわゆる「問題行動」を抱えて、時には社会の理不尽な差別や偏見にモミクチャになっても、本人の自助努力と数少ないながらも暖かい隣人や子供たちに支えられ、「元気満々」で地域生活を送っています。 この子たちに対する差別と偏見を止めて下さい。なくして下さい。 この子たちも人間です。私や貴方と同じ人間です。  「差し障りがあり害になる」者などではないのです。 確かに随分変わっていて、やることなすことヘンテコリンで「社会生活を送る上での特別の困難」を抱えてはいますが、まずもって人間として見て下さい。  いわゆる「しょうがい」はこの子たちの人格の一部に過ぎません。 レッテル貼りで全てを規定する「差別と分離」を止めて下さい。 住み慣れた地域から引き離し「隔離」しないで下さい。 本人の意志を無視して「収容」しないで下さい。 高みに立った無慈悲な「措置」をしないで下さい。 この子たちは、皆さんと同じ、生きとし生ける人間です。 尊厳を侵すことなく処遇して下さい。  この子たちは、生まれてきたその事だけで、私たちに「人間とは何か」を考えさせてくれています。 万巻の書物によっても得られない「人間の存在そのもの」とは何かを訴え続けている人たちなのではないですか。 「ノーマライゼーション社会」が語られかなりの年月が、経ちました。 また「一人一人の個性を大事にする」とか「個性を伸ばす教育」とか、語られています。 本当にそうですか。  では、地域で生きる重度の「しょうがい」をもつ人ほど、義務教育後の行き場がない残酷な現実は何故ですか。 在宅を余儀なくされて、介助の手も老いに脅える母の手のみという、あまりにも無残な現実は何故ですか。 いわゆる労働も作業も困難な重度の子をもつ母親たちが、自らの「老化」という「しょうがい」と闘いながら、「小規模作業所」を運営する、この絶対的矛盾は何故ですか。 何らかの損傷によって、その能力を奪われ、社会的な不利益を余儀なくされている人々を、支えるシステムをもつ社会が「ノーマライゼーション社会」だと思います。 違いますか。違っていたら教えて下さい。  全社協「札幌研究会議」にお集まりの皆さん! 人間の尊厳に見合ったシステムのある「地域社会」を築いていこうではありませんか。 地域で暮らす重度、重複、重症の「しょうがい」をもつ人の幸福追求権を、これ以上見過ごすことを止めましょう。 「活動センター構想」実現へ向けて、それぞれの地域で声を上げましょう。 地域社会の理解を求め、行政を動かしましょう。 地域生活支援資源、介助のシステム、制度の見直しと新たな創出を求めて要望しましょう。  声を上げ、手をつなぎましょう。  全社協「札幌研究会議」の成果が、全国の心有る人々を突き動かし、「しょうがい」の種別の垣根を超えた連帯で、大きなうねりとなっていくことを確信しています。 真の「ノーマライゼーション社会」の実現のために一歩前へ !!まちが慣れる まちに慣れるわたしのこの子にまちが慣れ わたしのこの子がまちに慣れるそういうまちに わたしは住みたい 






「害子」とは書きませんねえ Sun,17 Aug 1997 sio

  「害子」とは書きませんねえ




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