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花尊し

花尊し

迷信


迷信についての Q & A

それはこうするんだ、とか、そんなことするものじゃない、なんていう決まり事やタブーを教わり、その方たちに眼をつり上げて真剣に言われると得心行かないまでも、まあ年長者がそういうのだからそれに従った方が無難かな、くらいに思い、素直に従う、というのが普通でしょう。
 
たとえば、
(1) 仏壇に生臭ものを供えてはいけない、
(2) 死に顔の写真を撮ると成仏できない、
(3) 一つの仏壇に父方、母方両方の位牌をおいて拝んだり、
(4) 一軒の家の中に二つ仏壇があるの良くない、 同じ部屋に並べるものじゃない、
(5) 同じ敷地内にふたつのお墓をまとめて「両家の墓」というような墓を作ってはならない、
(6) 遺骨をいつまでも家においておいてはならない、
(7) 閏年に墓石を造るものじゃない、
(8) お墓は北向きに建立すると悪い、
(9) 祖先の墓より立派な墓を作ってはよくない、
(10) 墓参りを2箇所続けてするのはだめ、

などなど。

(1) 幼くして逝った息子の祭壇に彼の好物だった"なまぐさもの"たとえばアイスクリームを供えてあげたら家の者になにか悪い事が起きたりするのでしょうか?
お水を御供えしてはいけないのか、いいのか、
アイスクリームを供えたらバチがあたるのか、あたらないのか、
そんな答えは必要ないのです。
要は心(気持ち)の問題なのです。
(2) 未練を断ち切れ、の意味でしょう。
(3)(4) お仏壇は亡き人のためにあるのではなく、この私が仏様に出会わせていただく場としてあるものなのです。亡き人を追慕することをご縁として、迷っているこの私をお教えいただく場、その私に懸られた亡き方の願いをお聞かせいただく場、仏様の願いをお聞かせいただく場こそがお仏壇です。
(5) 核家族化でそうは言えない時代です。
(6) =(2)
(7) 昔、閏月は給料なしで出費を押さえたからです。
(8) 我々の住まいと同じように考えれば、
日当たりの良い自然の恩恵を充分受けられるように建てたほうが良いのです。
(9) 士農工商の階級によって墓の大きさが決められていた名残りです。

(10)
Q 墓参りを2箇所続けてするのはだめ?
母と主人の墓は同じ霊園にあるのですが、場所が違うところにあります。 先日知人が墓参りを二箇所続けてしてはいけないと言うのですが、本当にいけないのでしょうか?
霊園が遠方にあるため、できれば一緒にお参りして来たいのです。
A 同時に二箇所のお墓をお参りする事は、問題ありません。葬儀あるいは年忌法要のお墓参りの時に、遠方から法要の為にしばらくぶりで駆けつけて来たご親族で、今度いつ来られるかわからない、久しぶりだからということで、近くのご先祖さまのお墓、親戚のお墓などにもお参りする方がおられます。これを「ついで参り」と言って嫌う習慣があります。「ついでに」と言う気持ちがいけません。心を込めて誠を尽くすという気持ちを持ってのお参りであれば、前日から到着しているのであれば前日に、当日であれば少し早めに来てお参りを済ませておくようにすれば「ついで参り」とは言いません。せっかくのお墓参りであるならば心の余裕も必要です。お墓とか先祖のことになると、祟(たた)るとか家が滅びるとか言って、変にこだわったり、やたら怖がったりする人がいます。先祖を粗末にする心、感謝を忘れた心はいずれ巡り巡って自分の身を滅ぼします。このことを諭す方便としてついで参り云々が言われるようになった面はあるかも知れません。地方によって、また、家によっては仏壇のところに「如在」と書いてあるところがあるそうです。これは読んで字の通り「在る(居る)がごとく」ということです。つまり、仏壇にしろお墓にしろ、そこに先祖が生きて存在すると思えばいいのです。生きている人と同じように接し、思いやりの心を持ってつきあえばまちがいありません。いつもついでばかりじゃ気を悪くされてもしかたがないでしょう。近くに来たのに素通りされたらやっぱりがっかりするのではないでしょうか。しかし、一つだけ、生きている人間と違うところがあります。もし、本当は気持ちはあるんだけれど、どうしてもお参りできなかった、などというとき、「ほとけ」はその心を必ず、絶対、確かにわかってくれるのです。ものの見方には二つあります。お参りするほうと、されるほうです。お参りする方としては、どうせ行くなら同じ墓地にある他の墓も寄ってお参りしたら、一遍に方が済むと思うものです。このことを、詳しく言えば、『一遍に』と『方が済む』が問題なのでしょう。お参りされるほうから言えば、墓地に埋葬された遺骨は、自分のことを振り返って欲しい、思い出して欲しい、会いに来て欲しい、語り掛けて欲しい、家族の成長を目の前で見せて欲しいと……願っていることでしょう。しかし考えてみると、そのお墓には他に埋葬されている方がおりませんか。もし居ましたら、父親のお参りに行って、祖母のあるいは祖父のお参りを、ついでにすることになります。なにか変ですね?基本は、いつでもそうなのですが、お墓はお参りして、はじめて墓であると言う事です。ついでと言う言葉は、そぐわないことなのです。ある目的を持って、一途にものを突き進むことがあります。例えば山の向うにある村に、道を通そうとトンネルを掘ったとします。ところが、穴を掘ると、今まで地中に隠されていたものが、掘り出されます。小判であったり、化石であったりします。『偶然』『不思議』という言葉はこの時使われますが、小判や化石を目的とする発掘には、出てきて当たり前、出なければ、致し方ないことなのです。この意味では、世の中『偶然』『不思議』ということはあり得ないことになります。まして、小判や化石が、ここに有るから、居るから掘ってくれと言うことはないのです。勿論、掘ってくれなかったら恨むとか、ついででも良いから掘ってくれ、ということもないのです。死者は見とおしていると言う言葉があるとすれば、その人が語らしめたことです。お墓参りに決まりなどないのです。もしあったならば、作法ばっかり気になって、偲ぶこともできません。何事も、自分の良心に素直なことが大事です。 さらに、それでもついで参りが気になることがありましたら、「ついで参りで、ごめんなさい」「お久しぶりです」「こんな形でなくては、なかなか来れないの」と、お参りするのです。

田舎に住み、日頃のお墓のお世話や、法事の用意をする者にとっては、年に一、二回 訪れて、お墓や仏壇のまつり方にあれやこれや異を唱える遠くの血縁には閉口させられます。 まあ良いや、と思えることもあればなかには素直に従えない不合理なことや残された家族の気持ちを踏みにじるようなものもあるようです。 仏事の作法にはそれなりの意味がある、というのも一理ではありますが・・。ああすると悪いことが起きる、こうするとたたりがある・・。そういう「脅し」は宗教ではありません。 また、たたりを畏れる心は信仰心ではありません。
 
仏教は因縁果の道理を説くものであり、この道理にはずれたものが迷信です。迷信に惑わされ、 脅しに心揺れるのは、弱い私たちの常ですが、脅しに心穏やかでないその私こそを問われるのが仏教だと思います。

功徳を積まねばならない、とよく言われますが、功徳とは世の中のよい行いはいうに及ばず、仏教で説くところの善行を自ら実践して行くことを意味します。つまりお経を読んで積んだ功徳は当然ながらその人自身のものとなり、自分で積んだ功徳を自分のものだけに終わらせずに、亡くなられた方へ振り向けていくことが大切であると説かれます。これを回向(えこう)といいますが、お坊さんの読経の功徳を、死者に差し向けてもらうため、自らもお経を読むことになるのです。ですから、お葬式や法要のときにあげるお経は、故人の冥福のために功徳を振り向けるひとつの回向であると考えていただき、浄土宗の檀信徒にとってお経は聞くというのではなく、読誦すべきもので、その対象者は自分自身であり、それを故人や過去、現在、未来のすべての生きとせ生きる物に振り向けると考えていただきたいのです。

Q 自殺した者は成仏しないって本当でしょうか。
A 不殺生戒という戒律はものの命を奪ってはならないという掟です。すべてのものの命を平等に見る仏教では人間のために存在している命は一つもありません。すべての命は平等で尊いものであると考え、「牛は良いが鯨は殺してはならない」といった理論はありませんし、ハエも人間も同じ尊い命を生きていると考えるのです。そのような教えから見ますと、魚や動・植物を毎日食べ続けている私たちと、自らの命を絶った者とどのような違いがあるのでしょうか。他の命を殺しても成仏できるが、自分を殺した者は成仏できないというこの考えが仏教にないことは明らかです。つまり、自他の命を奪うという、不殺生戒を破った者が成仏できないならば、地球上のすべてのものは成仏できません。死の縁無量とは私たちが亡くなっていくのは何が縁となるか分からないということです。病気が縁となるかも知れませんし交通事故で亡くなるかも知れません。どのような亡くなり方であっても亡くなり方によって成仏が決まる訳ではありません。自殺も一つの死の縁であり無量の縁の中の一つなのです。殺生罪などの悪を重ねながらしか生きられない私たちのために、阿弥陀如来の大いなる救いがあることを故人を縁に聞き、故人をそのような尊い縁と受け止められたとき、私たちは故人の成仏を確信するのです。

Q.遺骨を分骨すると故人が迷うと言われましたが…。
A.遺骨を分骨しても亡くなった者が迷うことなどありません。お釈迦さまの遺骨は八つに分骨されて仏舎利塔に納められましたし、浄土真宗では伝統的に親鸞聖人の廟所である大谷本廟に故人の遺骨を分骨して納骨する習慣があります。むしろ分骨するのが浄土真宗の門徒としての心得のようにして受け継がれてまいりました。それは、親鸞聖人の遺骨が埋葬されている大谷本廟に親しい者の遺骨を分骨して埋葬することは、永代にわたって浄土真宗の教えを聞くご縁が結ばれるという理由からです。 私たちのご先祖は、後々の子孫のことまでを考えて「門徒は大谷本廟に分骨する」という伝統を築き上げてくれたのです。 「分骨すれば故人が迷う」と考えておられる方は、きっと浄土真宗以外の方で、遺骨には故人の魂か何かが残っていると考えているのでしょう。故人は仏さまと成られましたので、いつまでも遺骨などの身体の一部という限られた領域にはおられません。もっと広々とした自由な空間で私たちを導いて下さっておられるのです。浄土真宗では分骨して大谷本廟に納骨することを進めております。故郷のお墓に分骨されても結構です。大切なのは分骨を通して教えに遇うことなのです。

Q 前世の業によって現在の境遇が決まる?
A 障害のある者や差別されている人たちに前世の業だからと言って、現在の境遇を仕方ないものとあきらめさせる手法として前世の業が語られてきたようです。良いことをすれば良い結果を受け、悪いことをすれば悪い結果を受けるという因果応報を説き、現実社会の貧富、心身の障害や病気、災害や事故、性別や身体の特徴までもが、その人個人の前世の業の結果によるものと理解させ、差別を助長し、被差別、不幸の責任をその人個人に転嫁してきた歴史があります。インドにはカーストという差別制度がありましたがお釈迦さまは「人は生まれによって尊いのではない。また生まれによって賤しいのでもない。人は行いによって尊くもなり、賤しくもなるのだ。」 と説き最下層カースト出身者の弟子ウパーリの出家に反対する弟子たちを諭したのです。何か不幸があるとすべて「前世の業」と片付けるのは大きな間違いです。

Q 人間が死んだらどうなるのか
A 人間の身体は地水火風の四元素からできており、人間が死ぬということはこの四つの元素がバラバラになることです。地の元素がなくなると大地を依り所として立つことが出来なくなり、人間の身体の大部分を占めている水の元素が失われると痩せ細って枯れていきます。火の元素である体温も失われると身体は冷たくなり、風の元素が無くなると呼吸も止まります。釈尊は人間は死後どうなるかという問いに対し灰になって土に帰ると言われ霊魂の存在についてもそれが「ある」とも「ない」とも言われず私たちが認識し判断出来ないものであるとしてこれを問題とすることを禁じられました。 その意図は、人生にとって最も大切なことが、現実の私たちの苦しみ、悩みをいかに解決し、いかに、生きるかにあったからであります。霊魂とは、あえていうなら思い出ともいえましょう。亡き親も子もみな思い出の世界に出てきます。人が亡くなって、美しい一生涯であったという面影は残った者の中から去りません。そのような意味で、亡き人の霊魂(生命)はいつまでも永遠に私たちの心に刻まれているので、霊魂は不滅と言うことも出来るでしょう。

Q 身内の死や事故・病気などの不幸が続いた時、友人から「宗派を変えなさい」と言われました... ?
A そういう時人間は不安になるもので、その原因を方角や日の善し悪し、先祖や水子のたたりなどに責任転嫁する方がおられますが、すべての結果には原因と条件(縁)がありますのでぜひ正しい見方・考え方をしていただければと思います。信ずる宗教宗派によって禍を受けたり、逆に禍から逃れることが出来るというのは間違いです。人間は自分にとって都合の良いことは喜んで受け入れ、都合の悪いことは他のせいにしたり逃げたりいたしますが、私達の思い通りにならないのが人生です。

Q 結婚式はどこで挙げればいい
A あなたやあなたのお家の方が仏教徒であれば神社や教会での結婚式は神様を冒涜することになり、神前での三三九度の盃や、神様への誓いの言葉も嘘になってしまいます。信じてもいないものの前でのそのような行為はただの儀式であり、形だけの中身のないものなのです。もしあなた、もしくはあなたの家が仏教徒、特に浄土真宗の門徒でしたら、結婚式は阿弥陀さまの前、つまり仏前で行うのが本当です。阿弥陀さまの前で三三九度の盃を交わし、誓いの言葉を表明するのです。

Q 宗教の目指すところはみんな同じ
A お正月の初詣で御利益を目当てに自分の宗教と関係ないところへ行っている人はすでに我欲を満たす宗教への入信過程を通過中です。仏教の教えの根本は「縁起」です。一般に言われる「縁起をかつぐ」の縁起ではなく、すべてのものは 縁あって起きている(様々な事象は様々な条件が整って起きる) という普遍の真実のことです。仏教は神などの創造主を認める宗教ではありませんので、全宇宙のすべてのハタラキと存在は縁によって生じ、縁によって滅するのです。その縁は決して偶然のものでなく必然として作用しているものなのです。その縁起の法を根本として展開される教えが、「諸行無常(すべてのものは移り変わっている)」「諸法無我(すべてのものに不変的固定的な我というものは存在しない)」という教えです。この教えを基に自らを見つめますと、全く逆の思いに縛られていることに気づきます。いつまでも若く健康で長生きしたい、子供たちはみんな元気で親孝行、仕事や生活も順風満帆など、勝手な思い込みを持ち、自分に都合が悪ければ、不平不満を言い、腹を立て、他人の幸せをねたみ、恨みを結ぶ、といった「諸行無常・諸法無我」に背を向けた生活を送っております。自他に執着する自分であることに気づき、「縁起の法」そのものであるアミダというハタラキかけの中に自分がいることを自覚する。そして慚愧(深い反省)の生活と歓喜からの報恩の行動が真の人間の生き方である事を仏教という宗教は教えてくれるのです。

Q 忌みことば
A 葬式での忌みことばの例(重ねて、重ね重ね、重々、またまた、再び、再三再四、返す返す、続いて、繰り返す、次々と、また、なお、さらに、くれぐれも、いよいよ、しばしば)
不幸が重なることを連想させるようなことばを避ける、という心理に過ぎないのですが、人の死をあるがままに受け取るなら、気にする必要はなく、変に気にするあまり不自然にならないようにしたいものです。


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