ふたつのランドセル ~ 海にしずんだ対馬丸 ~
🎒 今日は終戦記念日 🎒小学校低学年向け紙芝居で~す 2人の姉への思い「平和資料館で子どもが騒いでいるのはどうか?という声もあった。でもここは子どもの平和資料館。常に子どもの声が聞こえるようにしたいのよ」。 記念館を運営する対馬丸記念会の外間邦子常務理事(77)は話す。 外間さんは対馬丸で2人の姉を亡くした。 記念館の一番最初に展示されている小さなランドセルの持ち主「みっちゃん」「えっちゃん」が外間さんの姉だ。 「みっちゃん」こと美津子さんは当時10歳、「えっちゃん」こと悦子さんは8歳だった。 ある日、みっちゃんは学校から帰ってくると「悦子と一緒に疎開すると先生に言ったよ」と元気な声で得意げに話したという。 「お国のために」という思いは一切なく、旅行にでも行く気持ちで2人は船に乗った。44年8月22日、午後10時12分頃、対馬丸は鹿児島県悪石島近くで魚雷攻撃を受け、同23分頃、沈没。 2人は帰ってこなかったが、対馬丸とは別の船で運ばれたランドセルだけが、両親の元へ帰ってきた。 「ここはみっちゃん、えっちゃんが帰ってきたかった学びや。対馬丸の子どもたちが未来を取り戻す場所なのよ」。 外間さんは、10歳と8歳のままの姉たちを含む、対馬丸の子どもたちに思いを寄せる。館内の二階に展示されているこちらの二つのランドセルは、記念館のシンボル。このランドセルを使っていた姉妹は、対馬丸に乗船して事件に遭い亡くなってしまいました。ただ、このランドセルは別の船に乗せていたため残っており、事件の後はお母さんが大切に保管しており、記念館に寄贈されたそうです。今から70年以上も昔のランドセル。これを使っていた二人の姿は、どのようなものだったのでしょうか。。二回から下り、一階には犠牲になった方々の数少ない遺品だったり、あとは対馬丸以外の船で沖縄から疎開した方々が疎開先でどのような暮らしをしたかなどに関して展示されています。遺影は直接の接写はせず、あえて遠目で撮っているのでご容赦いただければと思います。亡くなったのは1,500名ほどですが、展示してある遺影は現時点では396枚。全体の四分の一ほどですが、対馬丸事件が起きたあと、沖縄では十・十空襲や沖縄の地上戦が勃発したことで多くの場所が焼け野原になってしまったわけです。そのため、資料がほとんど残ってないんですって。最近でも、ごくたまに親族などの方が写真を持っていたということで増えることがあるとのことですが、もうこれ以上は厳しそうみたいです。以上、対馬丸記念館に関する紹介でした。あと、博物館がある公園には、少し歩いた場所に上の写真の慰霊碑が建っております。しかし、これだけの悲しい事件があったとは。今まで太平洋戦争に関していろいろ勉強したり、それ関連の博物館も結構たくさん行ったつもりではありましたが、ここは知らなかったな〜。奄美大島にも、生存者が流れ着いたことから対馬丸の事件に関する慰霊碑が建っているそうなので、ここも島に行く機会があったら行ってみたいっすね。ではでは、以上になります〜〜!今年も姉妹Blogをどうかよろしくお頼み申し上げまぁす。 楽天日記『 NO TITLIST 」坂東太郎より https://plaza.rakuten.co.jp/kohakuraonari/ 合言葉は 「青春タイトルマッチ」