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三角猫の巣窟

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純文学の小説を中心に読書録を書いています。基本的にネタばれしています。
小説の構成や描写技法を中心に考察しているので、小説家を目指す人にとっては参考になる部分もあるかもしれないし、小説家を目指すつもりでない人も次に読む本を選ぶ参考程度にはなるかもしれません。
古いほう読書録はほとんどこのブログへの訪問者がいなくて日記代わりに雑感をメモしていただけなので他の人が読むほどの内容じゃないです。自分で読書録を読み返してもあらすじを思い出せない本があって、もうちょいあらすじなり特徴なりを詳しく書いておけばよかったと反省したので、最近は時間をかけてちゃんとレビューするようにしています。
いち本好きとして良いと思った小説は賞賛して悪いと思った小説は罵詈雑言を浴びせているのですが、小説の感想というのは個人の知識や価値観を反映させるので、結局のところ自分で読んでみないと意味がないのです。
ネットの中をさまよって偶然この読書録にたどりついた人は、面白いと賞賛しているのを読んでみたり、逆に罵倒している小説がそんなにつまらないはずはないと読んでみたりするのもよいでしょう。
この読書録がきっかけとなって他の人にも本が読まれることで、小説の発展にほんの少しでも貢献できればよいと思っているのです。

 ∧ ∧
(=‘ω‘ =)つお勧め本
辻原登『東京大学で世界文学を学ぶ』
辻原登『東大で文学を学ぶ ドストエフスキーから谷崎潤一郎へ』

評価基準:
★★★★★:感動したニャー
★★★★☆:技術や感性に芸術性があって面白いニャー
★★★☆☆:暇つぶし大衆小説程度ニャー
★★☆☆☆:描写技術や知識が出版に満たないレベルニャー
★☆☆☆☆:ゴミニャー

 ∧ ∧
(=‘ω‘ =)<みかんの妖精のLINEスタンプを作ったのである。
2019.01.15
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カテゴリ:教養書
死者が解脱して仏になる方法を書いた本。

●まとめ

バルドゥ(中有:死んでから次の生を受けて生まれ変わるまでの意識の中間状態)には六種類ある。
1、母胎より誕生してこの世に生きる姿のバルドゥ
2、夢の状態のバルドゥ
3、禅定・三昧状態のバルドゥ
4、チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)
5、チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)
6、シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)

死ぬときに息が途絶えて体内にまだ息が残っているチカエ・バルドゥの状態の死者が解脱するためにポワ(転移:意識を身体から抜き取ってより高い状態へ移し替えるチベット密教のヨーガ的秘法)の導きを授ける。能力が優れたヨーガの実践者は導きが必要なく解脱できて、普通の能力のヨーガの実践者はポワの導きを必要とする。できれば生前に前もって自分で解脱作法を行うべきである。

死者が解脱に到達できない場合にはチョエニ・バルドゥが現れて、カルマン(業:我々の体と言語と心の行う善悪の行為が潜在的な影響力となって後にさまざまな結果を報いとして引き起こすこと)が引き起こす死者を錯乱させる幻影が現れ、音響と色彩と光明の三つの現出があり、死者は恐怖と畏怖と旋律で失神する。3日半の間失神して目が覚めると、輪廻の進行が反転してあらゆる幻影が光明と身体を持った姿で現れる。静寂尊のバルドゥにおける難関には7つの段階があり、それぞれの段階で導きを受けて覚ることができない場合でも、次の段階で覚って解脱できた者が多い。
1日目は光とともに天界の存在が近づいてくるが、微弱の白色の薄明かりの方に喜びを抱いて執着してはならない。これに執着すると、天上界の存在の境涯にたどり着いた後は、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六道に輪廻することになる。
2日目はヴァジュラサットヴァの神群と地獄の悪いカルマンの二つが会いに来る。自分の激しいいかりによって集められた汚れからできている微弱な薄明かりの方に喜びを抱いてはならず、これに執着すると地獄に堕ちる。ヴァジュラサットヴァの慈悲の光明に敬慕の気持ちを寄せて導きを受けると、能力の弱い者でも解脱できる。
導きを受けても慢心と罪垢が大きい人は慈悲の光明の鉤針を恐れて逃げ出すので、3日目にさらに尊いラトナサムバヴァ如来の神群と人間界の光の道の二つが会いに来る。ラトナサムバヴァ如来の黄色い光を恐れてはならず、これは叡智であると覚って敬慕の気持ちをよせるべきで、もしこれを汝自身の意識自体の現れであると悟れば仏の身体と光明が汝と一体となって溶け入って仏になれる。人間界の青色の微弱な薄明かりの方は慢心によって蓄積された習癖を作る力から出来上がっていて捨てられるべき道なので、喜びを抱いてはならず、これに執着すると人間としての境涯に再生して生老病死に悩まされ、その後も輪廻の境涯に留まって解脱できなくなる。
何回導きを受けても仏との縁が薄い大罪人や誓いを守る意思が弱い人は覚ることができずに音響と光明を恐れて逃げ出して、4日目にアミターバ如来の神群と、貪欲や吝嗇からできあがっている餓鬼の微弱の薄明りの道の二つが会いに来る。アミターバ如来の慈悲の光明の鉤針である赤色の光を恐れてはならず、敬慕の気持ちを寄せるべきである。餓鬼の黄色の薄明かりに執着すると、餓鬼の境涯に落ちて、耐え難い飢えと渇きの苦悩を味わう。
これでも解脱できない人には5日目にアモーガシッディ如来の神群と、貪欲と嫉妬から生じたアスラ(阿修羅)の薄明りの道が現れる。アモーガシッディ如来の心臓から発する緑色の光を恐れてはならず、敬慕の気持ちを寄せるべきである。アスラの赤色の薄明りには執着と反発のどちらもしてはならず、これに執着するとアスラの境涯(修羅道)に堕ちて闘争と口論の耐え難い苦しみを味わう。
何度導きを受けても慈悲の光明の鉤針にかからずに輪廻を続ける者には6日目に五仏が眷属を伴って一斉に表れて、六道の薄明りも同時に現れる。この時に叡智の光に敬慕の気持ちを寄せるべきで、六道のどれかの薄明りに執着してはならず何も気が付かないふりをするとよい。
能力の劣悪な人の中でもとりわけ能力が劣って導きを受けても覚ることができずに下方を彷徨う人には7日目に清浄なクァサルパナ(虚空遊行)の世界からヴィディヤーダラの神群と、無知からできている動物(畜生)の世界の薄明りの道が迎えうける。悪い悪癖を作る力の領域を浄化するサハジャ(自然生得)の叡智が明るい五色の光を放つがおびえてはならず、これは叡智であると悟れば轟音が鳴りわたる。薄明りの方に執着すると、無知である動物の境涯に堕ちて、愚鈍・蒙昧・隷属の苦しみを味わう。
導きを受けても解脱できないでさらに下方の輪廻の境涯に彷徨う者には静寂尊が姿を変えた忿怒尊の神群が現れ、死者は恐怖と戦慄と慄きに支配されて現出するものの本体を覚ることは難しくなり、死者は意識を自分のものにできないで失神を繰り返す。密教のヨーガを実践する行者は最低の者のうちのさらに最低の者であっても忿怒尊を見分けて、自分の守り本尊であると覚ることができて解脱できる。
8日目に大吉祥ブッダヘールカと呼ばれる忿怒尊が現れる。これはヴァイローチャナ男女両尊が本体で、守り本尊なので恐れてはならず、自身の意識が身体をとったもの(意成身)であると覚れば解脱できる。
もし恐れて逃げ出したら、9日目にヴァジュラヘールカと呼ばれる忿怒尊が現れる。これはヴァジュラサットヴァ男女両尊が本体で、守り本尊なので恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。
もし恐れて逃げ出したら、10日目にラトナヘールカと呼ばれる忿怒尊が現れる。これはラトネサムバヴァ男女両尊が本体で、守り本尊なので恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。
もし恐れて逃げ出したら、11日目にはパドマヘールカと呼ばれる忿怒尊が現れる。これはアミターバ仏男女両尊が本体で、守り本尊なので恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。
もし恐れて逃げ出したら、12日目にはカルマヘールカと呼ばれる忿怒尊が現れる。これはアモーガシッディ男女両尊が本体で、守り本尊なので恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。
このバルドゥの導きを受けることができない場合には、善人であっても死後に人間の世から退いて下の世界に輪廻して彷徨う。そして13日目にガウリー八女神とさまざまな動物の頭を持ったピシャーチーが現れる。これを恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。
14日目に30の怒りの容貌(忿怒相)をしたヘールカ神群とさまざまな動物の頭の形をした28のイーシュバリーが現れる。これを恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。
これで覚ることができないと、血をすする神群をすべてヤマ(閻魔)王とみなしてしまい、恐怖で失神して輪廻を彷徨い続ける。ヤマ王たちは死者の脳をすすり、頭と胴体を引きちぎり、内臓を食らうが、汝は生身ではなくて意識からできている身体で、殺されて裁断されても死ぬことはないので恐れる必要はない。ヤマ王たちが自身の意識から現れ出たもので実態を持つものでないと知れば恐れを脱して神々と一体となって仏になることができる。

シパ・バルドゥで意識からできている身体が彷徨っているときの喜びや苦しみは生前のカルマン次第で決まる。自分の故郷、親戚、自分の死体などを見ることができて、私は死んでいるのだと考えて哀しみを味わい、自分の死体に入り込もうとするが、長期間のチョエニ・バルドゥで死体が埋葬されたり腐敗したりしてかつての身体には意識は居場所を得ることができず、悲しい思いをする。新しい身体を求める気持ちを絶って、気持ちを動かさずに無作為の状態に置くと解脱できる。シパ・バルドゥの苦しみは21日間続くのが一番多いが、死者の生前におけるカルマンによって差がある。
瞑想して再生を止めることができれば仏になるが、自身を清く保つことができず瞑想に慣れていない人は輪廻を終えることができずに彷徨って再生の母胎に進んでいくので、胎の入り口を閉ざすことが重要になる。胎の入り口を閉ざす方法は5種類あり、男女が情を交歓している幻影の間に入り込まずに供養をささげて、あるいはどの守り本尊でもいいから男女両尊を心に念じて、あるいは愛着と敵意のどちらの気持ちも持たないように決意して、あるいはものは実在せず幻のようなものだと覚るか、あるいはすべてのものは汝自身だと考えて瞑想すると胎の入り口が閉じる。

●感想

これがどういう本かと端的にいうと、修行僧でない人でも死に際に取り乱したりせずに安心して死ねるように導くためのチベット密教の葬式の作法を書いた本のようである。補注や解説があるので宗教を研究したい人には役に立つだろうけれど、一般人が読んでもあまり得るところはないかもしれない。仏の方角、色、乗り物、持ち物がそれぞれ違って、違う意味があるというのは初めて知って、仏教関連の美術や仏像をちゃんと勉強するのも面白そうなので、LOTO7かBIGが当たったら寺めぐりをやろうと思う。
さて私は仏教について何か意見があるわけでもないので、死と宗教について考えることにする。世界各地にいろいろな宗教がなぜ生まれてなぜ定着したのかというと、猿から進化してある程度知性を身に着けた人類は自分がどこからきて自分が死んでしまった後はどこに行くのかというのを何らかの形で納得する必要があったので、神がこの世界を作っていて死んだら天国に行くよとかの理由をつけて死ぬことに納得したわけである。私は神も仏もいなくて魂や死後の世界はなくて死んだらそれで終わりだよという唯物論的な解釈に納得していて、神や仏による救済はいらないので無宗教である。しかしその夢も希望もない科学的な説明で納得しない人が宗教を必要とするのも理解できるので、宗教をなくすべきだとも思わないし、信教の自由があるべきだと思うし、宗教の戒律よりも個人の自由意思が優先されるべきだと思う。死を受け入れるという目的が達成できるのなら手段はどれでもいいわけで、どの宗教が正しいとか間違っているとかで宗教戦争をするのはナンセンスである。何かの宗教を信仰している人にしても古い教義にこだわり続けることのナンセンスさに気が付きつつあるようで、宗教を生きるための手段にする人たちは手段を改良してより良く生きる方法を模索するようになっている。イスラム教は戒律が厳しいせいでイスラム圏で女性差別が残って近代化が遅れたけれど、サウジアラビアで女性が男性と一緒に仕事できるようになったりしてイスラム教も寛容な方向に変わりつつある。宗教を生きるための手段とせずに目的にする人は原理主義者になるけれど、教義通りに行動して自分で考えることをやめた人は、信仰心がなくても平和で幸福に生きていけるという現実を受け入れられずに他の宗教や文明を破壊するテロリストになる。原理主義者は貧しい地域に多いけれど、科学的で合理的な教育が普及したら原理主義はなくなっていくんじゃないかと思う。
私は科学的に正しいか否かだけを判断基準にして非科学的なものを全否定するのでなく、面白いかどうかで物事を考えて、面白いものはあったほうがよいと思う。科学的な根拠がないからといって人生の役に立たないというわけではなく、非科学的でも人生を面白くする役に立つ。例えば魂という物質は科学的には存在していなくて、幽霊は脳の損傷が見せる幻影だと言われているけれど、幽霊という概念があるからこそ我々はホラー映画を楽しむことができる。あるいは占いには科学的根拠がなくても、何かの行動の動機付けになるという点で占いが現実を変える効果がある。例えば初詣しておみくじを引いて、大吉で恋愛運に待ち人来たると書いてあったら、そのままぼけーと待っている人はいなくて、何か出会いがあったらこの人が運命の人かなと声をかける動機付けになって、結果的に占いが当たる可能性がある。占い師や霊能力者は全員がいんちきなのではなく、人生を楽しくするエンターテイナーやカウンセラーと見なせばよい。あなたの先祖はちゃんと成仏して見守っていますよと言われたり、神は罪を許したと言われたり、土地のお祓いしたから家を建てても大丈夫だよと言われたりして安心する人がいるなら、それは手段としては非科学的でも、結果的に心の安定を得るという目的を達成できるならよいことになりうる。日本だとカルト宗教が信者を騙して金儲けしたり、宗教団体が信者を票田にする政治団体化したりするせいで宗教がうさんくさいものとしてとらえられがちだけれど、宗教がよい目的のための手段に使われればそれなりに役に立つ効果があるものである。

そういえばフィクションもバルドゥのように意識が見せる幻影だけれど、異世界転生小説で死んで異世界に行った主人公がチート能力があるというのはチョエニ・バルドゥの神通力と似ている。異世界転生のような神様がチート能力あげるよというわかりやすい展開でなくても、ドラゴンボールの孫悟空が死んでから海王星で修行して強くなったり、幽遊白書の浦飯幽助が仙水に殺されてから魔族になったり、ナルトが仙界にいって半神半人の仙術を使えるようになったり、BLEACHの黒崎一護がソウル・ソサエティに行って死神になったり、ナウシカが王蟲にはじきとばされて死んで王蟲の触手攻めで生き返って青き衣をまとう伝説の人物になったりしている。フィクションでは登場人物が死んだり、死を超越して神通力を得たりすることが英雄になる条件なのかもしれない。こういうフィクションが日本だけでなく欧米でもうけているので、読者に仏教的な価値観があるから面白いというわけではなく、死んだら神の世界に行って神通力を持つというのは人類に普遍的な願望なのだろう。

★★★★☆

チベットの死者の書 原典訳 (ちくま学芸文庫) [ 川崎信定 ]






最終更新日  2019.01.18 23:26:36
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