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三角猫の巣窟

三角猫の巣窟

文学部は役に立たないのか


文学部は役に立たないという話をよく聞くし、国立大学から文学部をなくそうという動きもある。学ぶ価値のないものはそもそも大学で教えないので、当然文学部では価値のある知識を教えているはずだけれど、世間で役に立たないという場合には就職や金儲けの役に立たず、実用的でないということを意味する。文学部がどう役に立つのかについては偉い教授たちがすでに反論しているので、私はちょっくら視点を変えて文学の研究分野がビジネスで役に立つことがあるんじゃないかと必死に考えることにした。これから文学部に入ることを検討している高校生に役に立てば幸いである。

●文学部にはビジネスに役立つ研究分野もある
・構造主義
構造主義というのは文学理論として語られることが多いけれど、レヴィ=ストロースが文化人類学的研究をする際に構造主義的な考察をしたように、社会の分析にも使える。物事を構造としてとらえて構成要素を細分化していく分析的な考え方は企画を立てる際に役に立つはずである。たとえばモノやサービスを売る場合、店舗の立地、店舗の広さ、駐車場の広さ、営業時間、商品の価格帯、色や香りのバリエーション、商品の配置、店員の人数、店員の年齢、店員の服装、店員の時給、購買層など、要素ごとに分けて掘り下げていくと、具体的なプランを提案できるようになる。売れているライバル店を分析する際にもこうして細分化していくと自社との差異を比較することができる。
コンビニで客の性別や年齢や時間帯ごとに購買データを細分化していくのも構造主義的な考え方で、いまでこそ普通のやり方になっているけれど、昔はチェーン店自体が少なかったのでビッグデータの客観的な分析はされず、個人商店主が常連客の顔や嗜好を覚えて現場のカンで売れ筋そうな商品を揃えていたのである。
コンテンツビジネスにしても構造を分析することで類似コンテンツの製作が容易になる。理系用語でいうリバースエンジニアリングである。これは音楽で言うところのコード進行を知っているか知らないかというくらいの差があって、構造主義的な考え方をして構成要素のパターン化ができるか否かでコンテンツの製作効率が段違いなので、ものづくりにしろコンテンツづくりにしろ、構造主義的な考え方は知っておいたほうがよい。

・記号論
記号というと数学やら道路標識やらをイメージしがちだけれど、ブランドのロゴ、床屋のぐるぐる回るやつ、店の看板、ラーメン屋ののれん、居酒屋の提灯、酒屋の杉玉、街角に立っている黒服、従業員の制服などのあらゆるものが記号といえる。のれんが出ていれば店が営業中だという記号だし、チェーン店の看板があればチェーン店で共通のサービスを提供しているという記号だし、赤提灯があれば酒が飲める記号だし、看板のPの文字はパンダやパトカーでなくて駐車場があるという記号だし、営業マンが高い腕時計をつけるのは金回りがいいことを示す記号だし、事務マンがオフィスチェアにドーナツ型座布団を敷くのは痔の記号だし、上司マンの髪型が不自然なのはかつらを装備している禿の記号だし、街角に黒服が立っていればやくざマンが縄張りを仕切っているという記号になる。客はその記号を一見しただけで記号が意味するものを理解する。AIDMAの法則で言うところのattentionで、客の注意を引くためにはっきりとした記号を掲げなければ客は気づかずに通り過ぎていってしまう。
商品やサービスを提供する側が記号の重要性を理解していなければ、それだけビジネスでは不利になるということだ。たとえば交差点でいきなり紫の信号に出くわしても、進むべきなのか止まるべきなのかよくわからないだろう。紫の信号という記号に対して意味づけされていないので、変な記号をだせば意味が伝わらないどころか逆に混乱を起こしてしまう。同様のことはビジネスでもおきる。たとえばおしゃれなヘアサロンで、フランス語のpetitなんちゃらという店名だけ見ても何の店かわからなかったり、窓をごてごて飾り付けて絵を描いたりして店内が見えずに何の店かわからなかったり、トリコロールのぐるぐる回るださい看板を出していなくてヘアサロンだとわからなかったり、カフェによくあるイーゼル黒板にカット料金を書いていて遠目でみると日替わりランチメニューみたいで紛らわしかったりする場合がある。ヘアサロン側としては精一杯おしゃれにしたつもりでも、記号が間違っているせいで他の店と間違われてその分客を逃がすことになってしまう。
日本政府は外国人旅行者が理解しやすいように看板の表記や地図記号を修正したし、日本語がわからない外国人にも理解できる記号の重要性は高まっている。記号論はデザインとも関連して今後も研究の余地がある分野だろう。

・論理学
ビジネスは弱肉強食の騙し合いの側面もあり、論理のすり替えでごまかされたり、詭弁で反論されたりすることもある。契約書に違約金についてはっきり書いてあるのに、損しそうになるとこの文章には別の解釈もありうるじゃないかとごねて支払いを逃れようとする人もいる。私の元上司である。ショーペンハウエルは「知性について」で馬鹿と議論しても無駄と結論付けているけれど、仕事をする際に上司や客が論理が理解できない馬鹿だから付き合わないというわけにもいかない。契約書や法律やデータに基づいて、反論や詭弁に対して論理的に徹底的に主張することができるということはビジネスでは役に立つ。
海外を相手にビジネスをするつもりなら、なおさら論理的でなければならない。アメリカでは大統領選挙の公開討論のように、自分の意見を一貫して主張しなければ認められない。言わなくてもわかるだろ、空気呼んで察しろ、痛みわけで折衷案にしよう、根回ししたんだからいまさら問題をほじくりかえすな、というのは日本では通用しても外国だと通用しない。意見の正しさを主張して、反論に対して正しさを証明できないのなら、その意見は他の人から見たら正しくないのである。特に日本人が建前と本音を使い分けて論理をごちゃごちゃにしてごねるのは外国では評判が悪く、日本人は何を考えているのかわからないと思われて信頼を損ねている。
日本の会社は官僚主義として国際的に悪名高く、偉い人の意見が間違っていても他の人は反論も指摘もできないせいで、東芝や三菱自動車の上司の無茶な命令に誰も逆らえずに改ざん事件が起きる。論理の正しさと立場の上下を分けずに混同してしまうと、偉い人が論理的に間違った指示をした場合に会社は間違った方向に猛進することになってしまう。理不尽な上司やクレーマー客から身を守るためにも、従業員は論理的に自らの正しさを主張しなければならない。

・歴史
金融業界のエースが、「人文学」を学ぶ理由というライフハッカーの記事ではプライベートエクイティファンドVerdadの創設者でForbsの30 Under 30に選ばれたダニエル・ラムスセンが紹介されていて、彼はハーバード大学で人文学と歴史を勉強して、人文学には金融に通じるものがあると信じていて、「歴史と文学の学生は、1つの存在を複数の観点から理解する訓練を受けています。そのため、株式市場の流れが引き起こす複雑極まる人間社会の力学を正確に理解することができます」と言ってインターンシップ・プログラムに人文学部生を積極採用しているそうである。1つの存在を複数の観点から理解する訓練を受けているというのはどういうことかというと、たとえば歴史では南京事件に対する日本と中国の見方が違うように解釈の違いは頻繁に起きるし、歴史を勉強する人は一冊の本に書いてある情報を鵜呑みにせずに、様々な意見の中から根拠と道理を見つけ出そうとするわけである。文学でもひとつの作品を批評する方法は様々で、作家論やらジャンル批評やら構造主義批評やらフェミニズム批評やらといった多面的な批評とそれに対する反駁を通じて作品への理解を深めるわけである。1つの存在を複数の観点から理解する訓練を受けたから複雑極まる人間社会の力学を正確に理解することができるというのは言いすぎだけれど、歴史は繰り返すし、人間の心理の動きにはパターンがあるので、複数の観点からリスクを理解して、どういうシナリオならどういう行動をとるべきかというマルコフ連鎖的な未来予測のパターンを立てられるというのは投資の際の強みになる。金融トレーダーがアルゴリズムに駆逐された現代では投資家として頭角を現すのは難しくなっているけれど、ラムスセンは金融業だから金融の知識がある人を雇おうというような普通の人が考えるような短絡的に物事を見方をしていないからこそ若くして成功したのだろう。
投資では四半期決算だので短期間に些細な利益を増やすより、中長期的な社会の複雑な変動を洞察して大波に乗るほうが大事である。社会に役立つ企業を見極めて長期的な投資をしたのが読書家として知られるウォーレン・バフェットである。その逆をやったのが東芝で、自分の任期の間だけ儲かれば後はどうでもいいと思っている経営陣が短期の業績水増しにチャレンジしたせいで長期的な成長と信用を失った。
1つの存在を複数の観点から理解することは日本企業のようにイエスマンで固めた上意下達の組織では欠けている部分といえる。異論を認めない組織だと発想も行動も硬直化して時代の変化に対応できなくなる。日本企業は資格取得とかの実用的な知識を即戦力としてありがたがる半面、すぐに役に立たない歴史や思想に関する教養は軽視していて、そのようにして選別された教養がないビジネスマンが専門分野や社内政治にだけ精を出して出世して企業のトップに立ったとき、会社の内部より社会に目を向けないといけないことにようやく気づいても遅くて、社会の複雑な動きを理解できずに会社が傾くことになる。たとえば日本で少子高齢化が予測されていたにも関わらずに人材確保しようとせずに就職氷河期世代の非正規を便利な雇用弁として使い捨てて、今になって人手不足だの中堅がいないだの新卒が採用できないだのと騒いでいる経営者は社会を見る目がないアホである。そういうアホに限って外国人移民を入れれば人手不足が解決すると移民を万能薬かのように言うけれど、日本企業の人権軽視の奴隷待遇は世界中に知れ渡っていて、優秀な人ほど日本を敬遠している。YouTubeにあるJetro Global Eyeの動画だと、ポーランドのワルシャワ大学の日本学科は入試倍率は20-30倍で日本語教育は欧州トップクラスの質だけれど、学生は誰も日本企業で働きたいと思っていないと特集していた。人の行く裏に道あり花の山という投資の格言があるけれど、他の会社がリストラをして採用を絞っている不景気のときこそ優秀な人材を囲い込むチャンスだったのに、他の会社と足並みをそろえて不景気なときに足元を見て待遇を悪化させて、人手不足が顕在化してから慌てて優秀な人材を集めようとしても遅いのである。

さて日本では大学の入試制度のせいで数学ができないから文系に行ったという言い方をされる。しかし数学ができない文学部の卒業生がいることと、文学部の卒業生だから数学ができないというのはまったく違うロジックである。文学部卒でも金融業界で活躍する人が外国にはいるけれど、日本企業では最初から文学部卒を役に立たないという偏見でとらえているせいで、食わず嫌いでわざわざ優秀な学生を切り捨てているのだからもったいない。日本の文学部卒の学生で優秀だという自覚がある人は、文学部卒だというだけで評価しようとしない偏見まみれの日本企業に就職するよりも外資系企業に就職したほうがよい。日本語と英語ができるバイリンガルは大勢いるので英語ができる程度だとたいして評価されないけれど、三ヶ国語ができるようになると競争相手が減って仕事の幅が広がる。

・哲学
たいていの人はたいして才能がなくて換えのきく平凡な人材で、何かの使命を果たすために生きるというより、自分が幸福になるために生きている。幸福とは何かというテーマは人間のあらゆる活動に付きまとう問題で、どんな仕事をするにしても従業員と客が幸福でなければその仕事はうまくいかない。客にだけ評判がよくても従業員が幸福でなければブラック企業扱いされてサービスの質も落ちて結局は客も従業員も離れることになる。ホストやホステスなら客に夢をみさせてそのサービスの対価として指名料金をもらう。テレフォンオペレーターならトラブル解決の対価として賃金をもらう。小説家なら小説で読者を楽しませる対価として印税をもらう。誰かを幸福にしたり、役に立ったり、苦痛を取り除いたりする対価として仕事がなりたつわけである。逆に誰かを不幸にする仕事は犯罪と呼ばれる。難病に効く新薬を開発した研究者は病人の苦痛を取り除いて賞賛されるのに対して、メキシコやコロンビアの麻薬王がいくら大金持ちだろうが社会から尊敬されないのは客を依存症にして不幸にしているからである。個々人が確固たる価値観をもっていなければ容易に組織の価値観に染まってしまい、ただ金を稼ぐことや出世することだけが幸福の基準になってしまい、組織の命令を自分の意思より優先して平気で犯罪をするようになり、捕まって組織から離れるまで悪いことをしているという自覚がなかったりさえする。アメリカで丸腰の黒人を射殺した白人警官は社会を平和にするどころか社会に混乱をもたらしてしまっている。家族のために金を稼いでいるんだという仕事熱心な人が子供授業参観や運動会にも出ず、家族が病気になっても残業して上司と飲みに行き、家族を幸せにするどころか蔑ろにしすぎて捨てられる場合もしばしばある。なんのために仕事をしているのか目的を見失っている人は本末転倒である。
会社に不満があったり転職しようとしている人は、自分が仕事をしていて幸福なのか、自分が他の誰かを幸福にしているのか、給料が増えれば幸福なのか、労働時間が減れば幸福なのかというワークライフバランスを見直すべきである。自分も他人も幸福にならないどころか誰かが不幸になる仕事をしているなら、そんな仕事はやる価値がないし、社会にとって有害にさえなりうる。
哲学に無自覚なまま儒教の価値観をビジネスに持ち込むことも危ない。IT企業なのに偉い人から順にハイスペックのPCを使って、一番PCを使うエンジニアがクソスペックのPCを使わされているという変な会社もあるらしいけれど、年長者を立てる儒教の価値観はビジネスでは効率が悪い。最高の楽器は最高の音楽家が持つべきだというアリストテレスの哲学を知っていれば、儒教のような非効率なやり方は避けられる。
日本人のうつ病や過労自殺が多いのも、哲学が実務に役に立たないと軽視することに原因があると私は思う。日本人は形式上は神道か仏教徒だけれど、葬式をするだけで実際は無宗教が多く、何のために生きるのか、何のために金を稼ぐのかという人生の指針がないがゆえに資本主義社会下では拝金主義になりやすく、金を稼ぐためならなにをやってもいいと思ったり、金を稼がないやつは価値がないと他人を見下してモラルをなくしがちになったり、金を稼いで成功しない人生に価値はないと思い込んで就職活動に失敗したりするとうつ病になってひきこもったり自殺したりしてしまう。私は貧乏人としていろいろな人に罵倒されてきたけれど、哲学の教養があるおかげで成り上がり拝金思想に憑かれた打たれ弱いメンヘラーよりも楽しく健康に生きている。貧乏でも金以外の価値観があるほうが豊かな人生である。

・文化人類学
たとえばボディーランゲージは国によって異なり、ある国では普通のボディーランゲージが他の国では卑猥だったり挑発だったりしてトラブルを招くことがある。日本の手招きが別の国では人を追い払うしぐさだったり、子供をかわいがるつもりで頭をなでると怒らられたりする。英語を話せれば世界中どこにいってもコミュニケーションがとれるとなめてかかっていると、イランでイイネのつもりで親指を立ててぶん殴られることになる。
海外出張する人はコミュニケーションのために外国語だけでなくボディーランゲージや法律や宗教や文化的なタブーも覚えないといけないけれど、これは普通の語学教室では教えない。英会話学校の講師はアメリカ人やイギリス人のような母国語が英語の人でなくても、英語が話せる外国人というゆるい基準でドイツ人でもフィンランド人でも英語を話す白人を中心に採用しているので、文化を学んで深い付き合いをしたいという場合にはただ英会話学校に通うだけでは不十分なのである。

・ジェンダー論
仕事で人材をマネジメントするにしても、客をマーケティングするにしても、男性と女性の違いを知らないまま昔の男尊女卑の価値観を引きずっていると、優秀な女性社員や女性客を逃すことになる。政治家は年寄りが多いので、女性は産む機械だ、小池百合子は厚化粧だというような舌禍事件がしばしば起きるし、高校野球で女子マネージャーがグラウンドに立ち入るのを禁止するような女性に不平等を押し付ける不合理なルールが未だに日本社会には残っている。北米トヨタの巨額セクハラ訴訟が有名だけれど、もし企業の偉い人が女性蔑視やセクハラをしようものなら顰蹙を買って不買運動をされかねないので、社会の大局を判断したり、ルールを作ったりする人にこそジェンダーの理解が必要である。LGBTの人材活用も今後は議論されるようになるだろう。
雇用機会均等法ができてから何年もたつのに、保育士不足なのに男性保育士をロリコン扱いして雇用しなかったり、女性は結婚出産ですぐ会社をやめるので出世コースからはずされたりしていて、日本ではいまだに男女差別がある。Googleでは「女性はエンジニアに向いてない」という文書を書いたジェームズ・ダモア氏を解雇していて、多様性を取り入れようとしている大企業でさえまだジェンダーの問題を解決できていない。この性差の不平等をいち早く解決して男女両方の人材を集められる企業は他の企業より優位にたてることになる。
生命保険会社ではLGBTの同性カップルでも生命保険の受取人になれる新しい保険を作り始めたし、多様性を受け入れたサービスを提供する先駆者になれれば、そのぶん同業他社より優位になる。

・民俗学
県民ショーなどのテレビ番組でしばしば各都道府県の違いがとりあげられるけれど、地域が違うと気候や地形も違うし、体格も食材も生活様式も違う。近代化して日本人の生活が均質的になりつつあるとしても味覚や生活習慣といった地域性は残ったままでいる。この違いは当然マーケティングや商品開発にも影響するし、人気の店が意気揚々と隣の県に出店したらなぜか流行らないというケースがしばしばある。外国のサービスや商品を日本向けにローカライズするにしても、日本の地域性を良く知らないとうまくいかない。柳田國男が人気だった頃に比べて民俗学は流行おくれの学問になっているけれど、まだ現代の日本の分析に役に立つ部分はあるかもしれない。
『1本5000円のレンコンがバカ売れする理由』という本の著者はレンコン農家に生まれて民俗学の研究者になった人で、民俗学からレンコンを高く売る着想を得たそうな。

・心理学
心理学にはマーケティングに関連する分野がけっこうある。たとえば認知心理学でスキーマとスクリプトというのがあるけれど、経験や知識のまとまりがスキーマで、スキーマの流れの手続き的な部分をスクリプトという。飲食店では店によってこのスクリプト、つまりはオーダーの手順が違い、食券式だったり、後払いだったり、先に席をとってから注文したり、注文してから席を探したり、店員が席に案内するまで入り口で待ったり、店員が注文をとりに来るまで席で待ったり、ボタンを押して店員を呼んだり、タッチパネルで注文したりと様々で、店のルールをしらないと客は混乱することになる。マクドナルドの原田が失敗したのは注文時間短縮のためにカウンターのメニューをなくしたことでオーダーのためのスクリプトの一部を変更してしまったことだろう。これはカウンターで手元のメニューを見ながら選んでいた客がいままでやっていたオーダー手順を変えて新しいスクリプトを覚えないといけないので、単なる価格変更に比べて客にストレスがかかるはずで、客足が遠のく原因になりうる。田舎者の私は新卒で就職活動をしたときに昼に近くにマクドナルドしかなかったのでなんか買おうと思ったけど混んでるし近眼で壁に貼ってある価格が見えないし百円の商品がどれなのかわからないし注文の仕方がよくわからないので何も買わずに空腹のまますごしたという経験がある。同様にスターバックスも注文の仕方がよくわからないので、友人に付き合って何か頼まないといけないときはとりあえず同じものを頼み、結局いつまでも注文の仕方がわからないままなんちゃらグランデという甘くて巨大なのを一生懸命飲むはめになる。
Windows8がコケたのもインターフェースをモダンUIに変えてしまったことが重大な原因だろう。デスクトップ画面や管理画面の使い勝手が変わってWindows7以前と同じようには使えなくなってしまい、パソコンに関する基礎知識(スキーマ)があっても管理のやり方(スクリプト)が変わってしまうことがユーザーにとってはストレスになる。Windows8自体はタブレットではじめてパソコンを使うような初心者にとっては特に問題がないOSだけれど、既存のWindowsユーザーにとっては知識がある人ほど使い勝手が悪くなってアップデートを敬遠する要因になってしまい、アップデートした人もわざわざWindows7風のスタートメニューに変えて使うようになってしまい、せっかくマイクロソフトが開発したインターフェースはユーザーに否定されてしまって、結局Windows8.1やWindows10でもとのデザインに戻してしまった。普段使う物やサービスの使い勝手が変わることがどれだけユーザーの反発を呼ぶか、マクドナルドのメニュー表示やWindows8のモダンUIの失敗は反面教師になるだろう。役に立たないといわれている文学部卒の私でさえマクドナルドとマイクロソフトの失敗の原因を説明できるのに、エリート揃いの大企業が失敗を予見できないのはなぜなのかというと、会社の利益だけ考えて客のことをまったく考えていないのである。文学部卒の人が意思決定に関わっていれば、こうした失敗は防げる可能性がある。
他にも認知的不協和というのもある。たとえばビッグマックは好きだが、マクドナルドは緑肉を使っていたので嫌いであるという場合、認知的不協和が起きてこの不協和を解消しようとして、マクドナルドはもう改善策を出したから食べても大丈夫だと製品と会社のどちらも好きになるか、逆にこんな企業の製品はもう食べたくないと製品と会社のどちらも嫌いという状態になって不協和を解消する。ディズニーランドは好きだけどアトラクションの待ち時間が長いのは嫌という認知的不協和の客に対しては、オリエンタルランドはファストパスを出したり待ち時間に飽きさせないようにキャストが一芸をしたりして対応している。認知的不協和は頻繁に起きるので、これはサービス改善の手がかりになりうる。

●日本の文化と外国の文化の違いを知らないと外国人に物やサービスは売れない
現代の日本では、材料や部品が外国製だったり、客や従業員が外国人だったりして、外国と全くかかわらないでビジネスをすることは難しい。低所得層が増えて消費が落ち込んでいる日本では外国人客の相手ができるかどうかで売り上げはだいぶ変わってくる。
文学部は日本文学、英米文学、フランス文学、ドイツ文学という具合に国や言語ごとに縦割りになっているけれど、最近では比較文学科が増えて横断的に世界各国の文化を学べるようになっている。相手の言語や文化を知っているというということはビジネスで大きな利点になる。英語を話すだけなら文学部でなくてもできるけれど、英語で表層的なコミュニケーションができても、相手の文化を知らないのでは英語の持ち腐れである。歴史を含めた文化を知るというのはマーケティングという小手先の工夫では不十分で、先進国の日本のハイテク企業がお前らにとって便利そうなもの作ったから喜んで買えよという態度では相手との信頼関係が築けない。しかしいまだに文化の違いを理解しないまま、いいものだから売れるはずだという押し付けるような考え方で物を売ろうとして失敗する企業は多い。西日本と東日本でうどんの汁の味が違うとか、日本国内でさえ些細な違いで商品の売れ行きが変わるのだから、外国に物を売ろうとすればなおさら相手の文化をよく知らないといけない。たとえば外資系企業でもカルフールは日本の文化をよく調べないまま自信満々に進出してきて大失敗して泣きながら撤退したし、その一方でコストコは本来は大量の食材を買いだめするアメリカ人向けのスーパーなのでちょこちょこ必要な量だけ買いたがる日本人には向かなそうだけれど、ちゃんと日本人好みの高品質で割安な商品をそろえて、なおかつ従業員の時給も高く、地方都市にもコストコがほしいと待望されるほどに日本に定着して信頼されている。失敗したカルフールと成功したコストコの違いは、ちゃんと客のほうを向いて商売しているか否かという違いである。
日本は円安にして観光立国を目指しているのに、外食ではベジタリアン向けのメニューやイスラム教徒向けのハラール認定のあるレストランはいまだに少なく、ベジタリアンやイスラム教徒は日本では食べるものがないとしばしば不満を言っている。佐野市はムスリムフレンドリーを打ち出して観光客を呼んでいて、県外のムスリムがわざわざ日光軒のハラールラーメンを食べにくるそうな。ハラールは認定を受けるのに手間がかかるので少ないのはしょうがないけれど、ベジタリアン向けメニューは身近にあってもベジタリアン向けと認識されていない。実際には精進料理とか湯葉定食とか豆腐ハンバーグとかのベジタリアン向けメニューがあってもそれを告知する看板さえ出していない店が多くて外国人はベジタリアン向けメニューがあると理解できず、外国人観光客の不満に気づいていないのは経営者が記号論を知らないがゆえの機会損失である。漢字が読めない外国人はコンビニのおにぎりの具がわからないとか、アレルギーがあるけど材料が何を使っているかわからないとか不満を言っているので、経費削減かなんかの理由で包装に写真が載っていなくて中身が見えない商品は売り場に肉や魚や野菜のマークをつけるなりの工夫をすれば多少は売り上げが増えるはずで、手間をかけて数ヶ国語に翻訳しなくても記号だけである程度解決できる部分もある。旅館は蟹やらすき焼きやら露天風呂やらといった昭和的な贅沢さを売りにしていて差別化できておらず、日本人の家族旅行や外国人ツアー客が一泊するだけなら贅沢でよいけれど、低予算の外国人旅行者が長期間宿泊するのには向いていない。redditの日本旅行板だとどこの観光地を訪ねるか、なんのお土産がいいか、どこのホステルがいいかということは話題になっても、どの旅館がいいかという話題はほとんどない。長い休暇をとったり予算が少なかったりする外国人旅行者は安上がりのホステルやAirbnbを使って宿泊費用を浮かせたぶんだけ長く滞在していろんな観光地を回ったり食費にあてたり、ホステルで会った他の外国人旅行者との会話を楽しんだりするので、どこに泊まっても似たり寄ったりの旅館のサービスに大金を払うだけの価値があるとは思われていないようだ。料理にしても鯛の尾頭付きは日本では縁起物だけれど、その文化的コンテクストを知らない外国人旅行者が高い旅館に泊まって鯛の尾頭付きがでてくると、魚を切らずに丸ごと焼いただけで骨があって食べにくい料理とか量が少なくて食べ応えがない小鉢とかで何万円も取るなんて詐欺だとトリップアドバイザーに愚痴を書いたりする。日本文化を予習してから旅行する人ばかりではないので、ただ日本的な料理をそのまま出せばよいというものではなく、外国人旅行者の考え方に配慮しないと高級料理どころかぼったくり呼ばわりされることになりかねない。文化的コンテクストを提供している例をあげると、板前寿司は外国人客向けに客席にタブレットを置いて日本ユニシスのWaviSaviNaviという接客ナビゲーションシステムを導入して、日本人はとりあえず生ビールを頼むとかの情報を英語で提供したら客単価が1.6倍になったとニュースで言っていた。ただ食品を提供するのと、食文化の情報を一緒に提供するのでは、日本の文化を体験するために訪日した外国人にとってそれだけ購買意欲に差がつくということでもある。ただ寿司とか蟹とかを食べるだけなら日本でなくても食べれるのだ。このような自国の文化的コンテクストを提供したり、相手の文化的コンテクストを理解して橋渡しすることは文学部が得意とする分野である。
観光情報サイトにしても、大きな祭りや花火大会だけが客を呼べるイベントだという固定観念を持ってしまっていて、町内会の盆踊りの情報はなかったりする。しかし田舎を探索して地元の小さな祭りの餅つきに参加するとか、農家民宿で農作業を手伝って家庭料理を食べて近所の人と交流するとか、金を払えば誰でも体験できるわけではないような独自の体験に価値を見出す外国人もいて、そういう人たちが日本びいきになって日本人は親切だとか自然がきれいだとか田舎の魅力を宣伝してくれる。うちは寂れた田舎だから観光客を呼べるようなものはないと最初から諦めていたら機会損失になってしまう。日本のよさが世界に知られて世界中から日本に観光客が来るようになった現代では、日本や世界について知っているということがビジネスチャンスになりうるのだ。
最近は中国人観光客の爆買いやマナー違反がしばしば話題になるけれど、中国語を話すけれど中国人でない人もいる。中国系アメリカ人やカナダ人の二世や三世、台湾人、マレーシアやシンガポールの華僑はそれぞれ違う生い立ちや文化を持っていて、本土の中国人と一緒くたにされることを嫌っている。黒人でもアメリカ人もフランス人もジャマイカ人もいるし、アフリカから来たのかとかゴリラみたいだとか無知な日本人に言われたり勝手にドレッドヘアを触られて動物みたいな扱いされたりして傷つく人もいる。見た目で判断せず個々人の生い立ちを理解しないと、思わぬところで相手を傷つけてあの店はレイシストだと悪評をばらまかれたり、有名なチェーン店ならボイコット運動に発展したりする。この辺は日本人が外国で中国人や韓国人とみなされて邪険にされると怒るのと一緒で、偏見まみれの失礼な店員がいるところでは誰も買い物したくはないのである。ネットで悪評がすぐに拡散される現代では、ひとりの店員の偏見が長期間ログに残って店の評判を傷つけ続けることにもなりうる。

●文学部の学生は金儲けに興味がないからビジネスには役に立たないのか?
福沢諭吉が「学問のすすめ」で実学を奨励しているように、実学でない文学部はビジネス界ではウケが悪い。しかし金儲けに興味がない人だって生活のために仕事をして生きていかなければならないわけで、仕事する気がないというわけではない。足るを知って堅実に生きる人に対して、金儲けに興味がないやつは怠け者だと非難するのは誤った二分法の詭弁である。
金儲けに長けた欲深い人たちがどれだけ不祥事を起こしてきたのか、というのは列挙しきれない。グッドウィルの折口は二重派遣で氷河期世代から金を搾り取ったし、NOVAの猿橋は会社を私物化して隠し部屋に愛人を囲っていたし、ワタミの渡邉は社員を長時間労働させて過労自殺を起こしたし、AIJ投資顧問が企業年金を溶かしたことを隠した粉飾決算をしたし、オリンパスは損失飛ばしの粉飾決算で株主をだましたし、東芝は粉飾決算にチャレンジしたし、原発の専門家は原発は絶対安全だと東京電力を擁護するだけでメルトダウンしても何の責任もとらなかったし、GREEはコンプガチャ商法で射幸心をあおって子供の小遣いを搾り取ったし、DeNAはコピペ記事で著作権を侵害して荒稼ぎした。法の華三法行や安愚楽牧場や円天の詐欺もあったし、中小企業での横領や脱税もわんさか起きている。四半期の利益で人の価値を評価するのではなく、その人たちが実質的に社会に貢献しているのかを評価しなければ、評価されにくい裏方仕事で堅実に生きようとする人がいなくなって、楽して儲けようとする詐欺師や犯罪者だらけになって社会は荒廃してしまう。
文学部出身者で経済界のエリートになる人は少ないかもしれないけれど、だからといって文学部出身者がビジネスで役にたたないというわけではない。青森県住宅供給公社で職員が巨額横領してチリ人アニータに貢いで公社が解散したように、組織の要職に一人でも道徳観が劣る人がいると組織は壊滅しかねない。ビジネスの知識に長けた人に道徳観を教えることはできないけれど、道徳観があって節度をわきまえた人にビジネスに必要な知識を覚えさせることはできる。となれば、金を基準にして行動するのではなく、道徳を基準に行動している文学部出身者こそ教育係だの会計係だのの要職に適任ではないか。米久の創業者で時之栖の会長の庄司清和は「カンブリア宮殿」で社員は人柄で採用するというようなことを言っていたけれど、そのやり方で成功している。リクルート的な考え方で人柄より学歴を見て文学部というだけで足切りしている会社は人を見る目がない。
それに就職に不利だといわれている文学部にわざわざ進学してまで熱心を勉強するような人は貧乏耐性があるので、給料が少ないからといってすぐに転職したりしない。給料を気にするくらいなら最初から文学でなく実学を勉強するし、そうしないのは文学部の学生は金儲けよりも知的好奇心を優先しているからである。もしその好奇心と会社の方向性が合致すれば、不景気のときも辛抱して好景気のときも浮かれずに長期的に会社を支える人材になりうる。
むろん文学部の学生だからといって全員がしっかりした道徳観や知的好奇心を持っているわけでもなく、授業が楽そうだからとか女子が多そうだからとかよこしまな理由で文学部に進学した人もいるかもしれない。文学部の学生がどれだけ道徳観や知的好奇心を持っているのか、その好奇心をビジネスに向けられるのかは個人次第である。

●まとめ
文学部の研究分野は直接モノを作ったり売ったりするわけではないものの、コンテンツを作ったり、新しいサービスを作ったり、人との軋轢を少なくしたりすることができる。文学部にもビジネスに役立つ研究分野があるのに、文学部は役に立たない、文学部は就職に弱いという偏見を持つことでビジネスチャンスをみすみす見逃しているどころか、人間軽視の思考は企業に害をもなしうる。大企業でも日清のCMで矢口真里を出演させて不倫を擁護しているようだと批判されて放送中止になったり、オーストラリアのトヨタのスキー場で母親は中級コース、父親は上級コースと女性蔑視ともとれる広告をだして批判されているけれど、文学部を軽視すると同時に人間の感情や文化を軽視しているような人間的魅力がない人たちが大企業でふんぞり返って経済エリートを気取って給料の額で人間の価値を量るような考え方をしているから、わざわざ広告費を払って世間の反感を買うような間抜けなことを平気でやっていることに批判されるまで気づかないのだ。うわべの企業イメージだけ取り繕って、従業員を機械の代わりとして扱い、客を財布の運搬装置として扱い、そこに生きた人間がいるということをおろそかにするビジネスは人間を幸福にしないし、人間を幸福にしないビジネスはいずれ人間によって淘汰されるのである。
最近はESG投資(環境、社会、企業統治に配慮している企業への投資)をしている投資家が増えつつあるようで、女性の登用とか長時間残業の削減とか人権への配慮とかへの取り組み具合も投資尺度になっている。若者を使い捨てて社会にツケを負わせて金儲けするブラック企業よりも、顧客や従業員を幸福にして社会にとって中長期的に役に立つ企業が資金援助されやすい流れになってきているので、2000年代の小泉竹中コンビの新自由主義経済で金儲けが優先された頃よりも文学部の卒業生の経済界での活躍の機会は増えると思う。
文学部は人間と文化について学ぶ学問だけれど、人間も文化も徐々に変化するし、人間について学ぶことには終わりがないので、常に人と社会を観察して考えることが必要な学問でもある。理系のように確固たる理論や数式もないので、柔軟な発想で自分の意見を言えるのも文学部の面白いところである。どんな学問を学ぶにしろ、学問を社会の役に立てようという意識がなければただ過去の知識を得るだけの自己満足で終わってしまうので、これから文学部に入って就職先を探す若い人は文学部ならではの知識を活かして外国人と交流して人間的魅力があるうんこくさい国際教養人として社会の役に立ってほしいものである。

2017/10/2更新 三角猫
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(=‘ω‘ =)ニャー


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