宮本武蔵『五輪書』神子侃訳
二天一流の思想や兵法について書いた本。●面白かったところのまとめ・序の巻13歳から29歳まで60数戦して無敗だったが、30歳を過ぎて未熟だと痛感して、道理を得ようと鍛錬を続けて50歳の頃に兵法の道にかなうようになった。あらゆることについて師匠はなく自ら悟って、二天一流の見解を書く。・地の巻:兵法の基本武士の信念は死を覚悟することでなく、兵法の心得で戦闘に勝つこと。兵法者と称して剣術だけで世渡りするのはだめで、武士は目的に応じて様々な武器を使いこなさないといけない。兵法は大工のように大きくたくらむことで、棟梁のようにものさしをわきまえて、材料の木質に応じた使い方をして、大工の腕前を知って効率よく仕事をさせる。能率がよいこと、手際が良いこと、いいかげんにしないこと、全体の大要を知ること、気の状態を見極めること、勢いをつけること、限度を心得ることが棟梁の心得で、兵法の道理もこのようなものである。両手で一本の太刀を構えるのは実践的でないので二刀を使う。太刀は兵法の基本。状況に応じて刀、脇差、槍、弓、鉄砲などのそれぞれの武器を活用すべきで、特定の武器を偏愛してはいけない。道については、儒者、仏徒、風流人、しつけ者、能楽の舞い人などは武士の道にはないものの、いろいろな道を広く知ればいかなることにも対処できるので、人間としてそれぞれの道をみがくことが大切。・水の巻:二天一流の太刀筋二天一流は水の心を手本にして勝利を見出す。戦闘の際の心の持ち方は平常と変わらずにむやみに緊張せず、たるむことなく、心を静かにゆるがせて、そのゆるぎが止まらないようにする。心が体の動きに引きずられることなく、体が心に動かされることのないように精神に気を配る。些細なことにはとらわれず、根本は強い精神を貫いて、本心を他人に見抜かれないようにする。判断力を養って、社会の正、不正をわきまえ、善悪を知り、数々の芸や技術の道を体験し、世間の人から騙されないようになってはじめて戦闘でも正しい判断ができる。戦闘時の目配りは大きく広くくばり、物事の本質を深く見極める「観」を第一とし、表面のあれこれの動きを見る「見」は二の次とする。太刀の動きや手の持ち方の固定は死であり、固定しないことが生である。足使いは普通に歩むように自然に使い、片足だけを動かすのでなく、右左と足を運ぶ。五方の構は上段、中段、下段、右のわき、左のわきにかまえることで、他にかまえはなく、かまえそのものよりも斬ることを考え、中段がかまえの中心である。太刀はふりやすいように静かに振る。扇や小刀を振るように早くふろうとすると太刀の道筋を誤って、このような「小刀きざみ」では人は斬れない。武芸の道をきわめていくことは武士のつとめと心得て、気長にとりくみ、今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分より下のものに勝ち、次には自分より上手なものに勝つというように鍛錬を積み、わき道に心を動かされぬようにする。敵に勝っても原則の習熟によったものでないならば、それは本当の勝利とはいえない。・火の巻:広義の兵法世間の人は兵法は小手先細工としか理解していないが、六具をつけての戦いでは小さな利益は考えることはできない。普段の稽古で千人を集めて合戦の訓練はできないので、一人の稽古でも敵の計略を見抜いて兵法の理論で勝つところまで到達する。位置は太陽を後ろか右わきにして、座敷でも灯りを後ろか右わきにしてうしろがつかえないようにして左側をひろくとる。敵を見下すために少しでも高い所にかまえて、座敷では上座を高い所と考える。敵を追い回す場合は敵を自分の左側に追い回す気持ちで、難所が敵のうしろに来るように追いかけ、難所で敵が周囲の状況を見回すことができないように追い詰める。兵法では先手を取ることが大事で、後手になるのはよくない。相手がどう出ようとしているかを未然に判断して先手を取るのを「枕をおさゆる」という。人生や戦闘では全力を尽くして急所を乗り切る決心がなければいけなくて、これを「渡を越す」という。急所を乗り切れば敵を不利な状態におとしいれて有利になってたいてい勝てる。合戦で敵の意気がさかんか判断して、その場の状況と敵の状況をよく観察して、戦術で勝実に勝てる見通しを持って戦うことを「景気を知る」という。合戦でも一対一でも敵が崩れる拍子をとらえて追い立てることが大切。崩れる間を外してしまえば盛り返す場合がある。膠着状態になったときにそれまでの狙いを捨てて、敵が予想もしなかった別の手段で勝つのが最も良い方法で、これを「四手をはなす」という。敵の心が見分けられないときには、こちらから強くしかけるように見せて敵の手段を見分ける。これを「かげをうごかす」という。敵がかかってくる心が見えた場合に、敵の戦法を抑える動きを強く見せれば、敵はそれに押されてやり方を変えるので、それでこちらも新しい戦法で先手をとって勝つ。これを「かげをおさゆる」という。相手の心の平衡を失わせることが大切で、不意をついて心が定まらないうちにこちらが有利なように先手をかけて勝つ。合戦では敵の部隊を観察して突出したところを攻撃することで全体の勢いがなくなって優位に立つことができる。これを「角にさわる」という。同じことを二度繰り返すのはやむをえないが、一度で成功しなければ効果は薄れるので、三度繰り返すのは悪い。敵が山と思えば海、海と思えば山と意表をついて仕掛けるのが兵法の道で、これを「山海の心」という。武芸の技で敵に勝っていても敵が戦う気力を絶やしていない場合は、敵の気力をくじいて心底から敗れた状態にするのが大切で、これを「そこをぬく」という。敵と戦う間に互いに細かい所に気をとられてもつれ合う状況になったときに、鼠の頭から馬の首に思いを移すように、がらりと大きな心に代わって大局を判断してことに当たる心得を「鼠頭午首」という。戦いの際には兵法の知力で敵を自分の部下と考えて、思う存分に動かすことができるものと心得て、敵を自由に操ることを「将卒を知る」という。・風の巻:他流の批判他流を知らなければ自分の流儀を的確につかむこともできない。力が強いことだけが取り柄の流派や、小太刀に専念している流派は兵法の真の道からはずれている。世間では太刀が長ければそれだけ有利になるように言われているが、これは兵法を知らぬものの言い草で、長さに頼って遠い所から勝ちを得ようとするのは心の弱さの表れで、弱者の兵法である。長い太刀は嫌いではないが、長い太刀でなければという偏した考え方は嫌い。斬り合いでは弱く斬ろうとか強く斬ろうとか考えるものではない。強力一点張りの太刀では打ち過ぎて悪い結果になる。短い太刀だけを使って勝とうとするのは真実の道ではない。敵の太刀の間をぬって、飛び込もう、付け入ろうとねらうような偏った心がけはよくない。敵の隙を狙うことばかりを考えていると、後手になって全てが受け太刀となって敵とからみあってしまう。敵を追い回して飛びのかせてうろたえさせて確実に勝利を収めることが最も望ましい。数多くの太刀の使い方を人に伝えているのは初心者を感心させるためのもので、兵法で最も厭うべき精神である。打つ、たたく、斬るということにいろいろなやり方があるものではなく、敵を斬るのが兵法の道であり、いろいろくっつけて手をねじるとか身をひねるとかは真実の兵法の道ではなく、人を斬るのにねじったりひねったりしては斬れない。構えは敵がいない場合のことで、太刀の構えを第一に重視するのは間違った考え方である。固定したきまりを作ることはありえず、相手にとって都合の悪いようにしむけていくのが勝負の道である。目付と称して太刀や手や足などに目をつける流派があるが、どこかに目をつけようとすればそれに惑わされて兵法の妨げになる。ものに習熟すると目でいちいち見る必要がなくなる。兵法の目の付け所は相手の心に目をつける。兵法では見た目の速度を云々するのは本当の道ではない。何の道でも上達した場合には見た目に早いとはうつらない。相手がむやみと急いでいるときにはこれに背いてわざと静かになって相手にひきずられない心得が大切である。・空の巻あるものを十分に知ることにより、はじめてないものをも知ることができる。このないものが空である。世間ではわからないものを空だとしているが、これは真の空ではなく迷いの心でしかない。武士たる者は「心」と「意」の二つの心をみがき、「観」と「見」の二つの眼を開くことによって曇りが消え去る。これが空である。空という心には善のみがあって悪はない。●感想負けたら死ぬか大けがをする状況で勝ち続けた人が書いた本だけに、その心得について書いた部分は個人が命懸けの戦いをしなくなった現代でも一読の価値はある。戦闘について書いた部分は剣道をやる人だけでなく、何かしら勝負をする人にも役に立つかもしれない。合理性ゆえに二刀流に行きついて、並の剣士なら刀で成果をあげたらそこで満足して成長が止まるのだろうけれど、宮本武蔵はそこも通過点でしかなくて、刀を基本にしつつも勝つことを目的にして武器を使い分けていて、手段に固執していない。剣術だけでなく絵や彫刻でも才能を発揮した宮本武蔵に似た型にはまらない天才にピカソやレオナルド・ダ・ヴィンチがいて、ピカソはキュビズムで成功してもそれに固執せずに作風をころころ変えているし、レオナルド・ダ・ヴィンチは芸術だけでなく多方面の学問で業績を残している。宮本武蔵がいろいろな道を広く知ればいかなることにも対処できるというのは自然の理を知る悟性のことで、自然で合理的なものと不自然で非合理的で本筋を外れているものが感覚的にわかって迷いがないのが空という心なのかもしれない。天才と呼ばれた人たちは物事の形や動きといった本質を把握する悟性があって、その本質に沿う技術を訓練して体得したからスタイルを変えても実践的に成果を上げることができる。一方で凡人は自然の理を理解できないので、本筋を外れて非合理的になったり、他の分野ではまったく通用しなかったりする。固定は死であり、固定しないことが生であるというのはVUCA時代を生きている現代人にこそ必要な考え方である。大企業が過去の成功体験に固執して製品をマイナーチェンジするのに忙しくて新しい事業に投資しなくなって技術革新についていけなくなるとか、同族企業が身内をひいきして経営陣を固定して適材適所でなくなって倒産するとか、政治家が二世三世だらけになって地元企業と癒着して腐敗するとか、固定して変化に対応できなくなる失敗がわんさかある。企業が社会の公器にならず、政治家が公人にならず、人の上に立つ人が善悪をわきまえずに私利私欲を追及して、日本はGDPの低下と少子化という衰退に直面して技術も文化も継承されなくなって徐々に死につつある。IMFによると日本の人口は今後40年間に25%以上減少して、実質GDPも25%低下するそうな。さらに首都直下地震が起きたり中国に侵略されたりして日本が滅亡する瀬戸際にきたら今まで政治に参加してこなかった人でも危機感を持って投票するようになるだろうけれど、追い詰められないと変われないのでは手遅れで、スクラップアンドビルドどころか壊れたきりもう立て直せないということになりかねない。先手を取るのが大事だというのは兵法だけでなくたいていのことに当てはまる。囲碁は先手が強いのでハンデがあるし、将棋でも先手の勝率が高いし、先手を取らずに受けにまわったら自分の意思を戦略に反映させるのは困難になって、得意な手法が使えなくなったり慌てて急場しのぎをしたりしてどんどん不利になる。ちなみに『渡辺幸庵対話』によると宮本武蔵は囲碁も強かったそうで、囲碁は先手をとったり相手の裏をついたりする考え方の訓練にちょうどよい。ヤフーのCSOの安宅和人が「シン・ニホン」という本を出していて日本はエンジニアが少なくて研究費が削られてこのままでは米中と競争できないと警鐘を鳴らしているけれど、巨額の投資をして世界中の才能を集めてベンチャーを買収しまくって特許を囲い込んで先手を取って世界のスタンダードを作ろうとするアメリカや中国の企業と、問題を先送りして逃げ切れればいいやというサラリーマン経営者とろくな装備も支給されない烏合の非正規や下請けからなる日本の企業では、戦う姿勢も戦略も技術も勝負にならないのは門外漢でもわかる。研究開発に巨額の投資が必要な分野は勝負にならなくても、コンテンツビジネスのように個人に才能があれば世界中で売れて再販費用が少なくて投資の費用対効果が高いもののほうがまだ外国と戦える可能性があるし、表現の自由がない中国やポリコレ警察の取り締まりが厳しいアメリカよりも日本のほうが有利である。国家戦略としてコンテンツの輸出に力を入れている韓国はうまくいっていてゲームを中心にしてコンテンツの輸出額が伸びているし、K-POPは事務所負担で練習生に英語とダンスを教えて育成するので外国で通用する人気アーティストが育ったし、『パラサイト 半地下の家族』で外国語映画として史上初のアカデミー作品賞を受賞したポン・ジュノ監督は国立の韓国映画アカデミー出身だそうで、人材育成に金をかけたぶんの結果がちゃんと出ている。それに比べてクールジャパン機構は外国に日本のコンテンツの宣伝はするけれど、才能の育成にはつながっていないようである。宣伝に金をかけるよりも才能を育てるほうが長期的に金が稼げるだろうに、日本は目先の儲けを優先して、人を育てるために金を出すのが嫌いでしょうがないようである。さて文学について考えると、文学にも二天一流の考え方が応用できそうである。リアリズムを基本にしてあらゆるテーマをあらゆる文体で変幻自在に書くのが私の理想とする小説のあり方である。文学の進歩に実験が必要とはいえ、最初から奇抜なものを書こうとして構図や文体ありきで細部を凝らして表現内容は二の次というのは文学の本筋からはずれている。何を表現したいかという内容が先にあって、そのために最適な技術を使いこなして、長編だけや短編だけに固執せずに内容に適した長さの小説にするべきである。作家は人間観察として表面的な細々とした服装や動作を見るよりも、社会の大局をとらえて人間の心を観るべきである。小説は作者と読者の勝負なので、先手を取って読者が予想できないプロットを仕掛ければ読者を圧倒することができる。巷の人は富や名声を求めて社会を知らない若いうちに急いで作家になろうとして筆の速さを競うけれど、基礎を知らないまま書く量だけ増やしても技術は向上しにくいし、功名や締め切りに気を取られて平常心をなくして急いで書いた作品では暇つぶしにはなっても読者の心を動かすことはできない。現代人は便利で早いことに慣れて、何事もすぐに成果や利益を出そうとして短気になっているけれど、司馬遷が何年もかけて『史記』を書いたように価値がある作品に時間をかけて取り組むべきである。ミケランジェロはGenius is eternal patienceと言ったそうだけれど、才能ある人でも生涯努力を続けるのだから、凡人が昔の天才に追い付くにはせめて近代化して作業が効率化したり寿命が延びたりしたぶんの時間をふんだんに使うべきだろう。文芸の道をきわめていくことは文士のつとめと心得て、気長にとりくんで文学修行をして、文学理論や描写技術などの原則を習熟したうえでよい作品を書きたいものである。文学を目先の金儲けの手段にするのではなく、生涯にわたって思想や人格の鍛錬をして人間としての道を磨く文士が増えたらいいなと思う。★★★★☆【中古】 五輪書 現代人の古典シリーズ2/宮本武蔵(著者),神子侃(著者) 【中古】afb