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2022年05月22日
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テーマ:こけし収集とオークション(31)
カテゴリ:弥治郎系
古作!佐藤栄治22㎝が出現、ただいま101.5万円! ヤフオクで今日終了の佐藤栄治(飯坂)22㎝が大変なことになっている。画像のように若干の傷はあるものの描彩がはっきりとしているもの。これは欲しいを思っていたが1000円スタートでどんどん競り上がって現在100万円をこえ1,015,000円(税込み)となってしまった。こうなると小生の資力では指をくわえて見ているしかないが、せめて画像は資料としては残して置きたいもの。なお出品者は佐藤喜一、栄治型としているが、喜一ではなく栄治だろう。 本日(3月22日)21時42分終了だが、普通は終了の直前に競り上がるもの。とすればこれで収まるはずもない。どうなるか、ただいまは見守っているしかないようだ。 過去の高額落札結果のベスト5は以下の通り。今回の栄治はこれに迫るのではないだろうか。 (過去の高額落札結果2010-2020年) ① 奥山運七32cm 3,001,000円、20014年10月3日 ② 奥山運七25cm2,223,222円、2015年7月31日 ③ 盛秀太郎15㎝2,202,000円、2014年9月19日 ④ 佐久間浅之助17.5cm、2,001,000円2014年10月4日 ⑤ 大沼岩太郎(推定)18㎝1,901,000円2017年12月16日
最終更新日
2020年03月23日 08時56分49秒
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2020年03月15日
テーマ:こけし収集とオークション(31)
カテゴリ:鳴子系
保存のいい大沼竹雄9㎝を入手/ヤフオク 新型コロナウイルスでたいへんな世の中となった。出席予定だった東京こけし友の会の3月例会も中止になってしまった。
パソコンではWindows7が終了となったためやむなくWindows10に切替えた。使い勝手が7と異なっているため、苦戦中。そんなことでブログのアップもすっかり中断してしまった。
▼ヤフオク3月12日、13日終了で、戦前の古作が多数出品された。
どれにも署名作者名はなく1939年(昭和14年)以前のものと思われた。その時代にしては驚くほど保存状態が良く、まったく飾らないで暗所に保管されていたものと思われる。その一部には高島屋 30銭などのラベルもあった。
高島屋といえば、「万国お人形博覧会」を1934年(昭和9年)1月11日より2月11まで開催している(『こけし辞典』)。東京での初めてのデパートでの展示即売であった。おそらくここで購入されたものであろう。他の出品も一部を除いて同時期のものと思われた。
どれも欲しいものばかりであったが、欲しいものにはライバルが多く、どこまで競っても落札することができなかった。
最後には目をつぶって、鳴子の1点のみ競り上げてなんとか落札することができた。
それは推定大沼竹雄9㎝で小寸ながら味わいのあるものだった。頭部はラッキョウ型で胴模様は旭菊と正面菊の組み合わせ。既述のように消えやすい緑もはっきりと残っている。おぼこい表情はなかなかで、愛蔵の一品となりそうである。制作年は上記の出品状況から昭和9年、10年ごろとみた。
2020年03月01日
テーマ:こけし収集とオークション(31)
カテゴリ:伝統こけし
奥瀬陽子が現役トップに!阿部進矢が4位に、春二が物故工人2位に
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最終更新日
2020年03月20日 15時21分31秒
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2020年02月16日
テーマ:こけし探訪(85)
カテゴリ:遠刈田系
平井敏雄『こけしの真実』を読む2 およね伝説 髷付の およねについてはすでに小生の「用語辞典」で書いたが、『こけしの真実』は当事者に問合せをするなどして、新たな発見があった。 (およねこけしの起源については)斉藤良輔氏の《おもちゃと人形》(昭和42年)には「(小林善作は)昭和38年ごろから土地の民謡「沢内三千石お米の出どこ、桝で計らず箕(身)で計る」にちなんでお米こけしというのもつくりだした。かわいらしい髷つきで頰っぺたを紅く塗った村娘‐南部藩の隠田であった沢内領から、年貢米の身代わりに売られていったお米っコに型どったこけしである」と書かれている。この文から、《およねこけし》は昭和38年頃に始めて作られたことが分かる。 さらに確認のために小林輝子氏に問い合わせたところ、「まげこけし(註:《およねこけ し》)は昭和38年に湯本温泉旅館組合と言いますホテル対滝閣の主人に《およねこけしを作ってドさいと小林善作おじさんが頼まれ、佐藤丑蔵さんに相談して丑蔵さんがまげ付のこけしを作ったのがはじまりです》との回答をいただいた(私信)平成21年」 昭和38年といえば第2次こけしブームの真っ只中で、「こけし」は作ればすぐに売れる時代であった。また、《西和賀町観光協会公式ブログ》(平成19年)に『後年になってから、およねの献身を称えた《およね地蔵尊》が沢内字新山の旧家•吉右ヱ門(現吉田孝一氏)家に建てられましたが、昭和38年9月23日に太田の浄円寺お境内に遷宮(註:遷座)され祭(祀)られた』と書かれている。竹内勉氏は《日本の伝説42岩手の伝説》(昭和55年)の「およね地蔵と沢内甚句」で、『沢内を訪ねてくる人たちに何か見て帰ってもらうものがないかと考えていたら、役場の人たちの中に《およね地蔵》を建立したらどうかとの話しがでてきた。そこで新しい像を彫るのも妙だからと、新山辺にあった地蔵さまを浄円寺境内に遷座して、ここに《およね地蔵》と命名したとのことである。(略)観光がからんで《およね地蔵》建立までになったようである』と書かれている。このように昭和38年は《およね地蔵尊》が現在の場所に移された年である。 これらの行事に合わせて地場産品作りの一環として、地元を救った恩人である「およね」さんの名前を使った《およねこけし》の創作が依頼されたもので、《およねこけし》が天保時代の悲話としての「およね」を偲ぶために作られたものとは思えない。《およねこけし》の製作は現在はこけし工人の小林定雄氏によって継がれており、小林氏は《およねこけし》を『厳しい自然を友として、たくましい生命力と、やさしい心情を育んでいった子供たちとして表したい』との気持ちで挽いているそうである(《NHK新日本紀行第4集-民芸 に生きる—》昭和53年)。私は《およねこけし》を悲話としてではなくて、未来に向かって力強く生きようとする子供達へのエールとして受け止めたい。
として、「口減らしのために子供を殺し、その供養のために「こけし」が作られた』は真っ赤な嘘である。」とする。これまでも書いたようにこの点にはまったく異論はない。古い地蔵を移設(遷座)して<およね地蔵>としたというのも、元の地蔵はおよねとは関係ないので変なことである。 ここでは<お米こけし>の創案の経過が明らかになったことが貴重である。 平井氏宛の小林輝子(私信)によると、お米こけしを最初に作ったのは、小林善作(1909-1970)でなく佐藤丑蔵(1889-1986)ということになる。これはこれまで小林善作の創案という定説と異なるが、丑蔵と善作との共同作業(創案)と考えてもいいのだろう。1963年(昭和38年)というと丑蔵75歳(数え歳)である。 KokeshiWikiの小林善作の項に「伝統的なこけしのほかに頭に大きな髷をいだいた「およねこけし」も作った。これは湯田地方の沢内甚句「沢内三千石 お米のでどこ 桝で量らねで箕で量る」で謡われたおよねに因んだこけしだという。歌詞には不作の年に米の代わりに娘のおよねの身(箕)を殿様に差し出したという意味が隠されている。」とあって、丑蔵のことはまったく書かれていない。 佐藤丑蔵が湯田にいたのは大正10年より昭和17年までで、この話のあった昭和38年には遠刈田にいたが、しばしば湯田には来ていたという。そのなかで生れた<お米こけし>であろう。 以上によって小生の用語辞典「およね」の記述も若干変更することとしたい。 画像は丑蔵のお米こけし。27㎝。丑蔵のおよねこけしには面描の異なるものがあるが、ここでは素朴なものを選んだ。(ヤフオク2013年3月27日、3090円)
最終更新日
2020年02月21日 05時33分38秒
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2020年02月15日
テーマ:こけし探訪(85)
カテゴリ:津軽系
平井敏雄『こけしの真実』を読む1 東北の貧困
ただ東北地方は貧しくなかったというために、三内丸山遺跡や平泉の宗教文化を持ち出すのは、贔屓のひきだおしではないだろうか。時代がまったく異なる。 一番いけないのは「一三~一五世紀には日本海側の十三湊(とさみなと)は中世東日本最大の港湾都市で海外貿易の拠点として栄えた。」P123という部分でこれは、史実ではなく偽書(とんでも本)『東日流外三郡誌』によるものであろう。13世紀~15世紀の十三湊のことは史料がないため不明である。わずかに成立時期不明の『廻船式目』に「三津七湊」の七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」をあげているのみである。十三湊が栄えたのは江戸時代になって北前船の拠点になってからである。また十三湊とこけしとは時代が下っても直接の関係はない。 東北が貧しくなかったというのなら、こけしの発生時期である幕末に絞ったほうが説得力がある。ただし、江戸末期、東北地方は湯治(こけしの発生の要因)が出来るまで生活が豊かになったのであるが、それでも東北は相対的に貧しかったことは事実である。江戸期の農業(米作)生産性を飛躍的に高めたのは、脱穀方法がそれまでの砧や扱箸に代わって千歯扱きが考案(和泉の宇兵衛という)されたこと、備中鍬が普及したためと言われている。これらの農機具はその名のように西から東へそして北へと伝播していったものである。東北はその気候条件もあって米作には厳しい条件があった。 拙句に〈花は葉に津軽の貧にたどりつく〉(松田ひろむ)があり、津軽出身の方から津軽は貧しくないと抗議されたことがあったが、津軽に限らず東北ではごく少数の豪農や一部の商人はともかく大多数の百姓(小作農)が貧しかったことは事実である。現代のことであるが津軽三味線の高橋竹山(初代)の語る「ぼさま」の門付もその貧しさの象徴の一例であろう。 画像は津軽系の盛秀太郎19.5㎝。ヤフオク2014.9.19年1,802,000円で落札されたもの。グロ(呪力)といわれる盛秀のこけしが受け入れられる要素が、正末昭初の津軽にはあったのである。戦後の盛秀が変ったのは津軽の人々の意識が、変化したこともその一因であって、盛秀の個人的な動機だけではない。これは社会史の問題で、ここで詳細に論ずることは出来ないが、基本的には農地解放によって地主階級がなくなり、大多数の農民が小作農から自作農へ転換したことがもっとも大きいといえよう。
最終更新日
2020年02月16日 20時43分37秒
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2020年02月10日
テーマ:伝統こけし蒐集(50)
カテゴリ:伝統こけし
こけしグッズも楽しい・鳴子伝統銘菓わらび餅の包装紙
捨てるにはもったいないと思ってとってあるが、これもこけし関連グッズと気が付いた。こんな関連グッズも楽しい。古くは小島正考案という通信こけしというのもあった(今でもあるが)。団扇、手拭、カレンダー、印鑑、ポストカード(絵はがき)、クリアファイル、紙袋、キーホルダー、ストラップ、イヤホンジャックと数えればこれもいろいろ。『伝統こけしのデザイン』(青幻舎)p110には、この他ペン軸、カレンダーなどもある。さらに木地玩具の福車などにこけしを嵌めこんだものまで加えるときりがない。 画像は、わらび餅包装紙と津軽こけし館の紙袋(盛秀型)。
最終更新日
2020年02月21日 06時08分34秒
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2020年02月08日
カテゴリ:伝統こけし
『こけしを食う虫』平井敏雄氏は2017年に逝去されていた まだ入手していなかった『こけしの真実』もAmazonで注文した。
平井敏雄先生ご逝去 青葉こけし会会員である前に、セラミック研究では世界的権威でいらした平井敏雄先生、ご自宅療養中でしたが9月8日にご逝去されました。すでにご家族ご親戚で、お葬儀は終わっております。長期にわたって平井先生を支えたご家族のお邪魔にならぬよう、静かに心で手を合わせましょう。 こけしを心から愛し、著作の中には『こけしを喰う虫』2000(書肆ひやね)、『こけし」の真実―「子消し→こけし」は真っ赤な嘘』2009(金港堂出版部)などがありました。 語呂合わせで根拠もなく、こけしを忌み扱いする人たちにペンで立ち向かう勇敢な平井先生でした。白石の全日本こけしコンクールでは長年審査員をお勤めになりました。 例会に出ていらっしゃらなくなり、寂しく感じていました。 はっきりとした大きな声で、こけしの話をなさっているお姿は会員の心に刻まれています。 ご冥福をこころよりお祈りいたします。2017-09-14
【平井敏雄】(ひらいとしお) 1937年10月大阪市港区石田呉服町生まれ。1960年3月大阪府立大学工学部卒。1962年3月同大学院修士課程修了。同年4月東北大学金属材料研究所(文部教官•助手に任官)。工学博士 (大阪大学)。講師、助教授、ぺンシルバニア州立大学留学(1969〜1971年の2年間—文部省在外研究員) を経て、1978年4月東北大学金属材料研究所特殊耐熱材料学研究部門教授。現在、金属材料研究所附属新素材設計開発施設長、東北大学評議員。 専門は特殊耐熱材料およびファィンセラミックス。所属する8学協会において、理事、部会長、支部長、副会長などを歴任。文部省、通産省、科学技術庁、日本学術振興会などの各種委員会の委員および委員長。日本工学アカデミー会員、国際セラミックスアカデミー会員。 中国材料複合技術国家重点実験室顧問、中国武漢工業大学名誉教授、中国上海硅酸塩研究所客座教授を歴任。平成2年から全日本こけしコンクール審査委員。(『こけしを食う虫』著者紹介1991年11月現在)
最終更新日
2020年02月26日 02時04分09秒
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2020年02月07日
テーマ:こけし探訪(85)
カテゴリ:伝統こけし
2月の一金会-平井敏雄『こけしを食う虫』を入手 2月7日の書肆ひやねの一金会では、いつも疑問をいくつか持って行くとみなさん親切に教えていただける。 お礼?に2月「こけし工人ランキング」をプリントして配布。それとちょっと珍しい「佐藤澄子」を少々自慢げにお披露目。 疑問の1は、1月22日の後藤善松のところで描いたHTの蔵印。これは横浜こけし会の広瀬敏雄かと思っていたら、平井敏雄(1937-?)とのこと。即答で疑問が解消されるところがすごい。平井俊雄は大阪生まれ育ちで、阪神ダイガースファンなので、HTの組み合わせも納得である。 その平井氏の蔵印のあるこけしが出廻っているとうことは、お亡くなりになったのであろうか。小生より1歳年上というから、まだ若い。
最終更新日
2020年02月11日 17時24分47秒
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2020年02月06日
テーマ:伝統こけし蒐集(50)
カテゴリ:弥治郎系
東武百貨店『伝統工芸展WAZA2020』に新山吉紀・真由美工人 <伝統的工芸品展 WAZA2020> 2020年2月20日(木)~25日(火)10時~20時(25日は17時まで) 場所:東武百貨店池袋店8階催事場
最終更新日
2020年02月11日 13時34分10秒
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2020年02月03日
テーマ:伝統こけし蒐集(50)
カテゴリ:弥治郎系
完成形か?ゆき子春二型三態 2/3
たまたまヤフオクなでで、ゆき子の春二型のタイプを入手することが出来た。春二型といっても形態はいろいろ。胴模様も旭菊や重ね菊など。これが春二型としては優れた完成形ではないだろうか。 向って左から24.5㎝「55年10月6日 地蔵型」との書き込みがある。私のイメージの地蔵型とは違うように思えるが、そう言われればそうかなという感じ。中央は27㎝。もっとも丁寧な作で表情もよく保存状態もいい。これは「群馬伝統こけし愛好会創立10周年」の印がある。創立10周年ということは1996年(平成8年)である。これは会長の井田丈夫氏(前橋市)にお聞きして判ったことである。すでに25年前の作であるが、新品同様の保存状態がうれしい。左は細胴段付きで一側目。これには「59.1」つまり1984年の作であった。ゆき子工人48歳から64歳までが揃ってどれもお気に入りとなりそうである。
最終更新日
2020年03月05日 23時40分34秒
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