星界の道~航海中!~

2013/09/24(火)22:24

日寛上人特集号?(1)

顕正会(2060)

顕正新聞9月15日(1287)号より。 平成25年8月18日(日曜勤行) 【御本尊は日蓮大聖人の大慈悲の結晶 日寛上人広布の為に六巻抄等を記(しる)さる 御臨終の証拠を以て仏意に叶うを証明】 【観心本尊抄に宜給わく】  一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし五字の内に此の珠を裏み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う。  ただいま拝読の御文は、観心本尊抄の結文、結びの御文であります。  日寛上人のご指南に基づき、この御文の意を拝せば―― 末法に久遠元初の自受用身ご出現あそばすといえども、末法の凡夫は白受用身即一念三千、すなわち人法体一という生命の極理を知らない。ゆえに我が生命に迷い成仏することが叶わない。ここに久遠元初の白受用身たる日蓮大聖人は大慈悲を起こされ、妙法五字の御本尊に自受用身即一念三千の御相貌を図顕し、末代幼稚の頸に懸けて下さった――ということであります。 【「末代幼稚の頸に・・・」】  ことにこの御文の中の「末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」について、日寛上人は観心本尊抄文段において、次のように御指南下されている。  「我等此の本尊を信受し南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。『幼稚の頸に懸けさしむ』の意、正(まさ)しく此(ここ)に在り。  故に唯(ただ)仏力・法力を仰ぎ、応(まさ)に信力・行力を励むべし。一生空(むな)しく過して万劫(ばんこう)悔ゆることなかれ」と。  ――末法の我ら凡夫は、たとえ何もわからなくとも、ただこの御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身がそのまま一念三千の御本尊であり、日蓮大聖人である。「末代幼稚の頸に懸けさしむ」の意はまさにここにある――と。  なんとも勿体ない、口にするのも恐れ多い甚深の御指南であります。 何も判らなくてでは、問題ありでしょう。 ここでの前提条件として、三大秘法の御本尊様でいいかな。 けど、顕正会になる本尊は、果たして本物と言えるかですね。 例えば、御本尊の裏側。表具で裏は見えませんが、そこに、ナム浅井昭衛とか書かれていたらどうする?・・・ 顕正会に存在する御形木本尊。 特に、日布上人の本尊に関しては、出所が自己申告でしかない。 まして、縁故寺院で言えば、妙縁寺に置いてあること自体おかしい数の本尊の多さ。  いいですか。いつも申しておりますが――  恋慕渇仰の信心で、日蓮大聖人の御名を南無妙法蓮華経と唱え奉れば、「名は必ず体に至る徳あり」で、直ちに体である御本尊・日蓮大聖人に通じて、我ら凡夫が自然と御本尊・日蓮大聖人と一体にならせて頂ける。まさしく凡夫が仏に成らせて頂ける、ということです。  ゆえに、ただ御本尊様の仏力・法力を仰いで、信力・行力に励まなければいけない。一生むなしく過ごして、死んだのちに万劫後悔するようなことがあってはならない――と仰せ下さる。  まことに観心本尊抄の甚深の御意は、日寛上人の御指南なくしては、我ら凡夫は窺い知ることもできない。  ここに日寛上人の大恩徳があるのです。大聖人様の御書の極理は、日寛上人の御指南を頂いて、始めて鏡に懸けて見るごとく、その御意がわかるのであります。 世間を騒がす行動が目に付く顕正会。 やはり本尊に問題があるから、行動がおかしくなるんでしょうか? それとも、浅井会長の念が籠もっているからなのでしょうか? それとも、開眼されてない本尊だから、魔が棲みついてるからなのでしょうか?こうしてみていくと、「地獄に堕ちる」とか「罰が当たる」て捨て台詞が出てくるのもうなずけてしまうのではないでしょうか? 【日寛上人の大恩徳】  さて本日は、富士大石寺第二十六世・日寛上人の祥月御命日の前日の日曜動行でありますれば、少しく日寛上人の御徳を拝し奉りたい。 【「十六ささげ」】  きょうは御宝前に「十六ささげ」を供え奉りました。  日寛上人はこの十六ささげをたいへん好まれたという。そこで今年は私の家の庭で丹精こめて栽培し、きょう始めて採ってお供え申し上げました。十六ささげは最近ではほとんど店頭にも置いてないそうですね。めずらしい食べ物です。  インゲン豆と似ておりますが、全く違う。もっと長く、五〇センチから一メートルほどに莢(さや)が育つ。インゲン豆より柔らかい、煮ると美味しいとのことですが、私はまだ食べてない。(大笑) 今回、初めて「十六ささげ」を知りました。 で、調べてみて判ったのが、現在では地域野菜てことです。 それでも、広い地域に出回ってるみたいですね。(参照)  毎年夏に、この十六ささげが食膳に載ると、日寛上人はいつもニッコリお笑いになり、「おお十六か」とお喜びになられたという。  そのお姿を拝見して、おそばに仕えていた弟子が、野菜を大石寺に運んでくるおばさんに「日寛上人はいつも、『おお十六か』とお喜びになる」と伝えた。  それを聞いて、おばさんすっかり勘違いしちやった(笑)。「お上人様は、よっぽど娘十六に深い思い出があるんだね」と(爆笑)。  これを弟子からお聞きになった日寛上人は呵呵(かか)とお笑いになって、一句を詠んで、侍僧に渡された。  「十六は 品題なれば すくものを色やこのむと 人の問うまで」  「十六は品題」とは、寿量品第十六ということですよ。だからその名をめでて十六ささげを好んでいたが、「色やこのむ」と問う人までいる――と日寛上人はお笑いになった。  日寛上人の好まれた「十六」は寿量品第十六、八百屋のおばさんの「十六」は娘十六だった(大笑)。  寿量品第十六の文底には久遠元初の深秘の大法・三大秘法が秘沈されている。日寛上人の御胸中には、常にこのことがあられたことを拝する逸話であります。 逸話の元はと言うことで、次回送りです。 「自灯明・法灯明」 「乃至法界平等利益自他具安同帰寂光」

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