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北海道のアウトドア!

多聞流詩作論四ノ巻

■私を探す旅のはじまり■

ご近所の娘が5歳のとき泣きながら幼稚園から帰ってきました。どうやら、いつも仲良く遊んでいるお友達とケンカをしたらしく、大粒の涙を流しています。

「おじさん、○○ちゃんとケンカしたの。」

かわいそうに、私はその娘を抱き上げなぐさめようとしたときです。

「おじさん、心が痛いよぉ、どこにキズバンド貼ればいいの?」

これには驚きましたが、彼女は本当に心が痛かった。そしてどうして良いかわからない重圧に押しつぶされそうになっていたに違いありません。大人である私は口ごもったままに、何ひとつ答えることの出来ない自分の不甲斐なさを痛感しながら、話を聞くことしかできませんでした。

「心はどんなものだろう。」私はその日以来考え続けるようになりました。

私の青春はスポーツに捧げたものでした。ノルディックスキーの選手です。
ある日の日本選手権。期待を負いながら挑んだ試合に惨敗し、応援してくださった仲間や団体に顔向けがならず、トイレに駆け込み声を殺して男泣きに泣きました。

するとどうでしょう、隣からも向かい側からも嗚咽に滲む声が聞こえてきました。私は顔の見えない同志に心を馳せながらも、数少ない勝者と多くの敗者を生み出すスポーツや社会の仕組みに無形の暗雲を感じるようになりした。

「競い合い、落としあうこと。それは過程であり枝葉にすぎないのではないだろうか。まして私たちの生きる意味は大きな幹(みき)のように年輪を刻みながら高みを目指しているのかも知れない。」

社会人となり、生活に追われている自分を省みることは本当に難しく、忘れかけてさえもいましたが、そんな疑問を持ち続けていた私に、彼女はとても大切なことを語りかけてくれました。

「心はどんなものだろう。私には心がある。しかし、どんな色で、どんな形で、どんな構造をしているのかわからない。これを探さなければならない。」

私は私のことを何も知らないような気がしてきました。心が大洋のような大きさならば、今までの私はその風に翻弄されるさざ波しか見つめていないのではと、心安らかでは居られない気分になったのです。

心を探さなければ。そのためには、自分の心を旅してみることしか考えつきません。そこで私は、若いときから大好きだった詩を使って自分自身を探して見ることにしたのです。


■繋がりの発見■

ときは春爛漫。ピカピカの一年生はランドセルが歩いているようにヨタヨタと重い教材を背負って学校へむかいます。それを家の角まで見送るお父さんとお母さん。その背後には心配で胸が張り裂けんばかりにおじいちゃんとおばあちゃんが見つめています。きっと通学路やそこに落ちている石のことまでも想像し、心配しているのかも知れません。

ここには紛れもない「無償の愛」が存在しています。このご家族の愛情とはなにかを考えるとき、私は深い絆(きずな)を感じるのです。それではその絆とはなんだろうか。それは相手を想う「想像」であり、その力が「繋(つな)がり」という愛情を作り出しているのだと思います。愛とは心の姿の一部であり、相手を想像する力です。目には見ることはできませんが、心は繋がりを持つ大きなものに形を変えて私に迫ってきました。

ここで心を解明しようとした偉人達の話をさせてください。

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今から1500年あまり前に生きた天台(智ぎ 538~597)は中国天台宗の第三祖。
現在では天台大師のことですが、天台が心の深層を理論解説している書に「九識論」があります。簡単に解説すると心には5つの層があり、五識とは「感じる感覚」で、私たちが通常体験している五感のようなものでしょうか。次に「第六識・意識」。これは五識に対する認識や感じ方。さらに「第七識・末那(まな)識」は自分自身へのこだわりのようなもの。ここまでは私たちが努力していれば感じることの出来る意識ですが、ここから先に私たちが無意識でいる心の層があると言うのです。「第八識・阿頼耶(あらや)識」。私たちが行ってきた言動が倉庫のように蓄積され、共有される場所。そして一番深い場所が「第九識・阿摩羅(あまら)識」。それは命の営みの原点であると説かれています。無意識には人間を繋ぐ部屋が存在していると言うのです。

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今度は20世紀に生きたユング (1875~1961)の登場です。
彼はスイスの心理学者で、フロイトに師事して無意識や夢分析(分析心理学)を研究し、近代心理学の基礎を創りましたが、後にフロイトとケンカ別れしてしまいます。その原因が「集合無意識(普遍的無意識)」の発表でした。意識できない心が無意識であり、数々の状況証拠から確立した論理なのですが、無意識構造の違いがフロイトと袂を分かつ結果をもたらしています。彼は天台と知り合いでもなく、状況的に天台の「九識論」を閲覧していたとは考えられないにもかかわらず、「第八識・阿頼耶(あらや)識」や「第九識・阿摩羅(あまら)識」の様に個人がもつ無意識の奥には人間が普遍的(共有して)もっている無意識があると断言しています。

このことを実際に実験したのが、現代に生きるイギリスの生物学者ルパート・シェルドレイクです。彼は世界最高峰の誉れ高いケンブリッジ大学の学生に何度もテストを受けさせて学力が均衡する二つのグループを作りました。いったい何をさせるかといえば、イギリスで人気のある夕刊紙に掲載されている難解なクロスワードパズルを解かせるのです。Aのクラスには、内緒で新聞社から分けてもらったパズルを発行の前日に解かせ、Bのクラスには発行された後、時間を置いて解かせます。もちろん、Bクラスは情報を遮断して問題が漏れないようにしてあることは言うまでもありません。結果はどうでしょう。AとBのクラスが交代しても結果はすべて後に解いたクラスが圧倒的に優秀なのです。

 通信やコンタクトの無い状態でも、その社会のみんながやれば解るようになる。彼の出した結論です。人間の心も意識の下でどこかが繋がっている。人間には見えなくとも、確認は出来る不思議な力がこの世界には存在します。磁場を確認するには磁石の周りに砂鉄を振掛ければわかります。量子場は宇宙に広がった星を観測することで明らかになってきました。電子場は核の研究を積み重ねた学者によって確認されました。私達の周りには目に見えない「場」があり見えない設計図や行動表がある。これにシェルドレイクは名前をつけました。「形態場」です。これは人々の強いリアリティーが作り出すもので、例えば流行や噂なども関係が深いのかもしれません。

この形態場についてシェルドレイクは動物の面白い行動についても言及しています。
1952年、宮崎県の幸島では海岸線で野生の猿の群れに餌付けをしていました。その猿の好物はサツマイモだったのですが、ある日のこと群れの若い猿がサツマイモを海水で洗い食べることを覚えました。細かい砂は落とされ、程よい塩味が甘みを引き出して美味しく食べたことでしょう。すると他の猿達も若猿に習い、真似をするようになり群れの慣習に変わりました。
じつはその時期、同じような環境で餌付けされた野生の猿は、世界で7箇所確認されていましたが、なんと地理の離れた他の猿も間もなく同じ行動をとるようになったことが確認されているというのです。シェルドレイクは動物や虫の世界にも形態場があることを提唱しているのです。

この天才三者は独自に心を解明しようと論理を展開していますが、突き詰めて考えると同様に心の繋がりを訴えているように私には感じられるのです。

私たちは繋がっている。

私の心はこの世界のように大きく、私のリアリティーにより限りなく様々な繋がりを創造する力を包含している。受動的に流され続けた私の生活は私の意志により転換できる可能性がある。私は感動の涙をぬぐうことができませんでした。私は私の心を旅していよう。繋がりを求めよう。そして本来の人間性を発見したい。私たちは繋がっている。たくさんの人々に訴えたい。愛が想像する力であるならば、その想像を限りない繋がりにも広げてゆきたい。

私の創作活動は、ここを原点としてはじまりました。


■感動の共鳴と孤高の道 ■

同じテレビ番組を別々に見た高校生がバスの中で話し合っていました。

「ねぇ、昨日ごくせん見た?」 「うん、みた見た!面白いね!」

面白かったという感動が相手に伝わり共鳴すると、さらに感動は広がるものです。芸術も同じではないでしょうか。写真などでは感動の画像を見ていただける。音楽などでも抽象的な感性を共有してもらえる。詩では、私もあなたの心と同じ感動構造が伝えられる。ことごとく自分が感動していなければ相手の心を引き出すことはできません。

自分のことを自分のために表現する人がいます。決して悪いことではありませんが、それを人に見せるのは少し傲慢なことです。例えば、自分の子どもの運動会ビデオを会社の後輩に長々と見せるのにも似ています。創作は魅せるものであり、見ていただくもの。作者の理念に立脚した感動が個性となり人に伝わり、共鳴するものなのです。ただ美しいだけの芸術は多くの感動を呼ぶものではありません。相手の心を取り出し、そして忘れかけた何かを思い起こさせるほどの強要が心地よく相手に伝わってはじめて、本当の感動が生まれます。

創作をはじめる方々。志す方々は、この最初の落とし穴に落ちることなく、「何のために芸術があるのか」をご自分なりに噛み砕いて考えてみることも大切です。また、 人類は芸術と文化の子であると言えるほどたくさんの芸術が存在しています。その最終目的は、あるひとつの世界に向かっているような気がしています。まるで複数の登山道から同じ山を目指すような高みがあるのではないでしょうか。私は芸術文化(創造)こそが心と精神を昇華しうるマテリアであると考えます。私たちは心を昇華できるから人生を謳歌できるのです。難しいことですが、許すことよりも、納得するよりも、いつか昇華できる心の環境をご自分で創造することが大切だと感じます。日本人特有の文化である「生け花」も「茶」も静なる空間をこしらえて初めて芸術の域に達します。

今日から私達は芸術という登山道を撰びゆく同志です。苦しみも高みに登るために流す汗です。しかし、ここで最も注意しなければならない重要なことがあります。それは、道の右を歩く決まりを作ったり、歩き方、登りか方のルールを作ってはいけないと言うことです。決まりや、スタイルを固定することは「否定」を招き、それはやがて芸術ではなく「否定し合うことからはじまる」言葉のパズルになってしまうからです。創作とは自由で孤高なものであるからこそ感性を光らせるものです。山には頂上に登らなければ見えない景色が広がっています。その感動を共有し共鳴させていきませんか。長い道のりになるかも知れませんが、きっと新しい指針と深い繋がりを見つけることができると思います。

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