”内側 ” と ”外側 ” VOL.3
3月4日・・・。いよいよ従姉妹のである彼女の手術日が始まる日だった。天気は手術を成功を祈るかのように快晴で太陽も彼女の手術を見守っているかのような天気だった。私と叔母は彼女の緊張感をほぐすために午後から始まる手術だが、午前9時には叔母の家を出て10時に彼女の待つ病室へと向かった。昨日とは全く違う彼女の硬い表情・・・。言葉も少ない・・・。ニコリともするのが苦になるような笑みを浮かべる・・・。叔母が必死に話しかけるが返答はほとんどない。私には”外側”・・・。母親には”内側”の態度だった。私が話しかけると素直に答える。自分の親にはゆういつの甘え方の方法が彼女にとって反抗することでしか表現できない様子。緊張しているのは私にも痛感してくるのが良くわかる。それは、以前の仕事で何百人も手術を受ける人々をを見て来たから・・・。実際、仕事で手術場の経験はないのだが手術を受ける人の不安は計りではかけれないほど重たいものだ。私は緊張をほぐそうとしていろいろ話を持ちかけるが、彼女は”外側”の顔を浮かべているだけだった・・・。それでも私に対して笑顔でいようと笑っているかのように気を使うのか、笑みをさりげなく浮かべる・・・。1時間が経ち、彼女の親友が東京からやってきた。笑みを浮かべるが不安は隠しきれない様子である。叔母と私と彼女の親友との3人で少しでも彼女の緊張感を和らげようとするのだがそんなことは無意味になっているのは自分でもわかっていた。午後12時・・・手術室へ向かう準備のため、いよいよ彼女は点滴が開始され、青い手術着へ着替えてストレッチャーへ移動する・・・。・・・そう、この病院ではとてもかわいわしい青い病衣は戦闘服と呼ばれているくらい恐れられている服なのだ。「なんだろう・・手が震えてきちゃったよ。」ガタガタと震える彼女の右手には、かつて大学時代の男女の仲間が一緒に買ったおそろいの指輪とその仲間が買って来たお守りを握り締め、いよいよ手術室に彼女は入室して行った・・・。「いってらしゃ~い!まっているからね!」自分でなんとも励ましの言葉が出ない情けなさ・・・。そんな言葉しか彼女に言えることができなかった。5時間かかるはずの手術が8時間かかり6階から見る彼女の戻ってくる病室の窓の外は千葉の夜景をさりげなく照らし始めていた頃だった。多くの医者と看護士に囲まれながら、彼女は新しい病室にストレッチャーで戻ってきた。その姿はICUでよく見る光景と同じで、体中がドレーン(管)だらけで麻酔もはっきり冷めない状態だった。(現在、看護婦の呼び名は「看護士」と統一されている。)看護士に処置をするからと話され、廊下で私たち3人はじっと部屋の奥で彼女に声を何度もかける医者たちの声がこだまして廊下に響いていた。叔母は変わり果てた彼女の姿を見て「死人のようだ。」と自分の娘を思うばかり、涙がぽろぽろとあふれてきている。叔母には大丈夫だということを伝え、15分くらい待った。麻酔からぼーっとした状態だったが、彼女は無事に手術も終えて、貧血がありながらも輸血を行うこともなく、出血量も少なく身体の状態は安定していた。8時間も眠り続けていたのだから、目が覚めてからは今度は痛みが彼女を襲うのではないかと私は予測した。声がけでうなずいたりできるが、声は出ない。胸とお腹には太いドレーン・・・。口には酸素マスクと時間おきに吸入がセットされ、胸には心電図をつけられて機械の音が病室中に鳴り響く・・・。まるで実験台に使われているモルモットのようなそんな状態の彼女の姿は痛々しく私の目に映っていた。いつの間にか消灯時間となり、彼女の親友は東京へ帰り、叔母は仕事のことや、家で待つ叔父の仕事の関係で家に1度戻ることになったため、私がその日から付き添いが始まった。「サラちゃん、つかれるでしょう・・・。」と嗄れ声で彼女は私にそっと話しかけてきた。・・・彼女はドレーン(管)だらけで動けない。そんな体でも、私には”外側”を見せていたのだ。高熱も続き、よっぽど苦しかっただろう・・・。その日、彼女は目を閉じてはまた開けてそしてまた目を閉じる・・・・・そんな状態が朝方までずっと続いて私の名前を何度も呼んでいたのだった。この日、手術2日目は彼女にとっても、私にとっても長い長い1日の始まりでもあった・・・。 VOL.4へつづく・・・