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古本コレクション

2015.10.14
XML
カテゴリ:古本コレクション

古書即売会の収穫。

婦人の生活1.jpg

昭和17(1942)刊『婦人の生活』第2冊 とあります。
1000円でゲット。
戦前の生活史がみられるかとパラ見して・・・

婦人の生活14.jpg

え? とびっくりびっくり

婦人の生活9.jpg

婦人の生活5.jpg

写真。レイアウト。活字。編集。見出し。カット。これは・・・

なにもかも、
他社の追随許さない独創的な生活誌として戦後を席巻した
暮しの手帖』にそっくり・・・

否、まんま『暮しの手帖』だ ! ! !

目次を凝視目

婦人の生活2.jpg

執筆者もそうそうたるメンバー。

装幀は、佐野繁次郎画伯。
画業のかたわら
戦前戦後とも個性的なブックデザインで活躍なさっていますね。

婦人の生活4.jpg

写真は・・・創刊当時から『暮しの手帖』で記事の写真撮り続けた
フォトグラファー松本政利目がハート

やっぱりグッド

・・・なのに、なのに。

とうぜんあるはずのお名前が、唯一載っていない。なぜ ? ?

錯乱しかけましたが(爆)、そこはネットパソコンの時代。

ありがたくも(笑)、検索かけてわかりました。

こここちら。 ウェブ掲載してくださったかたに、ただ深謝目がハート

なぜか
安並半太郎

稀代の編集者、
のち『暮しの手帖』名物編集長・花森安治氏のペンネーム
だそうです。
婦人の生活13.jpg

経済的・活動的にしてつくりかたが簡単でみためもよい
として、戦後『直線裁ち』を提唱した花森氏は
キモノ👘にも造詣深かったのですね。

婦人の生活3.jpg

あらためて、その多彩な内容におどろき。

太平洋戦争開戦直前に発刊、そして初期とはいえ戦中に重版。
(全10冊刊行予定だったらしいのですが、残念ながら頓挫したそうです。)

タイトル『外国雑誌を見誤るな』
当時、海外のファッション誌を閲覧できた家庭はどれほどあったのでしょうか。

婦人の生活6.jpg

右写真はいわゆる「二号さん」の装いなのだそうです(^^;)・・・
財閥や新興成金??  いずれにせよ桁違いな世界。

婦人の生活8.jpg

右の写真は当時
美容界のトップリーダーのおひとりだった吉行あぐりさん考案の
「うちで結える髪」。洋装・和装どちらにも向くようです。

鏝やカーラーでかたちづくるのはたいへんな手間ひまでも
もののない時代だけに、おしゃれの渇望は深く・・・
マンガの「サザエさん」はじめ、
多くの女性おとめ座が自分でヘアスタイルをきめたのでしょうね。

左は「胴はぎ」の婦人服。
戦後デザイナーとして華々しく活躍した伊東茂平氏考案。
中原淳一先生なども
同様な企画を手がけたころでしょうか。

和装が洋装に転換するのは時代の必定
だとしても、
やがて「ぜいたくは敵だ」とエスカレートして
スカートはもんぺに。

婦人の生活12.jpg

古い着物地を利用して洋服にリメイクする、
マス・ケートさんの提案。

戦後の衣料不足でいっそうニーズは高まり、
のちの『暮しの手帖』にもひんぱんに登場する企画。

時代はかわり、21世紀現代では
昔ながらの日本の生地、紬や銘仙を洋服にしたてなおすのは
贅沢な趣向に変貌。

ともあれ、『暮しの手帖』の萌芽は戦前からあったのですね目がハート
すでに前世紀の戦前を知るかたが少なくなっているなか、
花森氏のお仕事の一端ふくめ
あらたな側面をみせてもらうことができました。

花森氏
および
氏が生涯かけて志向・追及した

うつくしい暮し

に敬礼。




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Last updated  2015.10.17 11:14:38
2015.10.13
カテゴリ:古本コレクション

邦坊3.jpg

あなたが舞踊をやりだしたのは幾つからですか』
『昭和二年、十六歳で東京へ出てきたのです』
『十六歳で』
『ええ、
石井漠先生のもとに三年いて、それから十八で京城へ帰りました』
『なるほど』
『すると、親たちが早く結婚しろというのを押し切って勉強を続けました』
『しかし、二年してすぐ結婚したんでしょう』
『ええ、それは朝鮮というところは大体芸術家は卑しいものとして、
お嫁にしない風があるのです』
『お嫁にしなきゃ何にするんですか』

『パトロンがついて、妾にするんです』
『あなたにもそのパトロンが申し込みましたか』
『ええ、随分煩かったですわ。だから私、そういうパトロンから逃げる為に
防風林みたいなものが必要だったのです』
『へ、防風林 ?』
『ところへちょうど兄のお友達で年は二つぐらいしか違わないけど、今の夫と・・・』
『ちょっと、待って下さい』
『何ですの』
『その防風林というのは夫のことですか』
『ええ』
『風除けとはけしからん。あなたは夫を愛していないのですか』
『愛していますわ、そりゃ』
『エヘン』
と次の間から満足の咳払いが聞こえる。


『しかし、私小さい時から周囲の人から愛される立場であったから、
自分から積極的に愛する立場になったことがないの、だから愛に対する本当の経験が無いわ』
『あなたは子供があるでしょう』
『ええ、子供も愛しているわ』
『じゃ、家庭生活は円満だな。夫も愛しているし、子供も愛しているから・・・』
『ええ』
『ファンからのラブレターや誘惑は来ませんか』
『ラブレターなんか来ません。世間では私に夫があること大抵知っているから・・・』
『誘惑は ?』
『舞踊に夢中になっているから、そういうものを受け入れる暇がありませんわ。
それに私は自我が強いから駄目』
『エヘン』
と再び満足の咳払いが聞こゆ。

『あなたの子供は幾つですか』
『五歳』
『あなたは幾つですか』
『二十五歳』
『じゃ、結婚するとすぐ出来たのですな』
『ええ』
『やっぱり脚が長くて跳ねますか』
どうもこの質問のコトバはよくない。まるで馬の子みたいだ。
『門前の小僧習わぬ経を読むっていうのでしょうか。私の真似をよくするのですよ。
パタンと転ぶところなんかやって見せるわ』
その位なら僕でもやって見せる。

崔承喜5.jpg

愛娘の勝子ちゃん、のちの安聖姫は自身も優れた舞踊家になり、
一家の帰国後モスクワに留学したり、数々の国際コンクールに出場しました。
当時の雰囲気がつたわってきます。

崔承喜4.jpg


『あなたのその髪はなんですか』
『ただの断髪』
『人見絹枝嬢もそういう断髪をしていたな、彼女とあなたはよく似ている』
『そうですか。今度オリンピックは日本でしょう。私、走ろうかな』
『孫選手と一緒にお走りなさい』
『ええ、ホホホホホホ』


今度のオリンピックは日本
とは、1940年開催予定だった東京オリンピックをさしていると思われます。


『あなたは何が好きですか』
『映画を見ることと・・・』
『別に僕が奢るわけじゃないから遠慮なく好きなものを並べてください』
『私はあんまり、好きでたまらんというようなものはありませんわ。
ただ眠ることが好きなの』
『眠ること・・・それならタダだ。ウント眠りなさい』
『一日に十も踊るんでしょう。そりゃくたびれますわ』
『もう、そろそろくたびれましたか』
『ええ』
『それじゃ眠りなさい』
僕は立ちあがって、最後に、
『あなたは化粧をしてないようだが、ふだんはしないのですか』
『簡単ですわ。眉を引くのと、唇を描くのと・・・・』
『あなたの、その唇は中々いい格好だ』
僕は唇を誉めて、
『そういう唇はキッスがとても上手なものですよ』
といったら、次の間から、
『エヘン、エヘン、エヘン ! ! 』
と三つも大きな咳払いがした。
僕、急いで帽子をとって、ステッキを抱えて・・・

『いや、どうもお邪魔しました。』(をはり)

明眸皓歯の美しい舞姫に、悩殺される邦坊画伯(^^)。

『婦人倶楽部』本文以外の画像は、すべて『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版)より。

1936年、崔承喜は芳紀25歳。
新進舞踊家として絶賛され、家庭も円満で公私ともに順調。
彼女の劇的にして数奇な波乱万丈の人生で
最も安定して幸せだったのがこの東京時代でしょうか。
とても切なくなります。

よりくわしく知りたい方に、西木正明氏の『さすらいの舞姫 北の闇に消えた伝説のバレリーナ
小説ですが、秀れた評伝になっています。




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Last updated  2015.10.19 11:22:48
カテゴリ:古本コレクション

昭和11(1936)年の『婦人倶楽部』10月号に
和田邦坊画伯による崔承喜のインタビューが掲載されていました。

和田邦坊画伯は当時の人気漫画家、
中学・高校時代に歴史の教科書に載っていた成金の風刺画
の作者といえば、思い当たるかたも多いかもしれません。

いわばタレント文化人、芸能レポーター?
昔も今も大して変わりませんね。

全文引用してみようと思います。

邦坊女人問答・崔承喜さんの巻
邦坊1.jpg

五尺四寸二分で体重十四貫六百あるというから大変である。

換算して、五尺四寸二分は1メートル64センチ、十四貫六百は54.75キログラム。
だいたい身長165センチ前後、体重55キロでしょうか。
理想的なバランスですね!
彼女はひじょうに長身だったといわれますが(170センチ以上はあったとの情報もあり)、
160センチ以上なら当時の成人男性よりも大きく、
現代なら180センチ近いスーパーモデル並みの感覚だったのでしょう。


僕は先年、死んだ人見絹枝嬢に『こっちへいらっしゃい』と
手をひっぱられてころんだ経験がある。女だって大きいと男より力は強い。
『あら、よくいらっしゃいましたわね。サ、こっちへいらっしゃい』
崔承喜さんが歓待の両手を差しのべた時に、僕は思わず手をひっこめた。
また、転がされたらみっともないと思ったからだ。

背が高いから腰かけると裸の向う脛がこっちへニュッと突き出た。
僕はこの隆々と肉のしまった向う脛を(変なところを見つめて失礼だが)
顔を近づけて一生懸命見つめながら、ああ立派な脚でござる。これは
絹枝嬢と同じような脚でござる。さぞ走ると早いことでござろうと独りで考えて、
『あなたの脚は生まれながらに動かす商売に出来ている』
といったら、
『長いでしょう』
と自分で眺めて、パチンと向う脛を叩いた。
『僕も叩いて見てもいいですか』

と訊ねたら、
『いい』
というから、パチンと叩いた。
別に変わった音色が出たわけではなかったが、肉がしまっているので、
音は丁度絹枝嬢のと同じだった。


『この脚なら走っても早いだろうな』
『早いわよ、孫(そん)選手だってどうです』
と威張った。なるほど、半島が生んだ、マラソンの超人、
孫基禎選手は彼女の仲良しであった。
グルネワルトの杜に二十四年待望の大日章旗を揚げて、大いに日本のために気を吐いた
孫選手、こうなると彼女の鼻息は荒い。
『内地の方が勝つより私何倍か嬉しいですわ。朝鮮生まれの人が全日本の爲めに
働いたなんて、こんな愉快なことはありません』
『郷土愛だな』
『私、あの朝、孫さんが勝ったラジオ聞いていて、思わずコドモを握りつぶしたのよ』

『え !  子供って ?』
『鶏のコドモ』
『鶏の ?』
『ええ、卵を握り潰したの』
やれ、安心した。子供を握り潰したというから、また
彼女の一粒種を本当にやったのかと思った。なるほど、
卵なら鶏のコドモに違いない。
『女ではあなたが選手だ』
『でも、私なんか』
という。謙遜しているんだ。この位の体格になると謙遜する嬌態(しな)だって容易じゃない。

邦坊2.jpg


『私、大きいでしょう。大きいと大根芸といって、ニューとしているからアラがよく見えるのよ』
『損だな』
『ええ損ですわ』
『そのかわり、夫婦喧嘩の時は得だ』
『ところが、うちのひとは私より大きいから・・・』
それじゃ、何にもならないや。
『あなたは幾つのとき結婚したのですか』
『二十歳の時・・・』
『恋愛結婚ですか』
『見合いみたいな、恋愛みたいな・・・』
『変な結婚だな』
『私の兄のお友達だったのです』
『そこで互いに交際している内に、つまり・・・その遠くて近きは男女の仲、
近くて遠きは聾の中って・・・』
『それ何ですか』
『浪花節にあるんですよ。つまり、何時しか恋愛になったのでしょう』
『いいえ、交際はしたのよ。でも、兄の家で見合いして結婚したのだから・・・』
『でもあなたの主義は、恋愛至上主義だというではありませんか』
『そうよ、恋愛至上主義ですわ』
『それに、見合いみたいな、恋愛みたいな、ややこしい結婚なら
あなたの主義と違うじゃないですか』
『私がそうじゃないから、結婚を前提とした恋愛至上主義なの』
『つまり、夢を持っているんだな』
『そうですそうです』
と彼女が嬉しそうに、
『自分の無い世界だから始終夢を追っているの、この気持ちは芸術家にはいいことでしょう』
なるほど、こいつ頭がいいぞ。

『その夢をあなたは大事にしなさい』
『モチよ、踊りのうるおいもこの夢から自然に生まれ出るのじゃないでしょうか』
といって、今度は彼女は膝坊主を叩きながら、眼を細くした。二重瞼の茶色の瞳だ。

彼女の兄上も、夫君の安漠氏も、ともに日本の大学に留学した
当時の知日派インテリグループ。
同じグループ内での彼女の結婚は想定内、必然な出来事だったのでしょう。

弟子がソーダ水を運んで来た。僕はストローをすぐ取ったが、彼女はぼんやりとまだ
眼を細くしている。・・・・あんまり姫には夢を見過ぎる。

『もう、夢はその位にして、次の問答に移ります』
といって、
『あなたは男役ばかりやって、女役はどうしてやらないのです』
『女役やりたいけど、私がこんな背が高いでしょう。私の相手の男役なら、どうしても
五尺七寸くらいなくちゃいけないわ』

五尺七寸は約172センチ。
こちらの画像から、
男役が多かった当時の彼女が偲ばれるでしょうか。

崔承喜7.jpg

崔承喜9.jpg

五尺七寸・・・・か。なるほど五尺七寸の相手をさがすのは骨だ。
『それで、男役ばかりやっているんですな』
『ええ、ノッポも困るわよ』
という。僕、うっかり、
『この脚を少し折るといいんだな』
といったら、
『エヘン』
と次の部屋に咳払いあり。
『夫君がいるんですか』
と親指を出して見せる。
『ホホホホホホホ』
と彼女が笑っていた。



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Last updated  2015.10.19 11:19:08
2015.10.12
カテゴリ:古本コレクション

図書館でみつけた雑誌バックナンバー、
表紙に躍動する美女の写真。

思わず手にとりました。
戦前、日本で成功して活躍し、
世界的な名声をえた
朝鮮半島出身の舞踊家・崔承喜

美女ありき2.jpg

桑原甲子雄氏が撮影した有名な写真。

1934年、鎌倉・由比ガ浜で行われたオリエンタル写真工業の撮影会でモデルをつとめた崔承喜
とあります。

・・・不思議なのですが
とても今から80年も前の古い写真にはみえません。

着用している水着(当時最新流行?)
が古風といえばいえるけど

のびやかな肢体、若さ匂いたつ健康美。
21世紀現代のCMでもじゅうぶん通用しそうです。

舞踊の実力に加えて天与の美貌。
彼女は当時の大スターでした。

舞踊家・石井漠に師事、修行を積んでいたころの崔承喜。
16、7歳ころでしょうか。
崔承喜10.jpg
『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版)より。
美少女ですね。

舞踊以外にも、各種広告やファッションモデルに
ひっぱりだこの多忙ぶり。

画壇でも、安井曽太郎や鏑木清方のような当代の一流画家が
きそって彼女を描いたといいます。
いつか拝見したいですね。

崔承喜8.jpg

『世紀の美人舞踊家崔承喜』(エムティ出版)より。

美女ありき3.jpg

昭和11(1936)年主婦之友9月号より。

万人向けのする軽快な流行型の婦人用ブラウス
秋のブラウスに、ぜひお召しくださいませ。
これは、崔承喜さんだけによく似合う・・・のではありません。
どなたにも向く流行のスタイルです。

・・・と本文にあります。

おどるばか.jpg

恩師・石井漠の回顧録・昭和30(1955)年・産業経済新聞社。

『崔承喜』に1章をもうけています。

おどるばか1.jpg

・・・その時に、当時京城日報の学芸部長をやっていた寺田寿夫氏の紹介状を持って、私の
楽屋を訪れた二人の兄妹があった。兄承一君の話によれば、自分の妹をどうしても舞踊家に
仕上げたいのだという。どうか世話をしてくれるようにとのことであった。
その妹というのは云うまでもなく今の崔承喜ではあるが、その頃の崔承喜は、
淑明女学校を卒業したとはいうものの、まだ十六才の小柄な少女に過ぎなかった。・・・

・・・私達は承喜を連れて、二等車の人となった。大勢の見送り人と挨拶を交わし、いざ
発車という時になると、改札口の人混みから、一人の日本婦人の止めるのも聞かず、白衣の
婦人が朝鮮語で承喜の名を呼びながら、狂人のように駈け出してくるのを見て、私達は吃驚した。
 そのうちに汽車は動き出す、承喜は私達のおさえるのも聞かず体をのりだして
「オムニー、オムニー」と涙をふきふき、金切り声をあげて母を呼ぶ。
あの時の光景は忘れられない。
 しかし見送人の影も遠ざかり、やがて龍山の駅に着いた頃は、承喜の気持も和らぎ、窓から顔を
出したまま、学校で教わった日本語の唱歌を歌っているので、私達は思わず顔を見合わせて
微笑まずにはいられなかった。あの時の日本婦人は女学校の受持の先生だそうで、母親には
東京に行くことを全く内証にしていたことが後でわかった。・・・


おどるばか2.jpg

・・・大正天皇の亡くなられたのはそれから間もないことであった。
多摩御陵行きの御霊柩の列車が通るというので、私達一同は中央線の線路ぎわに
お見送りすることになった。承喜もその中に混じっていた。
いざお通りになる時になって一同黙とうしていると、承喜は何故か後ろ向きに突っ立っている。
私はそれとなしにたしなめたがきかなかった。後で、その理由を聞くと、
「私は、日本の天皇さんを拝む気持にはどうしてもなれません」と、
はっきりいわれたのには言葉が出なかった。それほど、その当時、日本に対する民族意識が
高まっていたのである。
 私はこの時、天皇様に限らず、どんな貧しい人の死に対しても、敬虔な気持で見送る
ことのできないような人は、決して立派な人になれないことや、芸術家になる資格のない
人間であることを、よくいい聞かせると、さすがに利口な子供だけに、涙を流してうなずいた


おどるばか3.jpg

・・・その後三年の月日が経って、私達が北海道の公演をすまして東京に帰ってくると、
崔承喜は急に帰国を申し出た。ちょうどこの頃の半年ほど前に、山陰道の旅行中私は眼病にかかり、失明を伝えられて間もない頃で、奥の室で来訪医師の手当てを受けて、眼を包帯したまま
ソファーに横たわっていた時だった。そこで極力それを引き留める勇気もなく、そのまま別れる
ことになったわけだが、その後、崔承喜は京城において、かなりの奮闘をつづけている噂を時々
耳にしていたのである。
 そのうちに私の眼も奇蹟的に快方に向かって、それからまた度々京城を訪れる機会に
恵まれたわけだが、それから二年後の夏、京城に行った時は、安という早大露文科出身の青年
と結婚していたばかりでなく、大きなお腹を抱えて出迎えの人の中に立っていた。
そして承喜夫妻は、つくづく前非を悔い、再び東京に行って指導を受けたいと懇願するので、
気の弱い私達夫婦は遂にその談判に負かされてしまった。・・・・

おどるばか4.jpg

・・・それから三年目に、いよいよ崔承喜の第一回舞踊公演を明治神宮外苑の青年会館で催すことになった。現代舞踊家は、バレエの場合と違って、それぞれの特徴を持っていなければならない。
この意味でやがては朝鮮舞踊の研究をやり、それを国際的手法によって、その精神を再現する
ことが崔承喜のためにも、世界の舞踊界のためにも、最も意義のあることだといったようなこと
を話し、嫌だというのを無理に朝鮮舞踊を一つ、プログラムに入れさせることにした。

・・・それからというものは、崔承喜の名声がとみに高まり、独立して崔承喜舞踊団をつくり、全国的に公演を行うようになったが、例の『半島の舞姫』の映画が製作されたのも、この時分であった。・・・・

その後、間もなく承喜は映画が完成すると、アメリカに渡り、ヨーロッパ、南米の公演を行い
非常な成功を収めて、再び日本に帰るに当り、崔承喜は共産思想をもっているという噂のため、
上陸を危ぶまれたらしく、このことを書いた長い手紙を受け取ったが、云われるままに
船に迎えに行くと、大したこともなく私の身体にすり寄るようにし、どうにか事故なしに上陸
出来たことは嬉しかった。

それから後、十八年八月には帝劇を借り切って、二十五日間の単独公演をやり、連日満員の盛況
を呈したが、これなどは、日本では勿論のこと、単身でこのような長期公演をやった例は
世界にも類のないことである。


おどるばか5.jpg

・・・その後、崔承喜は帝都電鉄沿線の永福町に立派な洋風の邸宅と研究所を作って、
そこで研究をつづけていたが、そのうちにいわゆる大東亜戦争の機運が高まり、
承喜夫妻は弟子達と共に大陸へ軍隊の慰問に行っていたらしいが、そのまま日本には
帰ることが出来なくなり、結局、北京におちつくことになったということを、風の便りに知った。

そのうちに、朝鮮は南北二つにわかれ、崔承喜は夫の安君と共に、北鮮政府の中でも
重要な地位をしめるようになり、承喜は芸術方面に、特に、舞踊方面に力を入れているらしく、
先年ソビエトに招聘され、国賓待遇をうけながら、圏内の各都市を公演し、非常な賞賛を
博したということを耳にしたが、あの利口そうな承喜の、素振りから顔までが、頭の中に浮かび
出て嬉しかった。

また三年程前に、チェコスロバキアのプラーグで、民族舞踊のコンクールがあって、
承喜の一人娘の勝子ちゃんが、安聖姫と改名して出演、最高の栄誉を勝ち得たという
報道にも接して、私としては重ねて嬉しいかぎりであった。

最近、崔承喜来日の噂が高く、そのために、よく新聞社あたりからも尋ねられて弱っているが、
しかし、私としてもそういう時期の一日も早く来てくれることを、待ち望んでいる次第である。

年譜では、
『おどるばか』上梓されて2年後の1957年、モスクワで開催された平和友好祭で
師弟はつかのまの再会、だきあって喜ぶ感激のひとこまがあったようです。

・・・その後しばらくして崔承喜一家の消息は完全にとだえてしまうのですが
彼女の恩師である石井漠先生の語調には、
遠くない将来再会して、ふたたび自由に交流できる日を切望する
未来への明るい期待が感じられますね。いっそう悲しい。




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Last updated  2015.10.17 16:55:33
2015.09.14
カテゴリ:古本コレクション

待ちに待った秋の古書即売会。

それなりに収穫はありましたが、残念なことに(笑)

今回も大正期の『少年倶楽部』はじめ
少年少女誌、婦人誌はみつからず(私が見落としているだけかもしれませんがウィンク・・・)。

ショーケースにおさめられた『少年倶楽部』。
みただけで、胸が熱くなりますスマイル

20150911161959.jpg

昭和15(1940)年刊。

加藤まさを・山川惣治・梁川剛一・江戸川乱歩
絢爛たる執筆陣目がハート

しかし・・・すてきなお値段グッド
値札など気にせず、すいすいと(笑)大人買いできる身分
に・・・なってみたいスマイル

さらにハイグレード(笑)な、『講談社の絵本』。

20150911162055.jpg

がんばって、貯金(笑)しなくてはスマイル

ライバル誌
の実業之日本社刊『日本少年』もいつか手に入れたいなあウィンク




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Last updated  2015.09.14 07:08:00
2015.07.21
カテゴリ:古本コレクション

世界少年・大正10年.jpg

つかのま、両国国技館にゆく機会をえたおかげで、思い出しました。

『世界少年』大正10(1921)年1月号『新年特別号』に掲載された、スターの紹介記事。

世界少年・大正10年1月号・常の花関1.jpg

第31代横綱、常ノ花関が大関に昇進してまもない頃、
ニューヒーローとして脚光あびていた若き日の勇姿富士山

世界少年・大正10年1月号・常の花関2.jpg

このかたは現在まで、岡山県出身の唯一の横綱
戦後の角界の復興と発展にも尽力されたかただそうです。

すぐ検索できる、やはりインターネットパソコンは便利目

・・・丁度土俵の上では日の出の勢いの栃木山が、入れ代り、立ち代り
打つかって来る幕下の木っ端力士を、毬でも投げるかの様に
何の苦も無く手玉にとって土俵外に投げ飛ばしていましたが、
あたりをみまわし相手欲しそうに、
「オーイ、寛ちゃん、一丁」
と挑みかけますと、声に応じて彼方で
「ヨーシ、来た」
と返事を致しました。・・・


と本文中にある「栃木山」とは、
軽量ながら歴代最強と謳われた
同じく大正時代の名横綱、栃木山関と思われます。

両雄ならび立つ、相撲ファンにとってはとても楽しみな時代だったのでしょうスマイル


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Last updated  2015.08.03 09:05:29
2015.07.11
カテゴリ:古本コレクション
戦前、1930年代にロングセラーになったとおぼしき『講談社の絵本』。

10年ほど前に、そのうち選りすぐりの20冊が『新・講談社の絵本』
として復刊されたのは記憶に新しいところです。

講談社の絵本.jpg

『乃木大将』は古書市での掘り出し物、
復刊された『安寿姫と厨子王丸』は図書館で借りてきました
(いつもありがとうございます目がハート)。

乃木大将1.jpg

日露戦争で長男・勝典中尉、次男・保典少尉を
ともに亡くした乃木大将の悲劇。

乃木大将2.jpg

多くの将兵の犠牲のすえに、旅順陥落。

乃木大将3.jpg

明治天皇の仰せによって学習院院長に任じられた乃木大将。
初等科時代に大将の薫育をうけた昭和天皇陛下は、
『院長閣下』をお慕いになり、生涯尊敬申し上げていたとつたわります。

乃木大将4.jpg

伊藤幾久造・画
池田宣政(南洋一郎)・文。

乃木大将5.jpg

有名な乃木大将の学習院生徒への訓示。

100年以上前なので、さすがに古めかしいですが
今に通じる
というより、現代にこそ頷かされる、普遍的かつ根源的な教育。

詳しくは、こここちらを。

今暫し、むずかしいかもしれませんが
同シリーズの『東郷元帥』『広瀬中佐』とともに、復刊してほしいですね。


『安寿姫と厨子王丸』
は、須藤しげる画伯・画。

安寿姫と厨子王丸1.jpg

私がこれまでにみた『安寿と厨子王』『山椒大夫』関連の本のなかで
最も美しい絵本です赤ハート

安寿姫と厨子王丸2.jpg

山椒大夫の下人としてこきつかわれながら、お互いをいつくしむ姉弟。

安寿姫と厨子王丸3.jpg

日本画を連想する艶麗な描線と
美しい色彩、和様の美。

安寿姫と厨子王丸4.jpg

自らの身はかえりみず、弟をにがす安寿。
かなしくもけなげな場面なのですが、絵巻のような美しさ。

安寿姫と厨子王丸5.jpg

80年前に、ほぼ同時期の
20世紀前半の欧米の『絵本黄金期』、
アーサー・ラッカムやデュラック、カイ・ニールセンの傑作にも比肩する
わが国の「絵本」が出版されていた誇るべき事実晴れ

未来にも語りついでゆきたいですね。


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Last updated  2015.07.16 15:45:39
2015.07.06
カテゴリ:古本コレクション
台湾有数の観光スポットとして名高い、国立公園・太魯閣国家公園

絶景の太魯閣峡谷は、ヒーリング・スポットとしても大人気で、
世界中から観光客が訪れるようです。

今をさること約80年前。

昭和11(1936)年9月号の『主婦之友』
に、なんと当時の地元の若い娘さんたちの座談会が収録されています。

タロコのおとめ1.jpg

ウィキペディアには、

日本の台湾領有後、山地原住民は「生蕃」(後述)と呼ばれ、
領台40年後の1935年昭和10年)に秩父宮雍仁親王の要請において
公式に高砂族(たかさごぞく)と改称された。

とありますが、
1936年の『主婦之友』ではまだ『生蕃』と記されていますね。

取材に訪れた記者は、
集まった娘さんたち
まず伝統衣装の民族舞踊、
ついでゆかたに着がえて日舞
のおひろめで歓迎され、
その達者なことに瞠目したようすが語られています。

タロコのおとめ2.jpg

カラーでみたい、伝統衣装。

元来台湾に住んでいる人たちは
ポリネシア系の民族で、褐色の肌に黒曜石のひとみ、
まさしく『南洋美人』。

タロコのおとめ3.jpg

彼女たちはゆかたが好き、
伝統の織の粗い着物にくらべて
日本の着物は肌触りがよく、かるくて快適だといいます。

タロコのおとめ4.jpg

地元駐在の役人や警官の夫人たちが
裁縫の先生になってゆかたの縫い方を教わり、
着付けもマスターしたのだとか。

簡単服(当時流行のアッパッパ、いまのチュニックワンピースのような感じ?)
を町で買ってくる人もいたようですね。

タロコのおとめ5.jpg

このころは、幼いうちに伝統の入墨をする風習がふつうにあったのですね。
そしておしゃれに気をつかう若い人にとって決してよい習慣ではなかった事がつたわってきます。

タロコのおとめ6.jpg

上の画像・右の山月橋、
いまもタロコ名物でしょうか。

左は写真が小さくて恐縮ですが

『警官に敬礼するタロコの少年達』

・・・教育所の屋根を葺く草を取りにいっての帰り道です。
警官はお髭の深城忠一氏、タロコの青年男女から
慈父のように慕われている人。


・・・と、あります。

タロコのおとめ7.jpg

乙女たちの理想の夫君赤ハートは・・・

元気でよく働く人。
心の優しい人。
お酒を飲んで怠けたりしない、規律正しい人。

そのまま、現代にも当てはまりますね。

と同時に、当時はまだ内地の日本人、現地人
の明確な差別があり、口には出さないけれども
彼女たちも身にしみて感じている、切ない気持ちが思いやられます。

タロコのおとめ8.jpg

そして統治者側の現地啓蒙政策への努力。

産婆さん、今でいう助産師の講習をうけるのが
お嫁入り前の娘さんたちの一種のステイタスであり、
年若い乙女がりっぱに助産師を勤め上げる、

記者いわく

・・・レベフさんは、そんなに上手な産婆さんで、
頭脳もよいし、重い荷物を背負って7里の山坂を歩いても平気なくらい
身体が丈夫だし、そのうえ、ハーモニカを吹いたり、
『酋長の娘』を歌ったりする朗らかさもあるし、
ほんとに、いいお嫁さんになれますよ


おっしゃるとおりで、

有能で頭脳明晰、気立てがよくて明るくて、
働き者で峡谷で鍛え上げた健康美、

これだけ非の打ちどころの無い女性は、
どんなに望んでもめったに見つかりそうにないですね目がハート
(あえてイメージするなら、なでしこジャパンの皆さんがそれに近いかなあウィンク)


さらに、素直な気立てに「芯の強さ」をかねそなえた乙女たち。

タロコのおとめ9.jpg

タロコのおとめ10.jpg

実母が「子」より「恋愛」を選択するのを許し、
幼い妹たちの養育をうら若い乙女の身でひきうけて
いっしんに働くアッパイさん。

親に決められた「家」どうしの婚姻に反発、
覚悟して自分の意志を通し結婚破棄、
請求された慰謝料も一括返済したイワルさん。

記者は

「どちらも、よい意味でのタロコの新しい女であり、先覚婦人」
「花も実もある立派な大和撫子」


と、絶賛しておられます。


往年の台湾をしのばせる、泰弘さまのすばらしい記事です。
ぜひごらんください。

日本統治時代の台湾風光・・

泰弘さま、リンク引用こころよく許してくださりありがとうございました。

泰弘さんの〔追憶の記〕です・・・


現在も、世界有数の親日国・台湾。
わが国を好きであってくださるのは、とてもうれしいですね。

『主婦之友』誌上の座談会はなごやかですが
この後の第二次大戦、
戦後、大陸を脱出した国民党の統治
と、時代の大激動、
とうぜん彼女たちの人生にも大きく影響したことでしょう。

80年前の乙女たち、
その子孫の皆さんが、
当時よりいっそう幸せでありますようにと祈ります。


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Last updated  2015.07.15 11:00:11
2015.05.07
カテゴリ:古本コレクション

『少年』と『少年世界』.jpg

明治時代の少年誌、

明治38年(1905)年2月発行の時事新報社刊『少年』
と、
明治28年(1895)年2月発行の博文館刊『少年世界』。

『少年世界』の口絵。
時あたかも日清戦争たけなわ。

『少年世界』1.jpg

『少年世界』本文より。

銅版画の流麗で緻密な挿絵、トランプの手品などハイカラですね。
『少年世界』2.jpg

こちらは10年後の『少年』から。
『雪の朝』、
風雪に耐えて
できるかぎり着込んだ子供たちの登校風景学校でしょうか。

『少年』3.jpg

石版画のやわらかい色調、
画はむしろあたたかい印象ですが
暖房のなかった当時、実際はたいへんだったことでしょう雪

『少年』には有名な『三匹のくま』が紹介されています。
『少年』1.jpg

挿絵も内容もハイカラでどことなくバタくさく(笑)感じるのは
日英同盟の影響?

ユーモラスなコマ絵(ひとこまマンガ?)。
『少年』2.jpg

・・・説明はいりませんね。
その気持ち、わかるわかるうっしっし

こちらは同年、明治38(1905)年8月発行の金港堂刊『少年界』。

『少年界』.jpg

洋装の男の子がまたがる自転車自転車の両車輪に世界地図が入っている、

和魂洋才、富国強兵、
西洋列強に伍して大国たらんと奮闘する明治の高揚感目・・・
でしょうか。

『少年界』みひらき。
『少年界』2.jpg

『少年界』より。

『少年界』1.jpg

りりしい明治の尋常小学生。
全員が着物に袴ですね。

あらためて、当時の児童向け出版物、
編集部の意識の高さに驚かされます。

子供だましなどではさらさらなく、
執筆者も画家も心血そそいで名作を書いていらっしゃる、
尊敬に頭の下がる思い。

・・・ただし気になるのは、このような各社競合した
ハイレベルな雑誌を講読できる子が実際にどれだけいたかということ。

一部の恵まれた階層に属する子をのぞき、
子供たちの環境がひじょうに苛酷だった当時、

向学心があっても貧しくて進学できない
小説『路傍の石』の悲劇、
それ以前に貧しい農村では小学校にもいけない子も少なくなかった、

口減らしに里子や奉公にでたり、
郭に売られる女の子、
21世紀現在も途上国で問題視される過酷な児童就労が身近にあった時代。

現実が現実だけに、
むしろいっそう執筆陣の意識が高く、
けなげに一生懸命生きる
子供たちに夢や希望どきどきハート、たかい理想王冠をもってほしい
と意欲的になった側面もあるのでしょうか。

・・・ほかならぬ『路傍の石』中に、

「・・・かれらのなかで『少年世界』をとっているのは道雄だけだった」
の一節があり、

家が裕福で雑誌が購読できる子は小学校のクラスでひとりかふたり
(旧制中学や女学校に進学できる割合とほぼイコール?)、
あとはみんなでまわし読みしたのでしょうか。

1905年、日露戦争がようやくおわった年。

そして戦前の少年雑誌の金字塔王冠
として一時代を築いた『少年倶楽部』が創刊されたのが
大正3(1914)年、
この9年後ですね。

こちらのすばらしいサイトも、ぜひごらんください。


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Last updated  2015.05.15 11:00:28
2015.05.06
カテゴリ:古本コレクション
大正から昭和戦前(たぶん戦後も?)
に活躍した幻の画家・森田久

『世界少年』誌上にも、そのはなばなしい活躍の一端が
かいまみれて、うれしかったです。

申し遅れましたが、大正9(1920)年7月号の表紙『蛸壺(たこつぼ)』
も、森田ひさし画。

世界少年・大正9年7月号.jpg

同じ出版社系列で『子供の科学』が創刊されたのは
これから4年後の大正13(1924)年、

有名な『少年科学探偵』の挿絵をはじめ
森田久が『子供の科学』でも活躍したことは想像にかたくありません。

小酒井不木も、『少年科学探偵』序文で森田への敬意を述べておられます。

『少年科学探偵』の初版本、いつかみたいなあスマイル

探偵小説の、鋭利な挿絵。

世界少年・大正10年1月号2・森田久.jpg

やはりどことなく見覚えがあるかのような懐かしさ。

私のカンにくるいがなければ(これはわれながらひじょうにあやしい泣き笑い)、
昭和戦後も、児童向け大人向けとわず、挿絵・イラストで
大いに活躍なさっているかたではないでしょうか。

世界少年・大正10年1月号3・森田久.dib

うってかわって、ユーモラスなマンガ。

世界少年・大正10年1月号4・森田久.jpg

大正年間にスキーを楽しむとは、なかなかハイカラスキー

世界少年・大正10年2月号・森田久.jpg

こちらは、子供の落語ふう。

高原の夕
と題された口絵。

世界少年・大正10年2月号・森田久口絵.jpg

右上に「ひさし」と記された細長い署名が、
こちらの美人画の署名と似ています。

女性や少女向けの本や雑誌では、
またそれにふさわしい
美しい絵パレットをたくさんこなされたのでしょう。

時代にうもれて
現代は知る人の少ない
閨秀の画家や文人、少なくないのでしょうね。

もっと見つけられるといいな。


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Last updated  2015.05.08 13:28:58
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