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山根先生の[井上神父に学ぶ聖書講座]
ぶどう園の労働者のたとえ(マタイ20.1-15) 井上神父は結婚式のお祝いにこの部分を取り上げるというと,驚かれます。神父自身も結婚式でここを読むのは自分だけだろうとおっしゃています。 まず、「天の国」とは,「神の国」のことです。ユダヤ人にとって「神」と言う言葉は畏れ多いので、マタイ福音書では「天」と言う言葉に言い換えています。 「神の国(バシレイア)の到来を告げるメッセージ」がイエスの元々の福音です。バシレイアは「支配、主権」と言う意味です。 つまり、神の愛がすべての人に及んでいる,神の愛の中に包まれている。皆が神の子供として愛されている,そして互いに愛し合う絆で結ばれている愛の共同体。それが神の国です。 死んでから行くところというより,今の現実に広げていくものです。 自分が愛されている,神の国に招かれていることを知り、周りの人を愛し,愛される関係を結んでいく。 互いの愛の関係が行われるのが「神の国」です。 では,「神の国」ではどのような愛なのか。 ぶどう園で丸1日働いた労働者が,1時間だけ働いた労働者と同じ賃金だと不公平と怒るのは経済効率を考えると当然です。 スイスに障碍者と健常者が同じ賃金と言う工場があります。 そこで働く健常者に話を聞くと、 障碍者が頑張っている大変さは同等、あるいはそれ以上。 仕上げる仕事量は半分くらいであっても、同じ賃金で不満はないと。 釜ヶ崎の日雇い労働者のところでこのたとえを話すと、働きたくても仕事にあぶれてしまう人の不安、苦しみがよくわかる主人だと感動されます。実際の生活の中で経験して実感のこもったたとえ話になっています。雇われる者の心理がよくでているたとえです。 働きたいのに働けなかった、1日不安な気持ちで過ごした人にも1日分の賃金を払って下さる主人。 不平を言った労働者も、働けずにいた人の不安な気持ちを相手の立場にたって写し取ってあげたならば,良い主人に当たってよかった,今日はいいことがあったと喜んで帰ることもできたのに。 1日12時間汗を流して働いた自分の大変さしか考えられないと 1時間だけ働いた人と賃金が同じなのが不平、不満になり心の平安がなくなります。 人間関係で何が大事かと言うと,「異質の苦しみ,大変さへの理解」です。自分の大変さを理解してほしいというばかりで,相手の立場にたって相手の大変さをわかろうとしない。 井上神父はアガペーの愛を悲しみを共にする,写し取る愛という意味で悲愛と訳しました。 キリシタン時代にはアガペーの愛はご大切と訳されていました。 日本語の愛という言葉では,エロス、フィリアの愛も含まれてしまいます。 世間は成果、効率で物事を見るが、アガペーの愛の神はこんなにも一人一人の大変さを写し取って恵みを与えてくれる存在です。 夫婦もお互い自分の大変さを横において、相手の大変さを写し取ること,最初の一言が大事ですね。 マルタとマリアの関係でも,立派な働き者のマルタが妹マリアの心(なぜイエスの足元であんなに熱心に話を聴いているのか,救いを求めているのか)を写しとり、わかってあげたら、妹を責めたり,怒ったりしなかったでしょう。私も話を聞きたいけど,妹からあとで聞こうか… 良妻賢母型のマルタは正しいことを押し付けたり,罪の泥沼にいる人を不可解な者と軽蔑し,冷酷に突き放す-アガペーの愛から遠くなる傾向があります。 前に神殿でのファリサイ人の祈りが義とされなかったことを話しました。ファリサイ人はどうすれば救われるのか、何がいけなかったのでしょうか。 ファリサイ人が道徳的なのは立派。でも、罪人とされる徴税人を裁くのではなく、徴税人も熱心に祈っている、神の愛は苦しい人にも届いている、ありがたいなあという感謝の祈りであってほしいのです。 ーーー 結婚生活を始め,人間関係すべてにおいて大切な悲愛の心を、ちょっと意外と思われた「ぶどう園の労働者のたとえ」からわかりやすく深く学ぶことができるのですね。 結婚式に実にふさわしい箇所ですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.04.28 08:25:42
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