こころのお散歩

2006/06/04(日)21:00

伊従信子先生講話「聖霊」

聖霊降臨にむけて今回は聖霊についての話でした。 [三位一体への祈り] 燃える愛の火、聖霊よ、どうぞ私の魂の中にみ言葉の一つのご託身を行ってください… あなたの影で私を覆い、あなたの心のよろこびであるおん子だけを私のうちにお眺め下さい… (11月21日マリアの奉献の日、ご聖体前での祈りのあと修室で書き記したもの) エリザベットにとって三位一体といってもキリスト中心、なゼならキリストを通らなければおん父のもとへいけないから。 小さいつまらない者だけれど私をあなたの影でおおってください、 タボル山でキリストが変容し、おん父に愛する子といわれたように。キリストと似た者になり、自分の中にキリスト以外を見ることがないように、愛する子といわれたい 「聖霊」創世記では、創造のはじめの混沌としていた状態で聖霊が「おおって」いた、すべての創造は聖霊によってなされた。 新約のお告げ:聖霊があなたにくだり、いと高き方が「包む」 自分が神のようになることに魅力を感じ禁断の実を食べた人間は人間性の中に刻み込まれた自己中心、自分が神のようになりたいという傾向があります。人間は神との関係を自ら断絶してしまいました。 父の愛、創造した人間をじぶんのもとにとりもどしたい。人間は自分で立ち返ることができません。 おん子によるしかない、おん子は愛にこたえました。 おん子をつかわしたおん父とおん子の深い相互愛 聖霊は父と子の相互愛 キリストの使命はいのちであるおん父への道ー直接行くことができない、無限の断絶を修復し、橋をかけることでした。 キリストを通しておん父のもとへいくことができます。 おん子は神の子として永遠な存在であるが、人間として時間の中に介入されました。 旧約は待つ時代。常に父のみむねの中に子の使命があった。預言者はメシアの到来を伝えていました。 契約があり、私はおまえたちの神というのが旧約。忠実でいられないのが自己中心の人間で、神に背く、神は呼び続ける。。 聖霊はずっと働いていて善意の人を助けてきました 永遠は時がない、いつも「今」。 お告げーマリアの「成れかし」。神に不可能なことはないという信仰です。聖霊によって、人間性を与えられたのが「みごもり」です。 聖霊がないとおん父へもどること、キリストを信じることもできません。目に見えない聖霊の働き、私たちの救いを助けてくださいます。 水と霊によって生まれなければ、聖霊によって生まれ変わらなければならない、これは洗礼のとき。キリストの霊によって神の子となる、私たちは洗礼の時に聖霊を十二分に与えられました。 聖霊はわたしたちの弱さを助けてくださいます。わたしたちはどのように祈るべきかを知りませんが、聖霊ご自身が言葉に表わせないうめきを通して、わたしたちのところにとりなして下さるのです。(ロマ書8,26) 神との親しさに生き、神との親しさを深めるかどうかが問題。 三位一体のエリサベットは幼い頃の写真を見ると性格頑固。テレーズはべーべー泣く子でした。欠点ではなく、自分のほうへよちよち歩くかどうかが神にとって問題なのです。 社会は生産性、能力、成果を要求します。出来事の成功、失敗は社会において必要です。 神の目には神の子としてどういう風に生きたかが重要で成功、失敗は関係ありません。自分が光り輝くよう助けてください、自分が偉くなるようにと祈るのは神を道具として使おうとすること。そうならないように聖霊の助けを祈ります。 また聖霊に願って意志を強くしていただく、聖霊は、固く、あるいは柔らかくどのようにもしてくださる。そういう事ができる方です。自分では出来ない弱さを認め、力を下さるよう祈ります。 言葉ではなく手を合わせることが大切です。聖霊は教えてくださるし、それを受け入れる勇気をも下さいます。霊の光によって隠れずに自分と神に正しく向き合う事ができます。 見返りを求めてしまう、良く思われたい、純粋に他者の為に出来ない事を先ず認める。 こちらが戸をあけることが必要です。神は強制されません。つい逃げてしまいます。それもこわいこと、つかまえてくださいと祈ります。 何かの出来事を通して分からせ、徐々に一人一人の弱さを心得ていて助けてくださる。びゅーんと一気にとはなりません。 ヨハネ14章はイエスの遺言、別れの挨拶。 イエスは死の前に行っておきたいことがたくさんありました。今あなた方に理解できない真理をことごとく悟らせるー聖霊が助けて導いてくれるとおっしゃっています。 弱い私たち を聖霊はおん子に似たものにしようとしてくださいます。 キリスト者とは神の愛、霊に導かれ自由解放されたものです。 アッバ、父よとは聖霊の助けなしに呼べない。頭で理解だけではなく、聖霊に理性が支えられ父よと呼べる,信じることができる 聖霊によらないとイエスを主、救い主といえません。 キリストに似たものとなることを願う、典礼聖歌のように、キリストのように考え~♪ 神は永遠。時間のうちにおられない、初めも終わりもない。いつも今 キリストが神の子であるとは今ここを生きていらしゃる 聖霊はすべてを、神の心の奥底まで究めるのです。(1コリント2.10) 神のことは神の霊のほか誰も知りません。 神の深みを究めることが出来るのは聖霊。そこへ導いてくださいと祈ります。 聖霊は身近で具体的に助けてくださる方です。具体的状況においてキリストを通しておん父の方へ導く、そうなるよう願う、言葉で伝えるのではなく、霊的に照らし伝えてくれます。 華やかなカリスマ運動は聖霊を現象的に強調しますが、現象に頼るよりもおん父に向かう心をつくってくださいと祈り基礎的な姿勢を築いてくださる 。聖霊は働きであり、人間の感覚知性ではわからない ある時は何かを感じさせることはある、それを重視すると横道にそれてしまいます。聖霊の働きは必ずしも感じることができない 信じる者の証しによる信仰があります。一方、要理、頭での理解も必要で、それも聖霊の働きです。どのように入ってくるか分かりません。私たちは望み願わなければなりません。聖霊来てくださいという祈ることは大切です。

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