こころのお散歩

2010/02/28(日)03:50

H神父「日常生活の中で聖書を生きる」講話より

人間は自然の一部。ささいなことも思うようにいかない自分の身体、世の中、経済、社会状況を抱え込みながら、私たちは生きている。これはむしろ当たり前のこと。2,3千年前の人の生活を想像してみると、現代人は生命力が弱く、ひ弱かもしれない。 聖書はダビデ、イエスの時代、2千年、3千年前の人々の基盤を土台としている。当時の状況は現代と大きく違う。 ☆アブラハム 彼は父の家を出て、神の命じるままに旅をした。これは未知の世界へ旅だったひとりの男の話。 父の家、村落共同体を出ることは、自分たちの文化を離れ、情報、国の保護も何もない、先の全く見えない宇宙の果てへの旅のよう。 聖書がいおうとしているのは、私たちの人生も宇宙の果てに旅していくようなもの アブラハムの旅によりそったように神はあなたの旅によりそっている。 あらゆる知恵を使って私たちは生きていくよう迫られている。 私たちの人生はアブラハム、ベトレヘムへのマリアヨゼフの旅、幼子イエスの旅のようなものである。それを強烈に示すのが聖書。 ☆イザヤ 預言者の召命について考えてみる、預言者は未来を語る予言者ではなく、神の言葉を預かって語る人 イザヤ書6章、セラフィム(大天使)の歌はサンクトゥス(感謝の賛歌)の聖書出典箇所。 私は汚れた唇(言葉、情報を発する)の者。汚れた情報に生きている民。汚れた情報ーイスラエルは当時、アッシリアとエジプト2大勢力間で右往左往していた 炭火を口にあてられたとは、神の偉大な力が彼の口を清めた。 罪は許されたー人間がああでもない、こうでもないと人間の知恵によって導きだした情報に右往左往させられるのではなく、神のみ心を行う者にしていただけた このことは、ゆるしの秘蹟でも同じ。罪がゆるされるとは、神のみ心を行うものようになった。 私を使わしてくださいー罪の許しをうけて神のみ心を行う人となった イザヤが使わされた目的は、全部が灰燼に帰すまで一つの時代を終結させる使命 いのちへ向かうとは死をすぎこす 切り倒された切り株、種から新しい時代が生まれてくる。 生に向かうということは死を過ぎ越す。これは信仰の領域というよりひとつの科学。 一粒の種が地に落ちて死ねば、芽が出て実を結ぶ。種のままでいるならば、いのちは生み出されない。イザヤ預言者が預けられた神の言葉は、イエスキリストよりも800年も前の話。直接的にイエスキリストの死と復活を言ってはいないが、神のなさり方の一貫性が見えてくる。 召命を受けたイザヤの側からみると、神の臨在、神が触れたことは災いとみえる。必ずしもハッピーとならない。そこにも神の臨在を見ようとする信仰。思い通りに男の子が生まれたハッピー、それが恵みであると同時に神が触れてきた時、災いだと思える、こんなこと神が私に与えるはずないと思える出来事も神の恵みである、これが聖書の信仰。 ☆ペトロ ルカ書、初めてイエスに出会った場面。 一晩中漁をして、何も取れず、網を洗って手入れしていたところにイエスが現れ、船を貸してくれ、船を漕いでくれといった。集まった群衆はイエスのファンだが、ペトロはイエスのファンではない。ペトロにしたら実に迷惑なこと。これがイエスとペトロの出会い。 しかも話し終わった後、沖へ漕ぎだして網を下ろし漁をしなさいと言った。ペトロに怒りがこみあげても不思議はない。何をこの人は言うのか。初めて会って、話をするから船を貸してくれ。そのくらいならと思ったら、沖に漕ぎだして網を下ろし漁をしなさいと言うとは。網を洗って手入れしていたのに。 これがペトロにとっての神様との出会い。夜、漁り火を照らして魚を捕る漁。「私たち」は一晩中漁をして何も捕れなかった。「私たち」は一般論、法則。ペトロは「お言葉ですから、(私は)網を下ろしてみましょう。」神の言葉が及ぶとペトロは一般論から出て、イエスの言葉に従う。船が沈みそうになるほど魚が捕れた。 私はあなたにふさわしくない、私から離れてください。 私は罪深い者ー神のみ心を生きられないというような抽象的なことではなく、神の十戒のいくつかに違反しているという意味。はっきりと自分の罪を自覚し告白した。 罪深い者だということをおそれることはない。人間を捕る漁師となる道筋で清められていく。ペトロの否認を過ぎ越して、復活の主に出会い、ローマにキリスト教をもたらし、殉教した。 ☆聖マリア お告げの場面。 神が一人の女性に直接触れた。「おそれることはない」神が私たちに触れると怖れを感じる。ハッピー、ハッピーというときは神様の業であっても、それほど濃くはない。 なぜ怖れたのか。誰だか分からない人の子を宿すことは、ヨゼフと結婚し子供を産み育てるのが神の祝福という社会の中から刷り込まれた伝承、先祖伝来、聖書の裏付けもある祝福からはずれなければならない。ヨゼフ、両親と別れるかもしれないし、民から疎外されるかもしれない、子供手当もない時代に生活できない、死ねというのに等しい。婚約者がいて他の人の子供を宿したことは石打ちの死刑になるかもしれない。 これもアブラハムの旅と重なる。 お告げの場面を私たちは美しい絵画のように見てしまう。「私は主のはしためです。お言葉通りにこの身になりますように」という言葉は、宇宙の果てへロケットもなしに旅するようなもの。聖霊が下り、いと高き方が包んでくださるという信仰だけを頼りに暗い道を歩き始めた。マリアを賛美すると同時に私たちの人生もこのような暗さを歩くこと。その代表者としての聖マリア。私たちはマリア様だけのことで、私たちは千キロ先も見通せるところを歩くと考えてしまう。マリア様が守ってくださるから私たちはスキップ(笑)ではなく、マリア様に励まされながら暗い道を歩むのが私たちの人生。その時の聖書の言葉は本当の励ましとなる。 ☆エレミヤ 南ユダ王国が滅び、神様の祝福の基盤を失った時代に立ち会った預言者。 エレミヤは、自分はふさわしくないと答えた。イスラエルだけでなく他民族に対しても語った。偽預言者はバビロン捕囚は3年で終わるといったが、エレミヤは 70年続くといった。連れて行かれて先で家庭を築き、子供を育て、結婚させる、オリーブを育て自活するようにと語った。エレミヤは人々にいやがられ嘲られ迫害された。 エレミヤも宇宙の暗闇を歩む人。 ☆パウロ 回心前、自分は神の教会(イエスキリストの復活によって呼び集められた神の民)を迫害した者。使徒と呼ばれる値打ちもないもの。そこに神が恵みをそそがれた。そこがパウロの力のでどころ。 私はただただ神の恵みの器にすぎない。土から作られた素焼きの器のよう、たよりないはかない存在。 皆、大変な苦労をしている。神の恵みの器であり、働きの源は神の恵み アブラハムが西アジアを歩く、目的の地へ達する。土の器であるアブラハムへの神の恵みの証。 人間のデータによって翻弄されず、私たちは土の器、永遠の存在ではない、しかし神さまは私たち一人一人を選び恵みの器にしてくださった。 その時必要なものが与えられるということを信頼しながら生きることも必要。。地球が健康であるよう科学技術を駆使して努力する、世界が平和であるよう努めるのは大事。 バブル崩壊、東西冷戦終結から20年たった。当時私たち庶民は地球温暖化、ハイブリッドカーなんて知らなかった。細かいゴミの分別なんて考えていなかった。当たり前に世界が変わっていく。10年、20年たって皆さんのお子さんお孫さんが生きていく時代、それぞれの困難があると同時に、それぞれの光が与えられる。私たちがしなければならないのは、幼い子をいじくりまわすことではなく、庭にオリーブの木を植え手入れをして生き、その後ろ姿を見せるようなこと。それは永遠に子供達の心に刻まれる。 車の中で若いお父さんが子供達をスキーへ連れて行った話をしてくれた。「とても良いことをしましたね」と言ったら怪訝そう。「大人になっても父に面と向かってお礼を言ったりしないけど、息子さんが父親になった時、必ず同じようにしますよ。」「そうですね」と彼は答えた。何かお父さんがよいことを自分と一緒にやってくれたことを思い出した、そして自分も親父がやってくれたことと同じことをやっているなあと思ったのだろう。 皆さんが今までお子さんを育ててきたことは清められ、伝承されていく。バトンタッチされるのは「愛」なのである。

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