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テーマ:闘病日記(4014)
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先日の日記の続きはまた今度ということで、とりあえず今思っていることを書いてみる。
あらかじめ書いておくが私は宗教などには興味がない20代の男だ。 解離性大動脈瘤になり、今回で何回目の入院だろうか。 手術は3回行った。 心臓カテーテル検査やCT・エコー・レントゲン・採血は数え切れないくらい行った。 病気になる原因は「不明」で、今わかっていることは恐らく血管が人よりも「恐らく」弱いのではないか。くらいだ。 この病気のことを知らない方のために簡単に説明すると ・大動脈に何らかの問題があり亀裂が入る ・切れる(亀裂が入る)ときにものすごい激痛が走る ・あまりの痛さに血圧が上がる ・血圧が上がるとさらに血管に負担がかかり亀裂が進む ・あまりの痛さに血圧が上がる(ひとつ上に戻る) ・場合によってはそのまま死ぬ ・亀裂が入った部分の血管の厚さが薄くなるために、まるで風船のように大動脈が膨れてくる ・放置していれば大きく膨らました風船が破裂するように血管が破裂して死ぬ まったく恐ろしい病気だ。 薬で血圧を下げて自然に切れた血管が治るのを期待する治療法もあるが、今回はもうそんなことを言っていられる状況では無いそうで、恐らく手術をして今ある大動脈を人工血管に交換しなければ、数週間くらいは破裂しないかもしれないが、それ以上になると確実に死ぬと言われている。 余命数日の可能性があるという宣告を受けるのはこれで2回目になった。 さすがに初めてのときは、予期しない突然の宣告に恐れ多少のパニックになったが、今回はきわめて冷静である。 発病してから4年の間、毎日自身の死について考えるようになり、漠然とした「死」についての恐怖が薄れ、今は死について「怖い」という感覚がほとんどなくなった。 その感覚が薄れるにつれ、まだ生きていればいろいろなことが出来るのにそれを何ひとつ行なえない状況でこの世を去ることについての無念さが大きくなり、そういった意味でとても「死」を受け入れたくない自分がいる。 「死ぬ」ということは、当然そこですべてが終わることであり、そこで「私」としての自我は消滅するのであり、その先には今、自身が抱えている感情は存在しなくなると私は考えている。 死の先には「無」が待っている。 「無」に戻るのだ。 「無」 それは人類が共有することの出来ない感覚。 想像が出来ない感覚に対する恐怖。 それはすべての生物に平等にやってくるもの。 この感覚は、眠るときの感覚に似ているのではないかと最近思うようになった。 眠るのに恐怖を感じる人はいない。 しかし確実に自分の自我・意識が停止している瞬間でもある。 無に戻るのに恐怖はない。 ただ願わくば、激痛の中でそのときを迎えるのだけは避けたい。 安らかで穏やかな死に強く憧れる。 ただし、まだまだやり残した事があまりにも多いので死んでいる余裕がない。 残念ながらもうしばらく、この肉体の中で頑張って生きていこうと思う。 つづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/03/27 09:47:34 PM
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