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カテゴリ:Oの人生論
努力なしで成果を出しても、
なかなか自信につながらない。 ぼくは高校生のときに思い知らされた。 高校一年生の2月だったと記憶している。 ラグビー部に入部させられた。 「させられた」というのは、 やりたくてやったことではないという意味だ。 だいたい、 生まれつき運動神経がなくて、 小中学校の体育の成績は2とか3だった。 中3のとき、 牧野先生という変わり者の理科の先生が転任してきた。 ずんぐりむっくり。 やさしいんだか怖いんだかわからない四角い顔をしていた。 彼は、 ラグビーが大好きだったのだと思う。 行く先々の中学校でラグビー部を作って、 生徒たちを指導していた。 だけどその当時、 ラグビーを指導する先生がいなかったので、 牧野先生が移動すると、 ラグビー部も解散するという繰り返しだった。 常に、三重県には一校だけラグビー部があったのだ。 ぼくはラグビーというスポーツのことはまるで知らなかったが、 三重県に一校だけというのにひかれて、 4月から3年生が部活を引退する8月ごろまで入部した。 ただボールをもって走るだけ。 試合相手もいないし、 面白かったのかどうかも覚えていない。 それが運の尽きというか、 高校に入ると、 しつこくラグビー部に勧誘された。 断り続けていた。 だけど、生来の人の好さが出てしまう。 毎日毎日、ぼくのところへ顔を出す先輩。 最初はうっとおしくて逃げていたが、 だんだん気の毒になってくる。 仕方なく入部することになってしまった。 少ない部員。 何もわからないのに試合に出される。 タックルするのは怖いし、 タックルされれば痛いし。 グランドを走り回るだけでも疲れる。 もちろん、試合はぼろ負け。 ラグビーをするモチベーションなどゼロなのに、 また次の週に試合があったりする。 ずるずると楕円のボールに振り回されながら2月になった。 タックルの練習。 2人一組になって、 1人がボールをもって走り、 もう1人がタックルをする。 嫌な練習だ。 タックルはしてもされてもヒザをすりむく。 帰宅してから風呂へ右足を突っ込むや傷がしみ。 左を入れるとこっちも痛い。 「もうやめたい」とため息をつく。 ぼくがボールをもって走った。 「これで練習も終わりだ」 とりあえずけがをしないようにしよう。 ぼくの相手は、 体もでかくてタックルもうまい上級生。 嫌だ、嫌だと思ながらボールを抱えて走り始めた。 そしたら、 先輩は「親の仇」とばかりに、 ぼくの足を目掛けて飛び込んできた。 先輩の方がぼくの太ももに突き刺さる。 長い両手が両足を締め付ける。 ぼくは紙切れのように後方にぶっ倒れた。 その拍子に、 後頭部を強打したようで、 ぼくは意識を失った。 あとから話を聞くと、 口から泡をふいていたらしい。 脳震盪だった。 ぼくが気づいたのは、 担架に乗せられ救急車に運ばれる途中だった。 事情を聞こうとしたが、 言葉が出ない。 そのまま病院へ行き、 3日ほど入院した。 実は、 このあとが面白い。 成績が急上昇したのだ。 2年生になって実力試験というのがあった。 それまでのぼくの成績は、 学年で50番とか60番。 特にがんばって勉強をしたわけでもないのに、 実力試験の結果はびっくり。 なんと4番だったのだ。 なぜ急上昇したのか。 頭を打ったからとしか考えられない。 2年生のときの成績は常に一桁台だった。 だけど、 努力した結果ではないので、 自信にならない。 「そのうち化けの皮がはげるさ」 白けている自分がいた。 3年生になって、 魔法の威力は薄まって、 30番前後に落ち着いたが、 自分としては居心地のいいポジションだった。 そんなわけで、 今でもぼくは自信はない。 ただ、 運はいい。 思わぬ出会いによって、 道が拓けていくという人生が続いている。 ラグビーは、 大学でも社会人でもやるはめになり(これも高校のときと同じ経緯だった)、 30代になってからは草ラグビーチームを作り、 骨折を機にプレーからは離れたけれども、 末の娘がラグビー部のマネージャーになったことから、 60歳で娘の学校のお父さんラグビーのチームに入って、 2~3試合に出て、 ラグビープレーヤーを卒業した。 運動音痴のぼくが、 よくやったと思う。 ラグビーをやったことは、 ずっとへたくそだったけれども自信につながった。 へたくそだったからこそ、 まわりについていくため努力したのかも。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2026年06月13日 17時00分57秒
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