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Satokoの徒然きままなときどき日記

Satokoの徒然きままなときどき日記

中国音楽の旅(1979年)

歴史的背景として、日本と中国はそれまで国交を閉ざしていました。わたしたちが訪中する7年前(1972年)当時の首相であった角さんこと「田中角栄氏」が日中友好条約を結んだところでした。中国側の主席は「毛沢東」でしたから、相当古いことです。
(その内容については文末に添付することとします。)

その頃、外国旅行はもうかなり浸透してきていて、大人の男性ならよく台湾やフィリピンに通っているっていうパターンもありだした時代です。でも中国に行くというのは・・・今みんなが北朝鮮に行くということぐらい、めずらしくビザが下りなかった時代でした。

小学校時代からはいっていた「和歌山児童合唱団」から訪中友好団の話があり、わたしの両親はいつものごとく快くそれを承諾し、わたしを送り出してくれました。

半年ぐらい前から中国行きのレッスン(歌・中国語)が始まりました。みんながよくテレビで聞く「我愛北京天安門」「東方紅」(ばりばりの共産党ソングです)をきっちりと中国語で歌えるようになりました。これはいまでも鮮明に覚えています。昔はNHKの中国語会話でよく聞いた記憶もあります。

時期は中学校1年と2年の間の春休みでした。全行程で10日だったでしょうか。
まず、JALで上海に飛びました。上海はどんよりと曇っていた記憶があります。かの田中角栄も泊まったという「錦江飯店」を宿舎に数日滞在しました。わたしたちはもちろん要人の泊まる本館ではなくて、別館に部屋をもっていました。

その頃まだまだ青少年は例の「赤い本」を手に持って、首には赤いスカーフを巻いていました。学校が終わっても、「学童」に行く代わりに「少年宮」とよばれる共産党の施設にみんな通っていたようです。

昼間はそのあたりにある、小学校や中学校を訪問し、どこにいっても「熱烈歓迎」でした。夜には上海の学芸団とのジョイントコンサートなんというのもありました。その度になぜかサインをしてくれってハンカチを渡されるものですから・・・みんなでちょっとしたスター気分だったでしょうか。時には「少年宮」にいって、そこの少年少女といっしょに遊んだこともありました。

上海に居る間には、ちょっとした買物を楽しむこともできました。その頃お金は「外国人用通貨」と「中国人用通貨」にきっちりとわかれており、たどたどしい記憶をたどると・・1万円で140円ぐらいに交換できた記憶があります。外国人用通貨はどこでも使えるというのではないので、ホテルに併設されているショッピングセンターか「友諠商店」と呼ばれていたいまで言う「DFS」みたいな??外国人専用のお店でのみいろいろ購入が可能でした。とっても怪しい?化粧品や、お菓子、きれいなレースの敷物なんか売っていました。ガムはとっても安かったので、おみやげにいっぱい買った記憶はあるのですが、味は20秒ぐらいでなくなったと記憶しています。

中国でよくできる少年少女はその頃、胸にいろんな「毛沢東」バッチや「周恩来」バッチをつけていました。わたしたちはそれと自分たちのつけていた日本バッチなんかをつぎつぎと交換しました。買える前に制服のブレザーには10個近いバッチがたまっていたでしょうか。

数日後、これもかなり昔ですが、大事故のあった、上海⇔南京の鉄道を使って移動しました。揚子江を上流に移動する旅です。幅の広い広軌とよばれるSLでの移動です。わたしたちはVIP扱いなので、ちゃんとカバーのかかった応接セットのような椅子のある車両での移動となりました。給仕さんから、お茶とおまんじゅうを出してもらったのをよく覚えています。もうその頃には、お茶の葉ごと入れて飲む中国茶の飲み方にも慣れていました。おまんじゅうは日本のあんことちがう、あぶらで練られたのがめずらしかったです。途中、牛の線路通過で旧に車両が止まりました。みんなお茶でスカートがぬれ、とんだ移動となりました。

南京は上海とはちがい、なんだか人の流れものんびりとしたものに感じましたが、相変わらず、わたしたちはVIP扱いで、バスで走っていっても、信号はまたたく間にすべて青色に変わり、止まることなく走りつづけます。揚子江の水はとっても泥臭いのですが・・(上海ではオレンジジュースでさえ、そのどろの味がしました)南京にいって、ようやく水らしい味の水に出会うことができほっとしました。

まだバターやパンが全く普及していなかった時代に、南京のホテルでは朝食は洋食でした。きっとコックさんが苦労して準備してくださったのでしょうね。ただ南京で気になったのは「魚料理」のどろ臭さでした。きっと海が遠くなって、川魚に変わったからでしょうね。やたらから揚げとかにされていて、濃いソースがかかって、味をごまかされていたように記憶しています。

南京でもまた、よなよなコンサートが続きました。大抵は中国語の歌から始まり、場がなごんだところで、日本から準備していった日本語の歌を歌い、あとは年少グループがゆかたに着替えて日本語でわらべ歌をいろいろ披露しました。わたしはこの頃本当にちびだったので、変な意味で目だっていました。まず一番最初に舞台にでて「いっしょに遊ぶここの指と~まれ!」と言う役を前回のアメリカ・カナダ旅行よりいただいていました。南京でもたくさんの人から大歓迎されました。

その後、バスで揚州に移動しました。うわさには聞いていましたが、途中で止まった公共のトイレはそれはそれはすごかったらしいです。建物に入ると、穴がいっぱいあって、一体どっちに向かっていいのかわからないらしいのです。なんでも現地の人はそこが一種の社交場になっていて、朝から世間話をしつつ用をたすようなんですが・・・わたしはそのうわさを聞いていたので、どんなに行きたくてもがまんしました。まあ・・他のところのトイレも西部劇のドアみたいなもの以外はトイレの隔たりがなくて、足があるかどうかで判断していたんですけど。

揚州ではかの「鑑真」が日本に来るまでいたという大明寺を訪れたりして、ちょっとした観光もしました。客人の招くホールに「田中角栄」が書いた毛筆の額があったのがなんだかとっても異様な気がしました。揚州ではまた長江(揚子江)にかかる橋の見学などもし、パンダのいる動物園にもいきましたし、相変わらずコンサートは続きました。

ある朝、グループの同じ歳のひとりが高熱に倒れました。この頃中国では「氷」はまだまだ高級品でそんな簡単にいただけるものではなくて、結局団の大人の人がひとばんじゅう「ぬれおしぼり」で看病し、なんとか熱を下げました。彼女はどうやらホームシックになっていたようです。食事もまったく勝手が違いますから、1週間もしたら変になる人がいても仕方ないですよね。

すべての行程を終え、来たとおりの道で帰路につきました。
ひさしぶりに戻った日本がどれだけ文化的に進んでいて、自由があるかということをしみじみ感じありがたかったのを覚えています。

中国はわたしの祖父が戦死した国でもあり、特別な意味があります。
まさか、その後中国系の男性と結婚し、その彼もわたしと同じ道のりで4年前に出張ででかけ、南京行きの電車に乗るとはまったく考えもしていなかったことです。

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日中友好条約

1.日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
2.日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
3.中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八条に基づく立場を堅持する。
4.日本国政府及び中華人民共和国政府は、1972年9月29日から外交関係を樹立することを決定した。
  両国政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
5.中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
6.日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
  両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
7.日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる 国あるいは国の集団による試みにも反対する。
8.日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
9.日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大する ため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
 1972年9月29日に北京で
 日本国 内閣総理大臣
      田中 角栄(署名)
 日本国 外務大臣
      大平 正芳(署名)
 中華人民共和国 国務院総理
      周 恩 来(署名)
 中華人民共和国 外交部長
      姫 鵬 飛(署名)



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