2004~2013

2009/09/27(日)01:46

「しんぼる」

日本映画(103)

早朝、犬の散歩。 午前中、睡眠。 テレビ。 「いいとも」テレフォンショッキング、是枝裕和。初登場。 途中から、「空気人形」主演のペ・ドゥナも加わる。是枝監督の知名度でこのコーナーに登場するのも意外に思えたが、なるほど、先日のリチャード・ギアもしかり、こういうパターンも最近はありになっている。絵ヅラは豪華になるが、内容は薄まるだけなんだけどね。 日記更新。 夕方、犬の散歩。 テレビ。 酒井法子、保釈のニュースをチラ見。 もっと悲愴な感じで出てくるのかと思っていたが、それどころか、むしろ、事件前よりも確実にきれいになっているかのよう。 いや、この事件前は、酒井法子は芸能人としてはつまらない存在だと思っていたのだが、ここまで堂々と、まったく取り乱すことなく「酒井法子」をやってのけるとは驚きだ。後悔や反省の感情をさらして、視聴者や芸能マスコミに下手に食いつかれても損をする。是非は別として、これはおそらくあっさり復帰するんじゃないか。 夜、横浜へ。 東口。 ポルタ。 ロッテリア、絶品チーズバーガーセット。 歩いて新高島へ。 109シネマズMM横浜、松本人志監督「しんぼる」。 言わずとしれた、松本人志監督第2作。観る前にネット上でいくつかの酷評を目にしていたけど、なんだよ、ちゃんと面白いじゃんよ! というのが、まず最初に思ったこと。 テレビや雑誌など、プロモーションでおなじみのあの真っ白い部屋のシーンとは、別の場面から映画は始まる。そこからもう、予想していた息苦しさからは解かれた思いだ。 どうやら、メキシコのルチャ・リブレの話のようなのだけれども、これはあくまでも日本人が考えたメキシコの風景だろう。外国映画に日本が出てくるような奇妙な感触がおそらくあるはずで、メキシコ人が観たときにどの程度のインチキに見えるかがけっこうポイントのような気がする。 そこからようやくあの白い部屋のシーンへ。ここで松本が映ると、松本の顔もどことなくメキシコ風に見えなくもない。これ、海外で上映したら、松本も日本人だと思われない可能性がありそうだ。 松本が演じるこの男は、この白い部屋に閉じ込められている。誰もが指摘するように「CUBE」との類似もあるのだが、密室から発想するコメディ、という点でジョビジョバのマギーが監督した「ショコキ!」も連想。 四方の壁、床、天井からは、無数の天使の“しんぼる”が飛び出ていて、それを押すとなにかが部屋のなかに現れる。この発想の原型は、「VISUALBUM」の「マイクロフィルム」にある。下半身からなにかが生まれるというイメージを、松本はつねに持っているということか。 北野武が「菊次郎の夏」で到達した天使趣味に、無意識にせよ、松本も惹かれていることがなかなか興味深い。ここを掘り下げると厄介なのだが、ある種、陳腐にも思えるような心象は、平凡な立場にいる人間には理解しがたいものなのではないか。 しかし、まぁ、それらのことはどうでもいいといえばどうでもいいことで、なによりもこの映画が素晴らしいのは、この白い部屋のシーンがとてもシンプルで古典的なコメディであった点に尽きる。いろいろとデコレーションがついてはいるが、このシーンだけをとってみれば、非常に良質のコメディだ。じつにていねいな手つきでギャグが積み重ねられている。 そして、監督以前に、コメディアンとしての松本人志の面白さも再認識できる。オカッパ頭はアホを表す記号であるが、このキャラクター造形には、藤山寛美や志村けんの影響が間違いなくある。松本人志という存在を語り始めるとすぐにそのアイデアの話になってしまうのだが、そのアイデアをアウトプットするテクニックは、じつに古典的なコメディアンのそれで、そこにはスタイリッシュに見せようという意思は薄い。泥臭く、大衆的なものである。ここが松本人志というひとがつねに誤解に悩まされる由縁で、同様のジレンマはビートたけしも抱えているはずだ。 いや、どうせならば、この映画の主演が、志村けんだったならばもっとストレートに真意が伝わったんじゃないか。けして非現実的な案ではない。この映画でやっているコメディはその種のものなのだ。あるいは、ジム・キャリーでも良い。 ただ、名案が浮かぶ場面でアメコミ調になるところなどは、じつに松本らしい味つけではある。CMでもばんばん流れてる「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」っぽい曲は、あれはこの場面で初めて聴いたほうが可笑しかったような気がして、ちょっともったいない。 白い部屋を出てからは、もう少しギャグにひねりを入れてくる。部屋のなかだけで完結していたことが外界へ影響を及ぼすようになり、冒頭から平行して描かれていたメキシコの物語がここでようやくつながるのだが、これがまったく意味のないギャグで締めくくられる。これはつまり、物語よりもギャグを上位に置いているということだろう。 続く、サーカスの瞬間移動の芸が移動しなくなるというギャグなどは、変化を及ぼしたことで変化しなくなるというひねりなのだが、ややわかりにくい。順を追ってエスカレートさせる、この匙加減はなかなか難しいところだ。 このあたりまではコメディとしては申し分ないと思って観ていたのだが、ところが、終盤になると途端に深読みを誘う危なっかしい作りになってくる。 「ガキの使い」でフリートークをやっていたころ、その末期では、松本は自身の論理が破綻すると話自体を放り投げてしまうことがたびたびあったが、この映画の終盤でも同じようなことをしている。蛇足にも思えるが、いや、これもまた松本らしさではないか。 自分の一挙手一投足が世界に影響を及ぼしているような感覚というのは普通の映画監督には出てこない独特のものだろうし、ひょっとしたら、はっきりと描けるはずはないが、麻原彰晃にシンパシーを感じる部分があったとしても不思議ではない。 松本の思考のなかでは、ギャグが本気に、本気がギャグに行き来する。ある種、酔っぱらいの与太話のようなことを、シラフで語れるのが松本人志という人物だ。笑いに対しては慎重だった手つきが、ここでは途端に無防備になる。これなどもやはり、志村けんが「バカ殿様」のなかでチャップリンやマルクス兄弟の映画のシーンをそのままやってしまう意識と似たものに思える。 この大胆なスケールの広げかたを、もっと自覚的に、馬鹿馬鹿しく描けば三池崇史になるような気もするのだが。 まぁ、いずれにせよ、現時点での松本人志のベストが尽くされていることは間違いない。そこをもっともっと歓迎してもいいんじゃないか。あと何本も撮り続けていけば、作品の評価はきっと変わっていく。 ひと駅手前下車。 サイゼリヤ、パルマ風スパゲッティ。 読書。 立川志の輔・玄侑宗久「志の輔・宗久 風流らくご問答」、読了。文春文庫。 ざぶとん亭風流企画による「21世紀のあくび指南」を改題して文庫化。親本は2007年3月刊で、文庫は2008年12月刊だからかなり早い。 古典落語10席を仏教的に読み解いていく対談。近代的な事象と落語との共通点を見つけることで、落語を新鮮に聴かせてきたのが志の輔師匠だが、そういう意味では落語のちからをつねに疑っているひとかもしれない。落語に疑いを持たないひとでは、このような対談は成立しないんじゃないか。 深夜2時、帰宅。 mixiに、このブログより先に「しんぼる」の感想をざっとメモ。 それはさておき、「mixiボイス」というTwitterと同じような機能ができたのだけれども、これ、どうやって使いわけたら良いもんかね。

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