2004~2013

2010/05/11(火)23:54

「笑・神・降・臨」~キングコング

テレビ・ネタ番組(76)

休日。 午前中、睡眠。 ひと月ぶりに1日中自宅。 夕方、志らべさんから「『1Q84』、発売日に買えます?」というのんきなメールが。あれ?っと思って確認したら、やっぱり紀伊国屋ホールにいるとのこと。 今夜は談志師匠が高座に復帰するのだ。歴史的な高座になるに決まっている場に、客として立ち会えない悔しさよ。 テレビ、あれこれ。 ◆さまぁ~ずの新番組「お笑いさぁ~ん」。ゲスト、キャイ~ン。 これは、さまぁ~ず版「いろもん」ではないのか。むしろ、さまぁ~ず版「鶴の間」というべきか。 コラボコントのコーナーはこのレベルでやるのだったらなくてもいい。ずっとトークにしてくれたほうがよっぽど有意義。それにしても、キャイ~ンの漫才はデビュー当時と驚くほど変わらないのだな。 ◆「やりすぎコージー」、緊急ゴシップ企画「あの友近を呼び出せ!」。 参院選出馬疑惑の発端となった「友近由紀子えひめ後援会」の模様。こりゃすごい。この番組で放送されれば冗談になるけど、案外、出席者はみんな本気でしょう。あと10年も続ければ、この馬鹿馬鹿しさは失われかねなくないだろうか。この番組のような視点がつねに保たれていないと、友近といえどもこれは危うくないか。 ◆「笑・神・降・臨」、今期1回目はキングコング。 前口上がすっきりしたのがいい。無名のひとが出る番組ではないのだから、紹介はほどほどでいい。ましてや、キングコングほどの知名度なら不要だ。 漫才5本だけのシンプルな構成。2丁拳銃は30分ぶっ通しで漫才を見せたが、キングコングのスピーディーな漫才ならば、このほうがいいかもしれない。 もちろん漫才であるから、話芸の部分だけでも充分に優れているのだが、それに加えて、サイレントコメディのような動きのギャグが多く入ってくるのがキングコングの武器といっていいだろう。聴覚だけでなく、視覚的にもぬかりがない。舞台の広さを意識した振る舞い。からだのすみずみまで神経が行き届いていて、一挙手一投足から目が離せない。 肝だめしのネタでの梶原のびっくりする表情と絶妙な間、住民票のもらいかたを説明する西野のテンションの振り切れ具合もそうとうな可笑しさだ。 しかし、現在20代のキングコング、30代、40代となったときに、はたして今のスピード感をキープできるかという心配はある。今がひとつの頂点に達していると思えば、キングコングの漫才はもっともっと評価されても良いのではないか。 “漫才コント”というよくわからない言いかたがいつから使われているのかわからないが、漫才のなかである役柄に入るとき、余計な説明をせずにすっと入るのがなにより良い。ここでもたつくのはまったくの愚策。役柄と本人への出入りが自在なのも見事で、このあたりは中川家に学んだ部分もあるのではないかと推測する。 ただし、4本目に見せた漫才は、ボケとツッコミを逆にしようというイージーな発想のもので、新しいかたちの漫才をやろうという提案も閉塞的に思えた。ラップのリズムに合わせた漫才という発想は時代遅れだし、ラップの概念も、たとえばロバートのコントに出てくるラップと比べるといかにも古臭い。しかしこれは、じつは、おそらく、ある程度は意識的なものである可能性もある。 ここで行われているラップも、つぎに出てくるサンバも、本物のラップやサンバとは懸け離れたものではあるが、これは漫才のなかでのリアリズムにはなっている。落語の「金明竹」に出てくる関西弁が本物の関西弁とは懸け離れているように、漫才内でのリアリティで処理された、ラップであり、サンバなのだ。これは、キングコングの持っている、強固な漫才美学のひとつの証明であろう。 関西の漫才師のなかには、多かれ少なかれ、この漫才美学が生きている。東京の漫才にはこのような漫才美学は存在しない。“漫才ブーム”による断絶のため、あるとしてもせいぜいが借り物の漫才美学である。

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