近頃思うこと 斎藤隆夫とバーバラ・レイノルズ
佐藤芳博(大阪三区・井上一成秘書) 何の変哲もない朝、国会の周辺を散策し、ふと足下に多くの蟻が実によく働いている姿を見た。 戦後食糧難の頃、国会の前庭に、薩摩芋などを耕作した時期もあった。 国民総飢餓に直面し、敗戦の悲惨なまでの光景を、今日までその時の蟻は見続けていたのではないかと思った。 敗戦への道程で忘れてならない出来事として、1940年2月2日、衆議院本会議の代表質問に立った立憲民政党の斎藤隆夫氏が、激しく軍部と米内内閣を批判し、戦争の意義を追求した。これに陸軍が激高して取り消しを求めた。同党出身で無所属の小山松寿議長は職権で、演説の後半、全体の3分の2に当たる一万字を議事録から削除した。軍部はこれでもおさまらず、斎藤氏は除名処分になり、議会は3月、「聖戦決議」をして政党解体への道を歩んだ。 (86年8月14日付各紙朝刊参照) その後大政翼賛会が成立している。 当時の社会大衆党は、議員数34名、誰一人青票を投じた者はなかった。「賛成」投票した者は23名。不登院の棄権は、中央執行委員長の安部磯雄、片山哲、西尾末廣、登院して棄権したのが鈴木文治、水谷長三郎、松本治一郎、冨吉榮二、岡崎憲、松永義雄、米窪満亮。ほかに麻生久が病欠。 社会大衆党は安部磯雄、松本治一郎を除いた片山哲ら8名を党から除名した。 この時、斎藤代議士除名反対の青票を投じたのは、元立憲民政党の岡崎久次郎、立憲政友会久原派の芦田均、牧野良三、名川侃市、宮脇長吉、丸山辨三郎、第一議員倶楽部の北浦圭太郎の7人であった。 歴史の一コマには、後世の者にとっては、とても信じられない様なことがある。 どの様な時代に於いても、大政翼賛会的な政治は、決して容認されるべきではない。その反省に立って、戦後活躍した先達は数多い。その中で私の最も尊敬する政治家の一人の言葉をここで引用しておきたい。 「最後に私は岸君に訴えたいことがあるのであります。私自身も御承知の通り戦争の責任者といわれて追放を受けたものであります。私はその事実を私の生涯にとって最大の自分に対する反省の機会と考えておる。(中略)私はこの戦争の責任者の一人として岸君に心から訴えたいことは、あれだけの戦争をさせた、そうして日本の国内及び国外に非常な迷惑をかけたこの事実を私は忘れては相ならぬと考えておる。(後略)」『河上丈太郎演説集』より) また、戦後の反戦運動の中で、バーバラ・レイノルズ女史の存在は、忘れてはならない。 同女史は51年からABCC(原爆障害調査委員会)に勤務する夫の関係で広島市民との交流ができ、原水禁を訴え、平和希求を説き、実に17年に渡って全世界に広島の惨禍と平和の必要性を説いて廻り、69年3月、失意の中で、一人帰米した。 その記録誌『さらば広島』を紹介した『週刊朝日』に、同女史が子供達に戦争を美化させない為、戦争の玩具で遊ばせない運動として、ピース・トイ運動を提唱した記事があり、私は深い感動を覚えた。被爆者が原水禁を訴えに訪米した時もボランティアとして活動し、懸命に平和運動をしているその姿に、私は心を打たれた。ともすると日常生活の中に埋没しがちな残虐な戦争の事実を再認識する必要があると私は思う。『World Military and Social Expenditure 1985』(Ruth L. Sivard) によると、20世紀になってからの戦争犠牲者は、市民・軍人合わせて7,786万6千人に達し、さらに今、世界で1分間に3憶円の軍事費が使われている。人間は環境の一員として、自然の摂理以外のいかなる方法による死をも拒絶すべきであり、そういう事が言える社会を作る為に努力すべきではないだろうか。協調とは、平和を追求する為に必要なのであって、憲法で認められた諸権利までをも放棄することではない。苦しい時にこそ、護憲政党の本来の姿を取り戻し、思想的先祖返り現象による世界総保守化が20世紀における世紀末にならないようにする為にも、現実を見据えながら、人間の叡智を終結して、未来を背負う子供達に、残すべきは何かを判断して、平和と平等をスローガンにして一歩一歩確実に歩み続けなければならないと思う。平均余命からすると私も丁度人生の折り返し地点に達した。蟻が『変身』しない為にも、自らの座標軸に忠実に生き続けたい。 (1986年10月24日発行 日本社会党秘書団機関紙 『ひろば』から) 「2025年09月24日 午後10:30 〜 午後11:15 NHK総合テレビ 歴史探偵 日本人と選挙」を視聴して再録しました。