スクランド日記

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2004年07月22日
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                (改定は青黒字)

 昔、メディアisメッセージという言葉が流行った。
 どのメディアであるかということは、受け手の行動様式を決定するという理論だったらしい。
 それは具体的には外れたそうだ。

 僕はむしろ、メッセージisメディアだろうと思う。
 芸術レベルの作品は、それがどこに置かれるべきか、どの分野に属するかを自ら決定する。
 同じように、言葉の内容がメディア様式を決定する、と考えられる。

ネット議論

 ネットでは、名前を変えてリセットしてやりなおしが効く。死にはしない。とか。
 が、そうだろうか。
 自分がこもったものを捨ててしまうのは、簡単にやりなおしていいものだろうか。
 意地になるのは愚かとはいえ、育てた自分のキャラクターを簡単に捨てたら、自分が信用できないかもしれないな・・・

 さて、ネット議論の話。

 その風景を眺めれば、違う種類の議論が同じ場所に混在するようだ。

 何のために語るのか。
 ネタになればいいのか、何かのヒントになれば成果なのか、本気で何かを主張しその結果を見たいのか、日記として過ちもそのまま置き続けておくのがふつうなのか、公開文としての責任を持たねばならないのか。
 議論なのか、雑談なのか、話題としての議論の形なのか、本気の議論なのか、日記ではなくブログ(≒広報記事)なのか。
 ・・・それらはそれぞれに違う。

 これらは話の場が違うと思う。
 違うものに引きずられるのも、ま刺激なんだけど(笑)。


プロセス
 自分が書いていくうちにいろんな立場に変わっていくのは、面白いはずだ。
 語ることで語る場の意味が変わってくるのは、面白くていいはずだ。

 もっとも、相手が面白いと思ってくれることはむしろ少ない。
 主張は、それがすべてを支配するわけではないのだから、互いに多少のあきらめやユーモアがあってもいいと思うのだが。
 気分がきついのは困ったもんだな。

 議論に余裕がなくなるのは、それが議論という一種のメディアだからではなく、対立というメッセージを吐くことしか知らないことに、より原因があると思う。メッセージがメディアをつくっているのだと。
 それが文化でしょう。

 

トラブルになったとき
 トラブルならば、トラブルをまず解決するのが議論の中心。
 このためには、トラブルの発生ポイントを片付けなければいけない。

 トラブルについての議論の流れでは、始めの発生ポイントを放ったらかして次のことに進むというようなやり方は、責任ある発言ではない。それをするなら、「自分はあまりしっかりしたことは言わないよ」という姿勢を出しておくべきだ。
 日記であれば、間違いも放ったらかしておくこともあるが、ブログとしての広報記事が始まりだとしたら、それを不問に伏して続けようとすれば、語る資格はなくなる。

 ポイントを狭めて行って最後に残るのは、議論ならば、引くか戦うかのポイント。
 または、自分の言ってることが自分にわかっていないから起きると示唆する出来事。
 自分がしかけたことで、このポイントを無視するのは、語る資格がない。


立場
 一方、人によって焦点は違う。
 展開する流れの中で、自分の立場を自分に確立できていないことがある。
 これはその変化こそが醍醐味なんだから、ごたごたするのもしかたない--と思ってみれば、却って片付け方がわかったりすると思う。

 パニックになって、すべてに勝たなければいけない、と思わなければいい。自分が自分をわかっていることが先決。

 こういうときに、書き込みを禁止することがあっても悪くはない。
 書き込み禁止が悪いのは、その使い方がペテンになっているときのことだ。
 たとえば、相手が自身のHPで扱うことを自制するネタを、自分は書きながら相手の書き込みを禁止すればペテンだが。
  

 
 トラブルの時の対処と反省の、優先順位としては、
 発生ポイント>立場を確立すること>プロセスへの注意と反省、
 という順になるだろうな。
 


論「理」ということ。
 「ことわり(理)」ということ。

 論理的とはどういうイメージなのかと、ドラマなどでの場面を想像してみる。
 理論的な人とは、理論的用語のつなげ方がうまい、というふうに描写されるだろう。
 ふつうの言葉で意味の実体を語る人は、「本物」というふうに描写されそうだ。

 しかし、理論用語のつなげ方は、「ことわり(理)」自体ではない。
 それは、部品の組み立てがうまくても、設計原理そのものを知っているわけではない、というのと同じだ。
 理は、原理であり、言葉の断片に従属するものではない。言葉を組み立てた全体が、理に適うということだ。

 言葉という部品以前に、理という設計原理は存在している。
 理とは用語の使い方ではない。言葉を道具として探っていく、言葉とは別のものだ。
 それがわからずに、言葉の表面だけをやり取りすると、枝葉末節になりやすい。(自分自身の言葉に流されることも)

  
ネットのくせ
 論理の組み立てを自分で考えずに、「>(引用)…」「(応え)…」というくり返しになったら、わずらわしかったりする。
 (細かいことから互いにおもしろく発展していくことはあるけどね。)

 ネットでは「>(引用)…」「(応え)…」という形が多いので、これが正しい手続きかのように見せられるが、気にすることはない。意味をつかめない者が、わからなさを細かく説明してくれるのはいいのだが、それに合わせて答えていたって、わかってくれるようにはなりはしない。

 で、そういう断片でしかない用語のつぎはぎを、論理だと思って、自分は論理的に鋭いと思っているらしい人が見える。
 こういう人って、じつはそれでものを考えてるわけではなくて、批判のために書いてるだけに見える。

 ・・・そうだな「あなたの本気の理由がそれなのか?」と問うつもりで読んで見たらいいのでは。自分ですっきりしないときに自問するときとかも。



要約力
 「実践日本語ドリル」という本がある。
 「要約もできないのに議論をするな」という部分がある。
 全く賛成。

 で、「相手が本当にいいたいところではないところに突っかかっていって、おまえの意見はおかしいという人が多過ぎます」だそうである。
 基本的な建前はそうなのだが・・ときには問題がある。

 相手の言うことに合わせて話を流しているのは、お人よしだという場合。
 相手の議論上の誠意を信じられない場合というのがある。

 相手が「私の言いたいのはこういうことです」と書いていても、そこまでのプロセスがいいかげんなのを無視してそのまま放置したい方便だったり、内容からして悪く取った場合だけが論理的に成立して読めたり、ということがある。

 これをどうするかは、相手の本意をどう理解するか、どんな相手か、ネット上どんな言動になっているのか、・・などによって変わってくる。

 たとえば、自分に向けて語っているなら、「私の言いたい~」を中心にも取れるが、一般を意識して語っているなら、その論理が何を意味してしまうかを本音・中心と取らざるを得ない。
 (こんなときは、不特定多数の主観の場となる。常識的センスのレベルが問題になる。)

 一概に表面的にルール化するわけにはいかない。それが理というもの。
 ルールにはごまかしがある。しかし理にはごまかしがあっては理ではない。
 だからルールと理とは一体化しない。


                     (最終改定7/23/18:06)

  関連のテーマとして、2004/6/1の佐世保小6殺人の総目次






最終更新日  2004年07月23日 12時38分42秒
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