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テーマ:命と現実と・・(9)
カテゴリ:文学的なあれこれ
自分に厳しいとか、他人に厳しいとか言うけども、ある考えが 人類に対してどうなんだろう、と思ってしまう。
>私はあんまり自分が正しいと思えなくて、正しくないものは生きていてはいけないと、気がつくと自然に考えている。 >(が、他人が正しくないと思うことはあまりない。どこか1箇所でも正しいところがあれば生きる価値がある) >(で、自分に対してはどうかというと、1点でもマズイところがあったら万死に値すると考えるのに何の矛盾もない。・・) この気持ちというより「考え方」は自分としては、評価できないところです。 自分への厳しさと他人への厳しさは、相互に入れ替わり得て、きびしさと甘さの両極端も入れ替わり得る、と思うからです。 たとえば、自分にも他人にも厳しいとか、自分にも他人にも甘かったり厳しかったりが気まぐれに入れ替わるとか、--バランスを取るべきだろうに、 高いバランスを求めることから逃げて、他人に甘く自分に厳しく振り分けている、ということも、その考えからは起き易い。 「生きる」ことを「ネット上で存在する」と置き換えると、ネット上でそういう考えに従った――議論で引け目を感じたら、HPをたたんで引っ越す――行動を取ったとしても、僕はバカとしか言えませんし、自身がそうとしか思えないはずだと思います。 過去に、「あれもやるな何かするなと苛められた」というのが自分だったら--- ほんとうは、どうしても相手の気持ちが理解できなくて、どっかでそういう情けない相手への同情にして解釈してしまい、それがくせを生んでいる---なんてね。 僕は、「正しさ」で生死を決めるのは、この世の時間を停止させてしまう-あまり人類を愛していない-思想だから、適当にしか付き合わない、と思ってますが。 そういう正しさと攻撃欲求とどう違うんだろう。 正直、攻撃的興奮というのは、自分で書いてるこの文にもあるように思う。ただその攻撃対象を、思考の結び目のポイントに狙っているだけで。メスやはさみは使いようだと思っているし。 (この間、性格テストをやったら、デリカシーに弱く攻撃的だと出ましたから、そのつもりで読んでください) (追伸) しっかし・・ 最善に向かって努力した結果、どうしてもだめだったと絶望経験にしてたら、じつは相手はいじめのつもりでやっていた、てこともあるんですねぇ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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