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テーマ:ことば、声(9)
カテゴリ:論理・議論
前提知識 【論理の三段論法】=【「A→B、&B→C」→「A→C」】のこと。「→」は「ならば」です。 (注意:決して、【A=B、&B=Cならば、A=C】ではない!) 課題 【「A=B、&B=C」 ならば 「A=B=C」である。それは実質 「A=A=A」である 】 という命題について。 (条件: 数学に限らず、あらゆる事象に適用させるとき) これらは「=」を使ってはいるものの、数学ではない。「と同じものだ」という意味の動詞であり、正しくは「⇔」と書くべきだ。 「同じものだ」=「⇔」=「→」かつ「←」 この命題の中心は、この「=」の意味がとういうものかに拠っている。 「同じ」とか「同じものだ」とはどういう意味か? ------------------- 「=」の成立する意味 補助命題1 【りんご一個=みかん一個=バナナ一個】 補助命題2 【りんご⇔みかん、みかん⇔バナナ】 補助命題3 【りんご⇔みかん⇔バナナ】 補助命題4 【りんご一個=りんご一袋=りんご一切れ】 これらを比較して眺めれば、 補助命題1は「=」は数字という約束体系だから安心して使えるとわかる。 補助命題2では、数学でないので、ふたつの「⇔」の意味が同じとは限らない。重さか個数か好みの価値か。 ‘⇔’一つの毎に一つの意味が作られる。 さらに実例を想像すると、「⇔」の中の「←」や「→」もそのつどどんなものなのかわからない。 それが、論理上のつながりだ。 補助命題3はりんご、みかん、バナナが置き換え可能になっている。それは補助命題2に比べて、‘⇔’の意味の条件が増えている、ということである。 ‘⇔’がつながっていくということは、‘⇔’の意味条件が増えて行くことで成立する、ということ。 補助命題4は、どれも同じ「1」である。 たとえば指が二本しかない人にとっては、1個が1動作で運べる数だ。まったく現実的に成り立つ数字だ。 「=」が成り立つのは、りんご、みかん、バナナ自体とは別に、成立する見方が共通している間でのみ成り立つ。 ------------------------ 以上から、課題に戻る。 【「A=B、&B=C」 ならば 「A=B=C」である。それは実質 「A=A=A」である 】 というのは、 “「A=B、&B=C」 ならば 「A=B=C」である” というのは、論理上は成立していない。未定・未知である。 成立するためには、成立するように「=」が意味されていること。他に成立する要素はない。 つまり、“~~~” は、 “始めに 「A=B=C」となるような「=」関係があってから、 その意味の「=」によつて、ABCの任意の別値であるA’B’C’は、「A’=B’、&B’=C’」が成り立つとき、 「A’=B’=C’」が成り立つ。” これは、つまり、「成り立つような意味での「=」関係の中では、「X=X」が成り立つからだ」ということになる。 X をいれかえると 「(A)=(A)、=(A)」 「A=A=A」 と書ける。 そのようにして、課題命題は成立する。 課題命題を言いかえると、「成立するようにして意味された関係の中では、中の事象は同じように成立する」 ということ。 つまりは、「道を作ってくれた人がいるから、僕らは道を行ける」 「地図ができたから、居場所がわかるようになる」 ということだ。 ------------------ 論理の三段論法からの課題説明 【「A=B、&B=C」 ならば 「A=B=C」である。それは実質 「A=A=A」である 】 三段論法の形に当てはめられるのは‘ならば’の部分だけ。 よって、 【「A=B、&B=C」 → 「A=B=C」である。それは実質 「A=A=A」である 】 さらに変形、文字を置き換えると、 【「X → Y」それは実質 Zである 】 さらに変形、 【「ある分割不能の単位命題は」 が 別の形の単位命題で表現できる 】 さらに変形 【表現や見方は一つではない】 という意味になる。 これを逆に辿っても、実質的に課題命題に到達すると理解できるはずだ。 ------------------------- 理解と証明 持って回った書き方をしているけど、証明的な書き方とはそんなもんだ。 わかりやすい、とはかなり「理解」なんだけど「証明」とは違う。 理解は、眼の見える人に見えやすくすることだし、 証明は、感覚がなくどうしようもない錯乱状態の中で、最低限のものを辿って行くこと。 つまり、証明は地図も道もない所に道をつくることに似ている。曲がりくねった道になるだろう。 理解とは、地図をみてから道を考えるのに似ている。すっきりした道になるだろう。 課題命題と論理の三段論法が同じだという勘違いがときにある。 それは、「=」記号を「である、→」という意味で使っているから。 これを勘違いすると、錯誤に入る。 錯誤に入ると、ものが信用できなくなるし、ものを自分で見る手続きを忘れるということだから、知識が薄っぺらくなる。 その結果、人を信用しないわりに、簡単に騙され・信じ込むしかない状態になる。 ・・・・・・・・・ということもありうるな。 たいていは笑い話で済む程度のはずだが。 (じつはそこにトラックバックをかけようと思った。 直前によく見たら、その勘違いはすでに指摘されていた。 指摘された人もそのまま‘不信’の主張をし続けてたし、僕は全体を見ようとしていなかったので、見落としていたのだった。 だったら、わざわざ書かなかったな (TT;)泣き) ---------------------------------- 追加 11/21 変更/22夜 哲学趣味風アニメ脳 ↑うす字で書いたのはまれな話だが、どうもそれだけではないらしい。 いわゆる毒電波――人々の間を徘徊する正体不明の悪魔的シグナル――のサイトに、こんなのがある。 哲学的な何か、あと科学とか ここは哲学と科学についての毒電波サイトです。 <論理(1)> <論理(2) 言語ゲーム> これらは、議論を破壊するのがかっこいいと思わせそうだ。 ↑の<論理(1)>というページのいいかげんさは、このページで論じたものと比較してください。全く対応する内容になっています。 さらに、 <論理(2) 言語ゲーム>では 『 「僕は人間である」は、「 『僕』 が 『人間』 というカテゴリに含まれている」という意味だ』 と言い、それを「決め付け」によるものだと言っている。 古代の皆殺し戦争時代の感覚では、そういう「権力」によるかのような表現もしたくなるだろう。欧米の感覚だな。いや、革命趣味の感覚か。 この場合、「決め付け」、以外にも、「仮定してやっている」、「認められている」、と言い変えてもいいはずだ。 「決め‘つけ’」というならば、 「僕」の何も見ずにかってに決めている、と言ってる表現になる。 「仮定してやっている」というならば、 ひょっとしたら、狸が化けているかもしれないが、人間としてやっているんだから、それで良かろう、となる。 「認められている」というならば、 知識があって、または合意があって、「僕」は人間として認められている、 わけだ。 つまり、「決め‘付け’」という言葉こそ、『人間の認識は権力に洗脳されているんだ』と、「決め付け」ているわけだ。 こういう被害者意識をそそのかして楽しむのは、 小学生の付き合いからやり直した方がいいのかも。 危険な影響 確かに、「論理」という名のものを振り回されていやになることはある。 地位の低い人、おとなしい人、経験のない子供、・・なんか。 ただ従うだけでなく、考えるためには、論理自体を疑う必要のあることもある。 ばかな大人と、形骸化したりくつは多い。 言葉を封じられた者は、世界に向かって「勝手に決める」ことを宣言する、必要があったりする。 ただ、最近の若年世代は年々頭が幼くなっていると言われる。 保育所の子供も、小学生も、企業に入る年齢の者もだ。直接接する人の感想や、長年の心理テスト結果だ。 そして、現在、ある種の暴力性のたがが外れた状態と言われる。 悪い事をしても見つからなきゃいいから、見つかってもいい、に代わったと。 さて、そんな幼児性を保ちたがる現在の若年世代が、こういうサイトを見て、顔の見えないネットの世界で振り回したくなってしまうのは、自然の成り行きではないだろうか。 まして、まともな知識も多いサイトなのだ。 トップページ下に 『本サイトは、無知がダラダラ書いているただの備忘録です。 もし、間違ったこと書いてあったら、優しく教えてください。』 とあった。 メインコンンテンツの 「哲学的な何か」 という入り口に掲げてあるのは、 『「――わかりました。あなたはもう世界を『革命』するしかないでしょう。 あなたの進む道は、用意してあります。」 御影草時 「少女革命ウテナ」 』 ただの アニメ脳 である。 こわすことのかっこよさで遊んでいるらしい。(いや、疑問を公言したがる気持ちはよくわかるが) その前に、自分の言葉だけでもしっかりしたものを作ってみなさい、エヘン。(むずかしいか) まあ、この御影草時 というのは、影から人を操って、あげくに自分の犯罪の記憶を人のせいにしていたというキャラなので、 つまりは、 「ダマされる方がバカなのさ」 と言っているのである。 (しゃれにしてもね。) 実は、まともな大人の政治談義に利用されていた、という話を聞いた。 大人にとっては只の刺激剤で、引用しても一瞬のはずだ。それが長々ねちねちと使われていたらしいとかいう。やれやれ。 もともと人はよくおかしな論議をするので、別にいいけど、しかしそこは2ちゃんねる人種が覗いていそうなので、こんなのがこっそり流行らないとは限らない。 というわけで、論理否定⇒危険な暴力への洗脳、になりかねないサイトを紹介しました。 それと、毒消しの意味で、こちらのページとサイトを紹介します。 哲学風の危険 / 論理を成り立たせているのは? 「=」記号と論法について。 楽天決闘広場の黙示録 ~空に浮かぶ、哲学のような、永遠の城~ ことば、認識と表現のページ 11/24 追加 速水 透のホームページ 地獄の箴言 11/24 追加。 下のコメント参照。 「いや、まったく・・」11月23日 12時39分 ~「決め付け と・・」11月24日 21時23分 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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素ーさん。
すみません。三段論法のことよっぽど書こうと思ったんですけれど、「(改… 哲学風… (2004年11月16日) 」で「(異常な命題の例はいろいろあったが、これが最も初歩的なまちがいなので、注意としてここに書く)」なんていわれてしまうし、私とsimaさんとのやりとりをお読みになっていらっしゃらないようだったので、自分から書き込むのもなんだなあと思ったわけです。 「馬は動物である」を最初にもちだしたのは私です。でも「日本語の言語規範という共通了解のもとでは「動物」は「馬」よりも上位の概念ですから」という風にちゃんと前提は述べていますし、「(馬の集合)⊂(動物の集合)」ということにも言及していますから、「馬」も「動物」も記号なんかじゃなくて概念だということは分かるはずですけれど。 (2004年11月21日 18時32分05秒)
シカゴ・ブルースさん
さいでしたか。 僕もあほでしたな。 なんか、k-nanaさんが議論してそうな話を読んで覗いたら、ごちゃごちゃしていてまともに読む気がしなかったし、後の時点からさかのぼって見ていたのでk-nanaさんが中心の話だと思っていました。 見なおします。 (2004年11月21日 18時48分10秒)
混乱させてスミマセン^^;
「決め付け」とは便利な言葉だなあと思ったり。 「万有引力があるから物体は下(地球の中心)に落ちる」のが先に立っているような。 すると、万有引力“という決め付け”が無ければ、地球上で物体は浮遊していられるとでも言うんだろうか? ユークリッドも非ユークリッドも知らないけれど、死んだものを「死んでない」と“決め付け”て相手が生き返るんだったら、そりゃー楽でいいなあと・・・。 私はおバカなので、simaさんや覇邪霊陣さんの話は、現実を超越できているようで むしろなんだか羨ましいなあ なんて思ってしまう(苦笑) (2004年11月21日 19時55分14秒)
見なおしました。
つまり彼は、 シカゴ・ブルースさんが[Re:三段論法 ](2004.11.15 10:48) に書いた、三段論法解説を読んだ後、 読まなかったかのように[論理の価値 ](2004.11.15 21:55)で 「A=B、B=CならばA=C」 を持ち出し、 [Re:三段論法 ]で持ち出された、生物概念としての「馬⊂動物」の関係を、末尾の、『ただし、日本語の言語規範という共通了解がないところでは無意味な表現になります。』 という表現に引っ掛けて、『言語ゲームってことでしょ』 とすり替えているわけですね。 これにシカゴ・ブルースさんが、[Re:おお、凄く分かりやすい。(11/15) ](2004.11.15 12:03) で、 “言葉が通じているから話ができる”という表現で受けたから、 知識概念と言葉ルールがますます混同してしまった。 というわけですね。 ぼくは、シカゴ・ブルースさんの、ここ、[Re:おお、凄く・・ ](.11.15) は見ました。それだけを見たので、言葉の表面になっていると思って、シカゴ・ブルースさんのコメントを視野から抜きました。 知識の概念は、日本語の用語を使うかどうかではないからです。 そのため文字を視界で流しているとき、シカゴ・ブルースさんの「⇒」記号が目に入ったはずですが、別の話をしてるんだろうな、とだけ思って、[Re:三段論法 ] を見飛ばしたのでしょう。 この二つの例からして、彼は人やまともなりくつをとにかく決め付けたがっている。さらには、無視さえもする。ということですね。そのために、他人を決め付けていると言いたがる。 先生が「コ゜ミ」というのがわかります。 教室では、そんなのに過去たくさん出会ったのではないでしょうか。 (2004年11月21日 19時56分39秒)
素ーさん、k-nanaさん 、どうも。
k-nanaさんは真面目な方なんですね(私もそうですけどね――ふつうは自分ではいいませんが…)。 ははっ、「フロイトの「抑圧」概念 」のコメントで啖呵を切ってしまいました(元来気が短い)。 (2004年11月21日 20時20分51秒)
あそこの激論には感謝でいっぱいです<究極のエゴイストやね^^;。
(2004年11月21日 20時44分39秒)
シカゴ・ブルースさん
>素ーさん、k-nanaさん 、どうも。 > >k-nanaさんは真面目な方なんですね(私もそうですけどね――ふつうは自分ではいいませんが…)。 > >ははっ、「フロイトの「抑圧」概念 」のコメントで啖呵を切ってしまいました(元来気が短い)。 ----- 「フロイトの「抑圧」概念 」ではなくて「意味の二重性」の方でした。 (2004年11月21日 20時56分54秒)
シカゴ・ブルースさん
>k-nanaさんは真面目な方なんですね(私もそうですけどね――ふつうは自分ではいいませんが…)。 ***** 脳みその中ではマジメらしいですが、行動はいたって不真面目です(爆) というか、行動が伴わせられないっつーか。 素ーさんは「求めるレベルが高い」とか言って下さるけど^^; >ははっ、「フロイトの「抑圧」概念 」のコメントで啖呵を切ってしまいました(元来気が短い)。 ----- 私もタンカ斬ってきました(笑) (2004年11月21日 22時57分53秒)
シカゴ・ブルースさん
あそこは、先生が本気で、異常者の見本をさらしておこうと考えているなら、放置したらいい気がします。 変にいろんなネタが出るけども、厳密に言えばそれはただの形容だし。 大事な論理の骨子を見ずに用語使いの不器用さの揚げ足を取っているだけだと思うな。 まともにふつうの言葉を吟味して、「問題のことがらを構造的に表現」して論を築けば、ものわかれに至る部分が明確になっておさまると思うんですけどね。 それが言語を使うという表現行動だと思うんだけど。 実際、今の訪問者って自衛隊論議を見ようとしてるんじゃないのでは。 ・・・・先生はどういうつもりなのか、その心理と選択、・・こそがほんとの注目点では。 実際、何かの生産的な意味があるとしたら、そういう「ドラマ性」ぐらいだと思うし。 法律論が知りたければ、グーグルのほうが早いだろうし。 その二重性のページ。 なかなか、がんばってられるので、トラックをかける意味はありそうです。 そこで書かれた毒電波サイト、本気にしてみるやつもいそうですね。 なにしろ、「言葉が通じれば事実は押し通す」という連中がけっこういそうだし。 微力ながら警報しとかないといけませんね。 それをやっときました。 「日本語はどういう言語か」のほうの返事も、暇になったらお願いします。 (2004年11月22日 00時23分49秒)
k-nanaさん
>脳みその中ではマジメらしいですが、行動はいたって不真面目です(爆) >というか、行動が伴わせられないっつーか。 >素ーさんは「求めるレベルが高い」とか言って下さるけど^^; 求めるレベルが高くても、三段論法がヒント付きでなかなかでないのでは、不注意ミスが多そうですが。 長所と欠点は裏返しなので。 牟田口連夜さん > あそこの激論には感謝でいっぱいです<究極のエゴイストやね^^; 僕もおかげで、シカゴブルースさんのサイトを知って、毒電波サイトを暴くことができて、感謝でいっぱいです(^^) あまりお返しは考えてません(笑) (2004年11月22日 00時39分02秒)
素ーさん。
言語規範というのは基本的に科学的な知見や他の社会的規範に適合するように絶えず修正、追加される形で変化しているという認識を私はしているので、少くとも身近かな動植物の概念が生物学の分類をきちんと反映しているということ、これは小学生でも理解できる常識(common sense共通了解)だと私は思っています。また自分の属する集団が用いている言語の言語規範も常識に属すると。 現実の事実にもとづいてものごとを類別し分類し体系化する。これは知の基礎です。そして言語を用いてなされるこのような人間の営為の結果は言語規範の変化をもたらさずにおかないのですね。 まあ、そのような認識の背景があってのsimaさんに対するコメント「Re:おお、凄く分かりやすい。(11/15)」(2004.11.15 12:03)だったんですけどね。 「客観的」という言葉の意味についてももっときちんと書くべきなんでしょうが、長くなりますからとりあえず上のコメントで様子見をしたわけです。 それに対してかえってきたsimaさんのコメントが「Re[1]:おお、凄く分かりやすい。(11/15)」(2004.11.15 19:12)と「ゴミれす」(2004.11.15 19:30)ですからね。 前のは論外。後のは私の書いた「ただし、日本語の言語規範という共通了解がないところでは無意味な表現になります」を無視した文字どおりの「ゴミ」ですね(ご自分でも自覚しているようで「ゴミれす」って書いていますが)。 こりゃ、お話にならないです。 (2004年11月22日 08時24分49秒)
おはつ~です。
トラックバックでこっちに来ました。 あちらはどーも、秀氏の言っていることが宗教っぽくなってきたので、ついていけなくなりました。 ちと、よく分からないことがあるのですが、毒消しのつもりで応えてもらえると助かります。 >『「僕は人間である」は、「『僕 が『人間』 というカテゴリに含まれている」という意味だ』 とあり、これが間違っているとのことですが、 「馬が動物である」というのは、馬が属するのは動物という上位概念に馬が属しているからだ、というようなことを言っていたようなのですが、僕は人間という上位概念に属すると考えれば、「僕は人間である」は「僕は人間というカテゴリー(上位の概念)に属する」というのは間違いではないような気もするのですが、どうなんでしょう? あと、A=B,B=C、このとき、A=Cが成り立つという3段論法は→を使わなくてはいけないのですねー これは私の勉強不足でした。 (2004年11月22日 09時16分50秒)
もしかするとsimaさんや覇邪霊陣さんは、日本語を使って掲示板や日記でやりとりをしていること自体が日本語の言語規範という共通了解を基礎としているということが分かっていないのかもしれません。もし分かっていてああいうことを書いているなら彼らの書くことは「ゴミ」です。
(2004年11月22日 09時20分33秒)
んーこれはかなり酷い勘違いをしていたのかなぁ。
A=B、B=C、ならば、A=Cの3段論法 において、=は意味が違ったってことなのか? 数学的な意味で=をつかって、3段論法をやると間違うってことなのか・・・? A→BとB→Cならば、A→Cであるを、=で書くと、A=B=Cが成り立つって錯覚していたのか・・・・・ うーん、これはかなり酷いことになっていたかも (2004年11月22日 09時29分38秒)
今ごろ何を寝ぼけたことをいっているのですか。
(2004.11.15)の日記「ゴミの分類 その2」に書いた私のコメント「Re:三段論法」(2004.11.15 10:48)でちゃんと説明しているでしょう。そのコメントにsimaさんは訳のわからないコメントをつけているのですよ。無茶苦茶なことおっしゃっているのがご自分ではお分かりになりませんか? それと、「AはBに含まれる」は「A⊂B」(A、Bは集合)、「aはBに属する」は「a∈B」(Bは集合、aは要素)ですよ。 (2004年11月22日 10時08分18秒)
simaさん。
失礼。言葉が過ぎたようです。 >うーん、これはかなり酷いことになっていたかも それがお分かりになったのなら、無茶苦茶なことを書いて噛みついていたお相手のみなさんにお詫びした方がいいでしょうね。そういうのを常識というのです。 (2004年11月22日 10時15分14秒)
ところで、ふつうの日本語で「AはBである」というとき、その内容は形式論理学では「A⇒B(AならばBである)」という形に翻訳されるわけで、「A=B(AはBに等しい)」、つまり「A⇔B(AならばBであリ、かつBならばAである)」とは限りません。「2たす3は5である」のように「2+3=5」になるのは特殊な場合です。
つまり、馬=動物は馬と動物は同じものではないってことは分かりますよん。 >で、「馬は動物である」は日本語の言語規範という共通了解のもとでは、「動物」は「馬」よりも上位の概念ですから「(馬の集合)⊂(動物の集合)」が成り立っており、「馬ならば動物である」は正しい命題(真理)でしょう。ただし、日本語の言語規範という共通了解がないところでは無意味な表現になります 逆にいえば、言語の共通規範がねければ、「馬ならば動物である」ってのは成り立たないじゃないか。論理が成り立つのはその共通の言語規範がある範囲であって、「馬ならば動物」は客観的な根拠をベースにしてなりたってはいない。 ただ、それだけのことでしょう? (2004年11月22日 10時24分03秒)
素ーさん
>k-nanaさん >>脳みその中ではマジメらしいですが、行動はいたって不真面目です(爆) >>というか、行動が伴わせられないっつーか。 >>素ーさんは「求めるレベルが高い」とか言って下さるけど^^; > > 求めるレベルが高くても、三段論法がヒント付きでなかなかでないのでは、不注意ミスが多そうですが。 > 長所と欠点は裏返しなので。 あいたたた スミマセンスミマセン (2004年11月22日 10時29分27秒)
シカゴ・ブルースさん
>simaさん。 > >失礼。言葉が過ぎたようです。 いえいえ、とはいえかなりびっくりしましたけどね。 >>うーん、これはかなり酷いことになっていたかも > >それがお分かりになったのなら、無茶苦茶なことを書いて噛みついていたお相手のみなさんにお詫びした方がいいでしょうね。そういうのを常識というのです。 棘があるなぁ。 ま、悪いのは私なんですけどねw あと、秀氏にもそれ言ってあげた方がいいですよん。どうせ、聞かないでしょうけどね・・・ (2004年11月22日 10時31分59秒)
simaさん。
言語規範の一部であるいわゆるラングは一種の知の体系にもなっているのです。よほど厳密な科学的論議をするのならともかく「馬は動物である」程度の論理ではラングが十分な根拠になるのです。いちいち生物学的知見をもちださなくてもよろしい。これ常識。 それと「客観的」ってどういうことかご自分でじっくり考えてみることをお勧めします。純粋科学以外の分野では一人一人の「主観」と無関係な絶対的な客観なんてないのです。だからといって「客観」がないなんていうようようなら心理学どころかあらゆる自然科学・社会科学・人文科学をやる資格はない。ほかの仕事を探した方がいいです。 きついいい方をしていますが老婆心だとお受け取り下さい。 (2004年11月22日 10時49分20秒)
つまるところ、
3段論法で、A=B、B=C,A=C っていうのは、AとBが同じってことを言っているのではないってことなのかな? 日本語的には、AならばB,BならばC、このときAならばCってことになるのかな? 今一、理解に自信がないので判定していただけるとありがたい。 (2004年11月22日 10時52分39秒)
シカゴ・ブルースさん
>simaさん。 > >言語規範の一部であるいわゆるラングは一種の知の体系にもなっているのです。よほど厳密な科学的論議をするのならともかく「馬は動物である」程度の論理ではラングが十分な根拠になるのです。いちいち生物学的知見をもちださなくてもよろしい。これ常識。 常識って言われてもなぁ。それって思考を途中で止めてるだけじゃないの?まぁ、常識というものはそういうものだとは理解しているが、議論の場で「こんなの常識」っていうのは、議論を殺すことになるよん。 「こんなの常識」「考えるまでもない」ってのは、社会を衰退させる原因だと思うけどね。 余計なお世話かもしれないけど、諫言しておきます。 (2004年11月22日 10時57分48秒)
simaさん。
> 常識って言われてもなぁ。それって思考を途中で止めてるだけじゃないの?まぁ、常識というものはそういうものだとは理解しているが、議論の場で「こんなの常識」っていうのは、議論を殺すことになるよん。 > >「こんなの常識」「考えるまでもない」ってのは、社会を衰退させる原因だと思うけどね。 アホですか。反応する場所が違うでしょ。その前に「十分な根拠になる」って書いてあるでしょう。 > 余計なお世話かもしれないけど、諫言しておきます。 100年早いわ。顔を洗って出直してきな。 ---------------------------------------------------------- 以上2チャンネルモードでお送りしました。以後元に戻ります。 (2004年11月22日 11時04分58秒)
simaさん。
> つまるところ、 > > 3段論法で、A=B、B=C,A=C > > っていうのは、AとBが同じってことを言っているのではないってことなのかな? > 日本語的には、AならばB,BならばC、このときAならばCってことになるのかな? > > 今一、理解に自信がないので判定していただけるとありがたい。 そういうことです。素ーさんも私もそう書いているでしょう? そもそも、 > 3段論法で、A=B、B=C,A=C がおかしい。三段論法はこういう書き方はしないのです。 A⇒B(AならばBである)かつ B⇒C(BならばCである)ならば A⇒C(AならばCである)。 が正確な表現です。 これを集合で表わすと A⊆B かつ B⊆Cならば A⊆C である。 になるわけです。 (2004年11月22日 11時20分15秒)
シカゴ・ブルースさん
>simaさん。 > >> 常識って言われてもなぁ。それって思考を途中で止めてるだけじゃないの?まぁ、常識というものはそういうものだとは理解しているが、議論の場で「こんなの常識」っていうのは、議論を殺すことになるよん。 >> >>「こんなの常識」「考えるまでもない」ってのは、社会を衰退させる原因だと思うけどね。 > >アホですか。反応する場所が違うでしょ。その前に「十分な根拠になる」って書いてあるでしょう。 アホはお前だ。 >> 余計なお世話かもしれないけど、諫言しておきます。 > >100年早いわ。顔を洗って出直してきな。 オマエモナー 以上、2chモードでしたって 馬鹿か? どーして言われたらムカつくことするんだろうね?今ムカついているでしょ? ネットでも、面と向かっていえないことは言ってはいけない。 で、以降ふつーもーど。 十分な根拠になるっていうけどさ、それは厳密には正しいかどうか分からないけど、とりあえず、これで十分って言ってるだけじゃんか。 深く考えなくても、とりあえず論理としては成り立つが、深く考えると分からないっていうべきじゃないの? (2004年11月22日 11時27分48秒)
シカゴ・ブルースさん
>simaさん。 > >> つまるところ、 >> >> 3段論法で、A=B、B=C,A=C >> >> っていうのは、AとBが同じってことを言っているのではないってことなのかな? >> 日本語的には、AならばB,BならばC、このときAならばCってことになるのかな? >> >> 今一、理解に自信がないので判定していただけるとありがたい。 > >そういうことです。素ーさんも私もそう書いているでしょう? > >そもそも、 >> 3段論法で、A=B、B=C,A=C >がおかしい。三段論法はこういう書き方はしないのです。 > >A⇒B(AならばBである)かつ B⇒C(BならばCである)ならば A⇒C(AならばCである)。 > >が正確な表現です。 >これを集合で表わすと > >A⊆B かつ B⊆Cならば A⊆C である。 > >になるわけです。 ----- なるほど、一応、正しく理解できたようですね。 以後は、論理を指すときはこのように理解することにします。 (2004年11月22日 11時29分53秒)
>そもそも、 >> 3段論法で、A=B、B=C,A=C >がおかしい。三段論法はこういう書き方はしないのです。 > >A⇒B(AならばBである)かつ B⇒C(BならばCである)ならば A⇒C(AならばCである)。 > >が正確な表現です。 毒電波サイトから引用なのだが、 「A=B,B=C、ならば、A=C」 ってさ、3段論法ではないかもしれない。 そもそも3段論法って一言も書いていない。僕はこれが3段論法だと思っていたが、 「A=B,B=C、ならば、A=C」 ってわけで、「A=B,B=C」ならば、「A=C」ってだけのことじゃないか? >A⇒B(AならばBである) これとやっていることはまるで同じだと思うのだが、これなら「=」と「→」の勘違いは存在しないことになる。 「A=B」 にしたって、論理について語っているわけではないかもしれないよん。 単純に「=」って記号を考えたときに、AとBが違うものであることは当たり前で、それを同じというところに飛躍と矛盾があると考えれば、別に不思議ではない。 論理について考える、という視点で彼の言うことを見るとき、何か自分が勘違いをしているかもしれないと思うのだが、どうなんだろ? (2004年11月22日 11時58分17秒)
simaさん。
2chモード、おつきあいして下さってどうも。 冷静にお話ししましょうか。 秀0430さんのところで私が三段論法のことを書いたのは、説明をするためであって特定の誰かと議論をしようとしたわけではありません。つまり、「三段論法ってそういうものなのか」と納得していただくことを期待しているわけです。そういうコメントなのにも関らず、simaさんはそのコメントの目的とは関係ないところに噛みついてきたわけ。たぶん「シカゴ・ブルース」という名前に反応したんでしょうけれど。 で、まあ私もその流れにちょっと乗ってしまったわけですが、そこで出てきたのが「客観的」という言葉ですね。 要は客観性のレベルをどこに設置するかということでしょうね。適用範囲といってもいいかもしれません。「馬は動物である」程度の論理であれば、つまり中学生の数学程度ですね。こういうときはラングの体系を根拠にしてもおたがいに了解し合えるということです。それで客観性の要件は満たせる。 (2004年11月22日 12時16分05秒)
――ほんとにわかってなかっただけだったんですねえ。(・o・)
そのサイトの言葉を断片で厳密にとらえるならそう言えるでしょう。 しかし その場合の、サイトの理解は、『こういう言い方がよく使われるけど、いいかげんなもんですよ』 と「素人相手」に語っているわけだ。 そして、ヴィトゲンシュタインなんて学者の名を持ち出す。 どういう頭で書いていようが、結果として「論理なんて嘘だ」と印象付ける「悪意」と同質になってしまう。 先ほどのやり取りについては、ちょっとあとで、出します。 (2004年11月22日 12時18分27秒)
うわ、凄い伸びてる^^;。
simaさん、シェイクダウン・シェイクダウン。 一度深呼吸して落ち着いて、そしてたらこのサイトに素ーさんがちりばめた言葉をぐるりとゆっくり見て回ってきた方がいいですよ。 「人間」命題で某戦闘妖精のインディアンサマーを連想してしまいました<人間を認識しない機械知性に人工心臓を撃たれて戦死するゲストの台詞「ぼくは人間だよな」初めて読んだときはしっかり泣きました。 (2004年11月22日 12時39分20秒)
simaさん。
A=B(AとBは等しい) かつ B=C(BとCは等しい)ならば A=C(AとCは等しい)。 は三段論法の特殊例。推移律というのかな。 つまりね、 三つの異なる物体A、B、C、がある。そこで、それぞれの物体の質量をa、b、cで表わす。このとき、 AとBを天秤に乗せてその質量をくらべたら同じだった。そこでBとCを天秤に乗せてその質量をくらべたら同じだった。 そうすると、a=b かつ b=c であるから a=c と判断できる。 ということです。 同じことを違う表現で素ーさんも書いていますよ。 (2004年11月22日 12時55分12秒)
>要は客観性のレベルをどこに設置するかということでしょうね。適用範囲といってもいいかもしれません。「馬は動物である」程度の論理であれば、つまり中学生の数学程度ですね。こういうときはラングの体系を根拠にしてもおたがいに了解し合えるということです。それで客観性の要件は満たせる。 やっぱり、そこらへんのレベル設定が問題になってしまう。どれくらい厳密にやると、強度の高い客観性を得られるのか?ネットだと、どうも客観性のレベルが上がる傾向があるのかもしれません。 ネットでは文字でコミュニケーションをとりますが、文字は記号に過ぎないから厳密さの度合いが高まる。この辺の話は言葉で話した方が通じやすいかもしれませんね。 >某戦闘妖精 いい話です。インディアンサマーは一番印象に残る話ですねー そういえば、ジャクスンさんも「文字はデジタルで、言葉はアナログ~」みたいなことを言っていたような気がする。 文字がデジタルなら、それが厳密さを求める傾向があるのも納得できるような気がしますな。 (2004年11月22日 13時01分00秒)
シカゴ・ブルースさん simaさん。k-nanaさんに牟田口連夜さん
僕から注意したいけど、このページの[Re[1]:「馬は動物である」(2004年11月21日 19時56分) で書いたように、 シカゴ・ブルースさんの、『ただし、日本語の言語規範という共通了解がないところでは無意味な表現になります。』 というのは、言葉の体系があって、知識と論理があるかのようですね。 これが誤解の元です。 正しくは、 『日本語の言語規範という共通了解がないところでは意味が‘相手に通じません’』 とするべきです。 通じなければ、言葉としての意味が‘ない’でしょうが、生物知識・概念として空中分解しているわけではありません。 全体体系がなくても、知識を積み上げていくことはできる。 全体がうまくできていれば、速く円滑に先に進める。 それが、日記本文で書いた、証明と理解の違い。 理解できなくなっても、証明は残る。そのための証明ですから。 記号によって通じる言葉が「理解」、概念による論理が「証明」。 それは、たとえば、 いい商品をつくっても、使い方がわからなければ商品になっていない。というようなもの。一般の使い方に合わせるまで、商品として未完成だと。 でもそれ自体として製品にはなっている。 商品が言葉、製品が概念。 僕から見て、simaさんとシカゴ・ブルースさんとのやり取りは、 『こんな地図は絶対じゃない。使えない』 対 『地図はまじめにつくったものだ。十分に使える。地図の端に着いてから考えろ』 、で、僕が言いたいのは 『地図がなくても、土地と歩く自前の足は備わっているんだ。地図はそっからできた』 ということ。 (微改訂) (2004年11月22日 13時20分26秒)
simaさん
> ネットでは文字でコミュニケーションをとりますが、文字は記号に過ぎないから厳密さの度合いが高まる。この辺の話は言葉で話した方が通じやすいかもしれませんね。 > >>某戦闘妖精 > > いい話です。インディアンサマーは一番印象に残る話ですねー > そういえば、ジャクスンさんも「文字はデジタルで、言葉はアナログ~」みたいなことを言っていたような気がする。 > 文字がデジタルなら、それが厳密さを求める傾向があるのも納得できるような気がしますな。 ----- お、通じた。フムン。 例えば欧米圏の人に「うま」「ウマ」「馬」と伝えてもそれぞれ正に「記号」としか理解して貰えないでしょうけど、「同じ日本人/日本語系」で生活ないし思考出来る人に向かって「馬」と伝えたとき、馬肉から競馬から騎馬から、受けての知識量に応じて伴う実体には幅があるでしょうけど、鉱物でも植物でもない、動物だよね、という、最大公約数的共通認識を確認した結果、それを肯定できない相手とそれ以上言葉を重ねても、何らかの議題について合意に達するのは困難だよね、と。 議論の前に双方の共通認識確認作業から入らないと。で、馬が動物でない、と返答する人は日本語は理解しても日本語により構築されている知識体系は理解していないと判断せざるおえません。 「ぼくは人間だよな」 (2004年11月22日 15時02分59秒)
その先で、知識体系がどのていど本物なのか疑う、という話になれば、専門の知識体系の話になっていくわけで、 科学とか法律とか。
その場合、語られるのは、専門の概念としての言葉であって、言語記号としての言葉ではない、ということですね。 ま、言葉遊びをしている法律家もいるようですが。 認識限界に到達する場合もあるようですけどね、堂堂巡りでない整理がつけば。 (2004年11月22日 18時15分33秒)
自分も表現間違いをしていた。
「同じだ」、は実質形容詞のように、「⇒」の意味で使われることが多い。 「同じものだ」、と言わないと「=」になりにくい。 文法上はどうなるのか知らないけど、(文法にもよりそうだし)。 基本は国語だな。 日記の冒頭、直しときました。 (2004年11月22日 18時16分35秒)
昼に書いた、
『地図がなくても、土地と歩く自前の足は備わっているんだ。地図はそっからできた』 その延長↓ 地図を使ってまずは進めばいろいろ本物が見えてくる。それを自分の地図に書き加えればいい。 もともと地図とはそういう簡略図なんだ。 言葉もそういうもの。 専門用語で説明できるのは、地図に合わせてつくられた範囲か、用語を使った一種強引な見方でしかない。 ふつうの言葉は、先に進むにつれて少しづつ置きなおされる。だから表現が必要。国語的な表現力あっての論理。 http://plaza.rakuten.co.jp/scland/diary/200311090000/ (2004年11月22日 18時22分46秒)
日記本文後半。
毒電波 → いや、まともな教養サイトのつもりだけど、ただ、凡ミスが多い → いや、わざとだ。 と解釈が変転しましたが、 やっぱり、わざとですね。 まじめにやると、つっ込まれるのがかっこ悪いしわかりにくいので、あいまいな部分は毒電波ふうに解釈しておこうということでしょう。 まじめに引用するもんじゃありませんね。 雑学ネタにはいいし、まともに知ろうとするときには、必要な用語なんかわかって便利なんだけど。 (2004年11月22日 21時34分37秒)
言葉を使えないのですすいません orz。
完全文系人間で、論理とは一番遠いところで生活しています。「理屈」は平気でコネ繰り回すのですのにね。自分の痴性のほどは自覚しているので理論武装に余念のない人生です orz。 (2004年11月23日 00時31分55秒)
牟田口連夜さん
僕も読み返すと、意味をどっちとっていいのかわからないことが多いです。 微妙な部分を、態度表現でごまかすことをよくやってます。 雑学的哲学サイトに対する批判が強いのは、それぐらい当面はやっといた方がいいだろうという、演出です。 (いや、多少勘違いの勢いはあったけど) (2004年11月23日 00時50分46秒)
> 『 「僕は人間である」は、「 『僕』 が 『人間』 というカテゴリに含まれている」という意味だ』
と言い、それを「決め付け」によるものだと言っている。< 改めて見ると面白いですね。 普通に冷静に考えれば「僕は人間である」を100回繰り返してもそれ以上の情報/判断基準はそこにはない、その中で完結させなければいけないことはそれこそ「自明」であるのに、<カテゴリ>とか尤もらしい情報を加えられしかも<決め付け>と思考停止を強制されるとむしろ安心してそれに従い受け入れてしまう心理が働きますね。 詐欺の手法というか、自己責任で思考し判断する困難と重要性と愉しみというか、を示してくれます。イイです。 (2004年11月23日 01時11分23秒)
『僕も読み返すと』は、「僕の文も、読み返すと」です。 「僕も毒電波サイトを読み返すと」と受け取ったのではないですか? ^O^)
---------------- 国語としては、「決められている」でいいものを、自分がのんきに受身だからといって「決め付けられている」にすると、完全なすり替えになります。 まあ、だまされるのは、「君は何も考えていないだろう」+「他人に決められているぞ」+「〇〇という不満があるとき」→「かってに決め付けられているんだぞ」 という話ですね。警告としては、いいけどね。 --------------- 「決め付け」の文にはヴィトゲンシュタインが出てきますが、ひょっとするとヴィトゲンシュタイン自身がそういう表現をしているかもしれない。 というのは、「完璧であること自体が決め付けである」ということです。 これは、完全な完璧とは自閉だ、ということであり、体系を維持するためにどっかで決め付けているはずだ、というのとは違います。後者は一つの方法でしかない。 もし、決めつけというならば、中心に決め付けがあるのでなく、微妙な「調整」のことだと思います。 言葉のひとつひとつが微妙にずれて話せないとか。 じつはヴィトゲンシュタインの論は知りませんが。 この場合、「決め付け」というのは翻訳の問題もありそうで。 (19-20世紀の植民地時代の理論なので、当時の感覚で翻訳されたままとか。 ) -------------- 考えると、哲学ってわずかのミスで毒電波になるものですね。 考えるDNAをいじるものが哲学だとすれば、ちょっとちがうと精神ウイルスになるわけだから。 つまり、快楽的には似たもの同士・・・か (笑) (2004年11月23日 12時39分32秒)
そのサイトで扱っているネタはおもしろいので、いつかやろうと思う。
どんなネタをどれだけ取り上げればまとまった形に編集できるのかわからなくてやらなかったけど、こうまとまってると、あとは読み込みを考証すればいいだけだし、便利だし。 で、しばらく休むかもね。 (2004年11月23日 20時12分06秒)
『これは、完全な完璧とは自閉だ』、ということまでは、論理の哲学だとして、自閉していくものが存在しつづけられるはずはない、というのは前提か常識からくる。
そして、そんなものが(完璧にみえるものが)存在し‘続け’ているのは、隠れた部分で何かの主体――意志とか活動とか――があってそれを支え‘続け’ているに違いない、というのは、論理哲学ではなく、より政治的な推理でしょう。 まだ確認してませんが。 (2004年11月24日 12時40分05秒)
ヴィトゲンシュタインを検索して調べて見た。
つまり、前記と後期に分かれ、 前期では、 『 言葉をきっちり使えば、あとの問題は科学だけだ。 要するに、今までの哲学は、 もともと語りようのないものを語ろうとしていたか、 言葉の錯誤か、 科学の対象か、 のどれかである』 ということを主張したらしい。 後期では、 『言語はただの明晰だけでは、自分語りをしているに過ぎない。 言葉のずれに出会って、他人とのコミュニケーションができるんだ。』 なんとも、常識である。 これは、ずっと後代にいる僕が、彼のおかげをこうむっているということだろうか? それとも、当時の西洋哲学とは、‘科学対哲学’というライバル意識で、華やかに議論をしていたということだろうか? 今となっては、なにを今更?ということだ。 (2004年11月24日 21時23分49秒)
おもしろいものを見つけた。
本気の哲学サイト。 まだほとんど見ていないけど。 『速水 透のホームページ』 -唯物論の立場での諸考察- 『人間は、確かに主観から抜け出すことができない。しかし、それを百も承知で抜け出そう。 唯物論は神を否定するものではない。なんとなれば、宇宙全体が神そのものだからである。』 http://www2s.biglobe.ne.jp/~asanami/index.html 『地獄の箴言』 -正漢字・歴史的假名遣による硬派の言論サイト- http://kimura39.txt-nifty.com/hell/2004/10/post_6.html (2004年11月24日 21時34分31秒)
素ーさん
>おもしろいものを見つけた。 > 本気の哲学サイト。 > まだほとんど見ていないけど。 ----- おー これは美味しそうです。脳みそが喜びそう。 御相伴に与りますどもども。 (2004年11月24日 23時29分01秒) |
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