スクランド日記

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2005年11月13日
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カテゴリ:時代

 ↓追加は行頭に ▲印 1、2


1 便宜的生命観
 
  
 こっちの小学校で「いのちの教育」として行われていることは、
 「殺すことは人権を奪うことなので悪い」ということだと。
 当の教師もそれが命の教育だという気はしてないらしい。

 まあ、それが現実だとは思うのだ。
 権利→平等→相手への想像力、という流れは。

 しかし、それだけで「いのちの教育をした」と呼んでいいものか。 

) わかりやすいというのは条件だろう。それはいい。入り口としてだけわきまえるならいい。
 思いやりの延長、他人の尊重としての命は一応ふつうだ。
 しかし・・‘すべての子がここまでわかる’と言えることが第一なんだろうな、教師は。

) しかし、「人権」という言葉で語る教育プログラムは、教師の教え方が疑わしいだろう。
 「人権⇒権利⇒約束・法律⇒憲法9条のおかげ」 (⇒本当は命に価値はない)、ということに使われそうだ。
 左翼思想でなくても、個人思想として見ても、
 「当人の意識のない時には人権はない」→気がつかなければ騙してもいい、生き生きしてないものを殺しても気がとがめない、という‘感性’に導く。
 まあ現実ではあるが、それを「命を大事にする教育をした」ことにはならない。
 むしろ昨今では、「考えるのはここまでだよ。それ以上の高みは社会で認め合っていないよ。」と世界を塞いでしまうことになりそうな教師も多そうな。
 教師にもよるだろうが、今の「いのちの教育」とは、わかりやすくニヒリズムに導く教育をさせたがっている連中の餌食になっていそうだ。
▲1
 具体的に想像すると、
 「先生がこう言ってる。これ以上のことは生徒同士では語らなくていい。それ以上のことは個人の趣味の価値観だから、お互いに抑えて、先生の言う合理的な範囲だけで世界を考える会話をしよう。」
 ↓
 「みんながこういうことしか語らない。こういうことしか考えていない。人間とはそんなもんだ」
 ――と思い込む子が増えるだろう。

) 「命の教育」と呼べるレベルには、「命そのものが尊いから、一人一人が大事だ――少なくとも、そう公認されている――」、と言うことが必要。 (反日左翼はこの‘公認’部分を‘憲法だけ’に置き換える。)

 まるで宗教理念みたいだから小学生ではまずいかな? いや小学生こそが適応する。
  
 小学生は本来病死率の高いやわな時期で何も教えなくても死を恐れ始める年頃。
 (たぶん、死んでも生き返ると思い込む小さな理由の一つは、死の恐れを忘れたいからだろうが。)
 
 命の尊さという理念に自然に惹かれる時期のはず。
 まあ、現場の教師としては、「食物連鎖や正当防衛や戦争を突っ込まれたら困るから、国内の人権としか言っとけない」 のだと思う。
 だから、大切な気持ちは教師個人の立場で口にするだけがせいぜいで、またそれで充分だと思う。
 大事なのは、生の言葉として「大事だ」「この世には尊いという概念があり、それは人に与えられている」と‘言ってやれる’ことだ。(生徒のつっ込みは気にせずに)

 (--それさえできない教師が多そうな。)

------- 
 ―――こういった考察はふつうは不必要な神経質な考慮だろうが、何か、現代では整えておかなきゃいけないインフラになってきているみたいだ。

―――――――――
 大切さのある世界  
 そもそも「尊い」という観念に相当するものが、現代に「命」の他にあるか? 
 尊いということばを死語(または飾り語)にしているような現象が目立つ。
 人がときに、自分が自分の存在について思うとき、他人が無意味な存在に思えるとき、――命がそれ自体大切でなく生きる時間の道具だけでしかないという感覚なら――、かんたんに絶望するだろう。
 世界に思索を深めるほどにニヒルにさせられる子が増えている、という気がする。
 僕としては、「そこで絶望するのは、個人の問題でなく、人類の絶望を撒くことだ」、と言いたいが。

 そこを超えられる強い個を求めるのが現在の流行思想らしいが、ばかげている。
 それに向いた素質、時間の余裕、のある者は少ない。世の絶望が増えるだけだ。
 世界を壊しておいて、愛情が大切だというふうに、個人に救済させてごまかしているだけだ。
 (世界には、新しくて適度な破壊と再生が必要らしいけどね)

 ごまかしでも無知でもない本物の完全な個人主義であるには、仏教のような修行が必要だろうなと思う。そしてそういう仏教は世を救わない小乗仏教だ。


2 サヨクの捻じ曲げ=性教育 
  
 googleで‘いのちの教育’を調べると、かなりの所で、‘命の生まれる’性教育のこととされている状況らしい。
 つまり、「いのちの教育」という名分で授業時間を使って性教育をしたがっている。 親などには、「いのちの教育」をすることになっていると言って、性教育を国の方針に見せたがっている。ということだろう。

 まったく、サヨク教師というのは、命なんか子どもを洗脳する口実、としか思ってない。こういうごまかしをした挙句が、何かというと「現場重視」というセリフだ。
 こういうやり方からして、彼らの性教育とは、「家庭不用、個人が家庭から自立すべし」 というイデオロギーへの教育だろう。
 こういうことを考えずに嘘の抽象論に引きずられて悩む、まじめで政治音痴な新人教師はお気の毒。

 ちょっと冒頭上げたことだが、こっちの学校で老教師との会話で、「命の教育というのは何かやってられますか?」 「いや、いのちの教育としては、人権として教えています。」 ということがあったのはそういう事情なんだろうな。

<微妙な注意>
 「いのちの誕生に感動する教育」 「生と死の教育」 というものがあってもいい。それ‘も’あるのは自然だ。
 命の価値を感じると、ある面、個人が心理的に独立しやすくなるのも自然だ。頼もしいだろう。
 だが、まずサヨク性教育ありきの本音をごまかした連中が、ほんものの感銘までもっていくはずもない。
 だいたい両親が不仲だったら、性教育は命の大切さにはつながりにくかろう。
▲2
 (中でもジェンダーフリー活動の異常さについては、川崎市の教育を考える会(仮) とか娘通信♪ とかが詳しい。)

 左翼的命の教育 
 ネット観察から、左翼的な命の教育を概観すると、
 他人の命を大切に、→人権⇒憲法9条。
 自分の命を大切に、→性を個人だけのものにして、個人を共同体から独立させる⇒家庭、国の不用化。
 という狙いに見える。
 健全な教育との結果的な違いは、「それ以外は一生考えなくていい」 と思わせてしまうこと。信念としてではなくて、知識として世界の常識に思わせてしまうこと。 そういう浅薄な受け取りをする子が増えている状況のようだ。
 そして、浅薄な約束事として受け取った世界を受け取れば、簡単に絶望しやすくもなるだろう。無力だ。
 (もちろん教師によるが、他の教師も影響があるだろうなあ) 

 もともと無力なことをして、できるだけのことをしているなどと嘘の認識に通じさせれば、その分だけ教育議論が狂って行く。


3 科学と価値  
  
 彼らは科学的と言うことを自慢にしたがるみたいだ。(捏造データもあるが)
 しかし、ならば、「自分は淘汰される側らしい」、と客観的に絶望する現代の少年には何もできまい。
 科学的真理に感動すればすべて片付く、わけではない。
 絶望した科学的認識は、動物と同じとしか言ってやれない。

 いざというときに役立たない知識を教育とは言わない。

 

    (あとで投稿テーマを変えて再投稿します。)
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最終更新日  2005年11月16日 18時02分13秒
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