李白について
李 白 (701-762)
名を白、字は太白、青蓮居士と号した。母が李白の生まれる前夜に、長庚星(太白金星)を夢見たために付けられた名だとされている。杜甫と並ぶ大詩人。にもかかわらず父の名も出自についても明らかでない。『旧唐書』には山東の人とあり、『唐詩選』はこれを採るが、そうではないのは明らか。錦州(成都の北)とも巴西(四川省東部)ともまた西域砕葉(スイアブ・キルギス共和国トクマク)ともいう。李白の同族で、その最後を看取った李陽冰によれば「中葉、罪あらずして、条支に謫居す」とあるが、条支とはシリアあるいはバビロニアのことである。いずれにしろ西域であったようだ。李白の家系については確かな文献も無く、異説も様々あり、定説が無い。一般に信じられているのが隋の末年、先祖が砕葉に左遷されて以来、代々身を隠していたので神龍元年(705年)になって、李白の父が一家を連れて、剣南道綿州に移ったとする説である。
若い頃は剣術を好み巴蜀を遊興していたが、その後江南、更に山東・山西を放浪した末、42歳になって長安に至った。たちまち詩名を博し、賀知章の推薦で玄宗に拝謁し、翰林供奉に任じられたが側近の高力士に憎まれて朝廷を追われ、再び気の向くままに各地を放浪した。その後安禄山の乱が勃発、江陵で安禄山討伐の軍を挙げた永王(粛宗の弟)に仕えるが、永王は粛宗と対立し反逆者として殺され、李白も夜郎に流刑となった。しかし途中で恩赦にあい、また長江を下って金陵・宣城のあたりを放浪していたが、親族の県令李陽冰を頼って当塗に行き、そこで死んだ。酒に酔い、水面に映る月影を捕ろうとして溺死した、と伝えられる。酒と仙を歌い、侠と美女を愛した人柄と詩風から「詩仙」と評される。
出処::レポートサイトHAPPYCAMPUS!