せび邸

2006/06/04(日)19:58

マイ・ライフ・アズ・アザラシ?

私について&やさぐれ日記(42)

↑いやよく意味が分かりませんが。。汗 マイ・ライフ・アズ・ドッグていうタイトルの映画があったなぁと思って。。 タイトルは印象に残ってるんですが、見たことはなかったりします。。 長引く風邪のせいで気持ちが重くなってるから、自分のことでも書いてみようと思ってます。正確にいうと、以前に書いてあったものをUPする感じですが。 ある程度親しくなった人どうしが、お互いの生い立ちについてきがねなく打ち明けあう、というイメージで書いてはみました。笑。 実は、そういうことをできる人が、私にはとても眩しく感じます。 私の場合、けっこう特殊な事情が出てくるので。。 それをせずに人と付き合っていくこと。浅く狭く付き合っていくことがこれまでの私の人生でした。まぁでもちとここで打ち明けてみようかと思ってます。 ここでそういう経験をしておくことで、現実世界での私にいい変化が現れるかもしれないですから。 自分から人に対して作っている壁が、いくらかででも低くなるんじゃないかと期待してます。 人生っていくつかの節目で分割できますよね? 分割の仕方にもいろいろありますが、身分関係に着目するとこんな感じでしょうか。 就学、就職、結婚、離婚、転職。 でもこれじゃ、おもしろくもなんともないですな。。汗 他の基準で分割すると、私の場合、次のような年齢が節目になります。 24。27。35。 このほうが、しっくりくるような気がします。 ものごころついたとき、私は祖父母や叔母(当時未婚)たちと暮らしてました。 で、父や継母も一緒に暮らしてました。 その後記憶が途切れるのですが、ふと気づくと父母から離れて祖父母や叔母と暮らしてました。そして入園時に、祖父母の家から徒歩2分ほどのところに住んでいた父母の住む家に移りましたが、継母と折り合いが悪くて、3年ほどでまた祖父母のところへ戻されました。 私は事情を知らなかったので、情けなくてしかたありませんでした。自分のデキが悪いので親に見捨てられ、祖父母と暮らすしかないのだと思ってました。 私は、24歳になるまで、継母が実母だと思って生きてましたのです。 鈍すぎる、と、自分でも思いますけど、まさかそんな特殊な事情が自分にあるとは思えなかったのです。 ちなみに12,3人いるイトコたちも、わりと早い時期に私の事情を知っていたようです。 今でも腹立たしく思い出せれるのはこの点でして、私の事情でありながら私だけが知らなかったということに屈辱を感じます。そして気づくチャンスがありながら、脳天気すぎて気づけなかった自分が腹立たしいです。 ついでにいえば、近所に住んでる同年代の子供たちも、知ってたんでしょうね。 放課後などに校外でばったり出会った女の子たちが、妙に私に親切だったのを覚えていますから。 私にとって不幸だったのは、私が父方の血ではなくて、母方の血を濃く継いでいたことでしょうか。。父方の血と母方の血は、かなりソリが悪いようです。父方の血は、よくも悪くも単純で鈍感です。また、本心とまるで違うことを親切めかして言える血です。それに対して私は、言っちゃなんですが繊細です。笑。それ以外のことは、20数年間一緒に生活しましたが、よく分かりませんでした。これは、おそらく、私の血と父方の血の相性のせいだと思います。私は幼少期を過ごした社会にまったくなじめませんでした。あるいは血族の誰ひとりとして、私に対して心を開いて接していなかったせいかもしれません。 私が思うに母方の血は、愚直なまでに気持ちを優先するようです。これは一度だけ、母らしき人と電話で話したときに感じました。言葉で説明するのが下手そうでしたが(汗)、それは私にも通じる特徴なのかなと思いました。私は、自分の周りで起こったことを具体的にかいつまんで説明するのがとても下手なのです。 父方の血族に、共感できる人はひとりもいませんでした。腫れ物に接するような周囲の態度にいつもいらだっていました。私はつねに孤独だった気がしますが、世の中みんなそういうもんだと思ってました。継母を実母だと思っていましたから、中学校の作文の課題で母親に関する物語を作れと言われたときも、継母をモデルに話を作りました。 「話としてはおもしろいが、母親と言うものはそんなに冷淡じゃないでしょ? そのへんもう少しリアルに書けてればさらによかった」 なんて先生の感想が書いてあって私は首をひねりました。私にとってそれはきわめてリアルな母親像だったもので。。汗 母親に嫌われ、父親もかばってはくれない状況。実の親に嫌われる人間が他の人間に好かれるわけがない、と思ってました。血族とうまく付き合えない人間が、他人とうまくやっていけるわけがないと思ってました。継母の実家に行くことがあっても、私だけはその実家で誰からも言葉をかけられることはありませんでした。だからよけいに私は父方の祖父母を頼るようになり、継母はそれがおもしろくなくて私につらくあたる、というサイクルだったんだと思います。 継母は親として私にすべきことをいっさい放棄していました。ただ巧妙にそのへんを隠す知恵はある人でした。私がなつかない、言う事を聞かない、ことをよく愚痴ってたようです。 祖父母は私を怒れなかったので(かわいそうな子と思っていたから)、私はわがままに育ちました。誰からも愛されていなかったので、愛することがどういうことなのかさっぱり分かりませんでした。好かれるわけがないと思ってましたから、好かれる努力はいっさいしませんでした。 そんなこんなで実際のところ、社会的にかなり危険な生き物が京都の片隅で育ってました。。汗 他人にいっさい共感できず、自分も世界も愛していない少年ですから。たぶんこれって典型的な犯罪者のプロフィールです。。汗 あるいは「ドニー・ダーコ」のプロフィールですかね。。汗 いくつかの幸運に救われた気がします。 まず、祖父母と叔母たちの存在です。 彼らのおかげで私は継母との隔離された生活を長期間強いられることはありませんでした。 しかし実際は、彼らのおかげで継母との関係がよけいこじれたという側面もあるようです。 どう考えても嫁姑戦争の道具として扱われた、という面があるのです。 例えば私は24になるまで継母を実母だと思っていましたが(あほ)、継母はずっと以前に私が事実を教えられていたと思っていたようです。継母にとって私は、祖母の飛び道具に見えていたのかもしれません。どちらかというと母性や情の発達に乏しい人でしたから。損得計算にはたけた人なんですがね。父はそこに惚れたんだと思いますが、私にとっては実に迷惑な継母でした。 祖父母は家の空いてる部屋を大学生に間貸ししてまして、その大学生たちに私はよく遊んでもらってました。そこで知的好奇心というのもを持てるようになりました。祖父母は犬や魚や鳥も飼ってまして、生き物の死に触れられたことも大きかったと思います。 家の裏山が京都盆地を囲む山々に連なっていたことも大きかった気がします。 いやなことがあっても、ひとたびその山の中に入っていくと、神秘的な世界が私を待っていましたから。木々が太陽を覆い隠し、シダ類しか育たない大きなくぼ地が山の中にありまして、私はそこが好きでした。そこはとっても美しかったし、美しいものに触れると自分の中で視点が動き、問題解決のきっかけを得られるような気がしてました。精神安定剤みたいなもんなんだと思います。 山々に一体感を覚えたり、自然とのつながりを意識したりするという神秘体験も経験したりしてました。言ってみれば「もののけ小僧」ですな。満月の晴れた夜にその山に入ってみたこともありました。山の中は月明かりでも充分に見通せましたが、そこは昼間とは違って色のない世界、モノクロの世界でした。自分の吐く息は犬の息のように激しく短く感じました。見る角度が違うと現実は違って見えるのだ、そう思うと、世界のどこかに自分の居場所があるんじゃないかって気がしました。 小説とかドラマとか映画とかはこの頃から好きでしたけど、家族が題材のものはまったく理解できませんでした。<情>がテーマの場面になると、このひとたちはなにをまだるっこしくて無駄なことをしてるのだろうと思ってました。 これが24歳までの私です。 継母が実の母ではないと知って以来、私の世界は変わりました。 私は血のつながった人間に嫌われていたわけではなかったのです。 実母らしき人からかかってきた電話で、そのことを知りました。実母の親戚周辺に若い関西人が何度か出没し、実母のことを尋ねていったそうなのです。それは私ではなかったのですが、実母は私が何か困っているのかと思い、実母であることを名乗らずに電話番号を調べ、電話してきたらしいのです。 あとにも先にも、そのときしか私は実母と喋っていません。 そのとき教えてもらった電話番号は、手帳に書きとめたのですが、後日その手帳をなくしてしまいました。 こうなると少し後悔してしまうのは、腹違いの弟の眉間についた傷あとなのですが。。 子供の頃、憎しみのあまり私が突然投げつけたグラスによって、ついたものです。 ま、しょうがねぇか。ほんとに憎かったからな。汗。 なぜこいつだけ愛されるのか??ってね。

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