システムエンジニアの晴耕雨読

2008/10/26(日)13:15

ルネ・ジラール「世の初めから隠されていること」その2

哲学・思想(155)

ルネ・ジラール「世の初めから隠されていること」その2  ルネ・ジラール「世の初めから隠されていること」  メモの続き・・   第4章以降  供犠、リンチ・・に対する対応  ・徹底的な消去  ・積極的に認められた消去  ・消去されたものの消極的な暗示的意味(コノタシヨン)   「おめでたい楽天主義や敬虔な祈願などに頼っている場合では絶対にありません。  現実の批判を徹底的に、行き過ぎぐらいに行い、  宗教的文化的な欺瞞を最終的に一つ残らず脱=構築してしまえば、  必ず供犠という手段をどこまでも根こそぎにすることができます。」 「真の人間科学の急激な進展は、われわれを長いあいだ欺きつづけてきた  科学万能主義のイデオロギー的な雰囲気とはまったくちがう、  また19世紀の人間をたぶらかしつづけた素朴なユートピアの実現の予告  ともまったくちがう、根本的に別な雰囲気のなかにわれわれを導きいれます。」  「私は口を開いてたとえを話し、   世の初めから隠されていることを、声を上げて言おう。」              「マタイ、13の35」 「ギリシアの「ロゴス」とキリスト教の「ロゴス」との間には、  現実に本質的な差異がありますが、その差異は必然的に暴力の面にあらわれます。」 ハイデガーは西欧思想において、 「ギリシアの「ロゴス」がすべてであり、キリスト教の「ロゴス」は何ものでもないことを示して、  二つの「ロゴス」の分離に成功しました。  ハイデガーはそれ以降徹底した排除を、ある意味ではこれまでにも徹底していた排除を、  法的に確認したことになります。  なぜなら排除は、キリスト教の供犠の定義にもとづいて、すでに徹底的に行われていたことなのですから。」 「聖書全体を新約聖書に照らして明らかにし、真のキリスト研究に照らして読みなおすためには、  真理の「みことば」(ロゴス)のうちに、人間の手によって常に排除されてきた身代わりの  犠牲者という知恵を認めねばならないという考え方 - と一致します。  こうした認識が得られないかぎり、旧約聖書と新約聖書を統一する客観的な関係を  合理的に理解することは、いつまでたってもできません。」 「私は空疎なことばだけで満足することは拒否すべきだと思います。」  ・フロイトや精神分析学派にとっての 身代わりのヤギである、父親やおきて  ・マルクスにとっての 身代わりのヤギである、ブルジョワや資本家  ・ニーチェにとっての 身代わりのヤギである、奴隷の道徳や他者へのルサンティマン 「欲望とは、人間関係に、もう犠牲者による解決が得られなくなったとき、  したがってこの解決をもたらしうるほんとうに全員一致の一つの極への集中作用が  起こらなくなったときに、やってくるものです。」 「・・暴力の「ロゴス」とヨハネによる福音書の「ロゴス」のあいだに、  人間の利益になるような相関的な連続性が存在することは、たしかに一つの謎、  それも小さいとはいえない謎です。」 これまでしてきた説明は、 「・・いまわれわれに開かれている唯一の道、  だれひとりも排除することもなく暴力にはもう一切にたよることもないような唯一の和解の道を、  だれにもわかるようにするためなのです。」 世の初めから隠されていること

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