カテゴリ:日本史・世界史
二木謙一「戦国武将群雄ビジュアル百科」 ポプラ社 2009年刊 本書も、「立花宗茂」を知りたくて手に取ってもの。 「立花宗茂」の項のサブタイトルには、 「関ヶ原後に返りざいた西国一の勇将」とあります。 ≪大友宗麟の重臣高橋紹運(たかはし じょううん)の長男として生まれる。 秋月氏との戦いで初陣ながら武功をあげた。 この宗茂の働きに、息子のいなかった立花道雪(どうせつ)が養子にほしがった。 道雪の求めに紹運は、最初首を横にふったが、最後はうなずいた。 1581年、宗茂は、道雪の娘◆千代(ぎんちよ)と結婚し、娘婿となって 立花氏の跡をついだのだった。 1585年、道雪が亡くなる。 宗茂は筑前(福岡県)立花城主となり、紹運と大友氏の筑前を守るのだった。 1586年、九州を北上する島津氏の大軍のために、紹運は岩屋城で自害し、 宗茂の弟直次の宝満城も降伏してしまう。 立花城も島津氏の大軍に包囲されたが、宗茂は翌年の豊臣秀吉の九州攻めまで ねばりぬいた。 秀吉から宗茂は西国一の武将とほめられ、その功績から筑後3群をあたえられ、 柳川城主になるのだった。≫ 関ヶ原合戦後の戦後処理で、西軍に加担した大名・武将は約170名を数え、 その多くは改易・減封されたが、その中で、後に大名に復帰できたのは11名います。 しかし、その多くは、大阪冬夏の陣での活躍により、子の代になって 父親の代の旧領を新封・再封されたもので、一代で復帰したのは宗茂ただ一人でした。 その秘訣はどこにあったのでしょうか? 事実としては、 1604年、本多忠勝の推挙で、秀忠の相伴衆の一人となり、 その後、陸奥棚倉に1万石を与えられ、大名に復帰する。 その後、大坂の冬夏の陣で、徳川方として活躍し、 1620年、柳川城と筑後3群が与えられる。 <目次> 【第1部 武将列伝】 津軽為信/南部信直/最上義光/伊達政宗/蘆名盛氏/佐竹義重/佐竹義宣/北条早雲/北条氏政/上杉謙信/ 上杉景勝/直江兼続/武田信玄/武田勝頼/山本勘助/真田昌幸/真田幸村/今川義元/斉藤道三/織田信長/ 森蘭丸/池田恒興/竹中半兵衛/蜂須賀小六/山内一豊/徳川家康/徳川秀忠/酒井忠次/井伊直政/榊原康政 /本多忠勝/大久保忠世/前田利家/柴田勝家/大谷吉継/結城秀康/朝倉義景/浅井長政/豊臣秀吉/豊臣秀 長/豊臣秀頼/石田三成/足利義昭/三好長慶/明智光秀/尼子経久/尼子晴久/大内義隆/毛利元就/毛利輝 元/吉川元春/小早川隆景/清水宗治/福島正則/宇喜多秀家/長宗我部元親/龍造寺隆信/鍋島直茂/立花宗 茂/大友宗麟/島津義弘/黒田官兵衛/黒田長政/後藤又兵衛/加藤清正/小西行長/小早川秀秋/宗義智/尚 寧 【第2部 合戦録】 1542年 月山富田城の戦い/1553年 川中島の戦い/1560年 桶狭間の戦い/1570年 姉川の戦い/1572年 三方ヶ 原の戦い/1573年 小谷城の戦い/1575年 長篠の戦い/1582年 備中高松城攻め/1582年 本能寺の変/1582年 山崎の戦い/1583年 賤ヶ岳の戦い/1584年 小牧・長久手の戦い/1585年 四国攻め/1585年 第1次上田合戦/ 1587年 九州攻め/1590年 小田原攻め/1592~93年 文禄の役/1597~98年 慶長の役/1600年 第2次上田合戦/ 1600年 関ヶ原の戦い/1614年 大坂冬の陣/1615年 大坂夏の陣 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.03.08 12:14:52
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