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システムエンジニアの晴耕雨読

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日本史・世界史

2017.05.04
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カテゴリ:日本史・世界史

宮城谷昌光「三国志読本」

文藝春秋

2014年刊



 全12巻の宮城谷昌光さんの正史「三国志」の完結を記念しての一冊。

 これまでの吉川英治、柴田錬三郎の「三国志」は、『三国志演義』を基にしており、
 
 とても楽しい小説だったが、これらは小説の上に小説を立てたものであり、

 歴史小説ではなく、時代小説になっている。

 そこで、陳寿の『三国志』を基に、歴史小説を書いた、といいます。



「中国古代史入門―どこから学べばいいのか」

 宮城谷さんがどのように、中国古代史の世界に入っていったのか、が実に面白いです(^^♪
 

≪哲学書や倫理書(四書五経)を入門書とするよりも、歴史書であると同時に

 人間学のテクストである『史記』からはじめるのがよい、と私はおもいます。≫

 さまざまな出版社から本がでているが、

≪私がお勧めするのは、やはり原文、注、訳の三つが揃っている本です。

 では、私自身が何からはいったかといえば、朝日新聞社版の『中国古典選』からです。

 当時は箱入りの大きい本で、その巻一の最初の章が「晋世家(しんせいか)」の抜粋です。・・≫



≪朝日新聞社の『史記』はよい本なのですが、あくまで抜粋ですので、さらにその先、

 ということになりますと、

 明治書院からでております『新釈漢文大系』ということになります。

 その叢書は、基本的な中国の古典が網羅されているものでして、ある意味で決定版だとおもいます。・・

 
 ただし、実はまだ刊行中でして、叢書は完成されていないのです。

 自分が生きているうちに完結するだろうか、と心配されている方がときどきいらしゃるほどです(笑)。

 すでに百巻以上でておりまして、朱子の『近思録(きんしろく)』も、王陽明の『伝習録』もあります。

 たとえば、『伝習録』は、幕末のころの志士たちや、大塩平八郎ように朱子学を批判する人

 にとっては必読書だった。

 では、なぜ彼らはそれを読んで過激な行動に奔ったのか。

 いったい何が書かれてあるのか。

 人聞きではなく、自分で実際に読んでみることが、大切だとおもいます。

 どこかで入り口がみつかりますと、中国史、中国学というのは、『新釈漢文大系』のように、

 十年や二十年ではなく、四十年、五十年単位で楽しめる大きな世界なのです。≫





<目次>
自作解説 三国志の世界
(『三国志』の沃野に挑む―大歴史絵巻の豊穣なる世界
曹操と劉備、三国志の世界―正史からみえてくる英雄たちの素顔
『三国志』の可能性―歴史は多面体だからこそおもしろい
『三国志』歴史に何を学ぶのか―構想十年、執筆十二年の大長編を終えて)
対談 歴史小説を語る
(水上勉―歴史と小説が出会うところ
井上ひさし―歴史小説の沃野 時代小説の滋味
宮部みゆき―「言葉」の生まれる場所
吉川晃司―我々が中国史に辿り着くまで
江夏豊―司馬遼太郎真剣勝負
五木寛之―乱世を生きるということ)
講義&対談 中国古代史の魅力
(中国古代史入門―どこから学べばいいのか
白川静―日本人が忘れたもうひとつの教養
平岩外四―逆風の中の指導者論
藤原正彦―英語より『論語』を
秋山駿―春秋時代から戦国時代へ
マイケル・レドモンド―碁盤上に宇宙が見える
項羽と劉邦、激動の時代―ふたりを動かした英雄たちと歴史的必然)






最終更新日  2017.05.04 09:14:57
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2017.05.03
カテゴリ:日本史・世界史

井波律子「三国志名言集」

岩波書店

2005年刊


 

桃園結義・・

≪同年同月同日に生まるるを求めず、

 但だ同年同月同日に死せんことを願う。≫ 



曹操評・・

≪子(し)は治世の能臣(のうしん)、

 乱世の奸雄也。≫



曹操が董卓暗殺に失敗し逃亡途中でつかまった時、関所の役人に言った言葉・・

≪燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや。≫

 小人に英雄の志などわかるはずがない。



水鏡先生が、不遇続きの劉備に言った言葉・・

≪伏竜・鳳雛、

 両人の一(いつ)を得れば、

 天下を安んず可し。≫



孔明を得た劉備の喜び・・

≪吾れ孔明を得たるは、

 猶(な)お魚の水を得たるがごとし。≫




荊州を得た劉備へのアドバイス・・

≪馬氏の五常(ごじょう)、

 白眉最も良し。≫

 馬氏の五常のうち、白眉(馬良、あざなは季常)がいちばんよい。



 後半は、「出師の表」が紹介されています。




≪死せる諸葛、

 能く生ける仲達を走らす。≫





<目次>
1 得て何ぞ喜ぶに足らん、失いて何ぞ憂うるに足らん
2 忠言は耳に逆らう
3 酒に対いて当に歌うべし。人生幾何ぞ
4 既に隴を得て、復た蜀を望まんや
5 竹は焚く可くも、其の節を毀つ可からず
6 天数 茫茫、逃がる可からず






最終更新日  2017.05.03 23:02:29
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2015.05.31
カテゴリ:日本史・世界史

【楽天ブックスならいつでも送料無料】「幕末大名」失敗の研究 [ 瀧澤中 ]
瀧澤中「幕末大名」失敗の研究 (PHP文庫)

2015年刊





 超日本型政治家・阿部正弘・・

≪「阿部正弘は実によく人の話を聞く男だが、自分の意見というものを

 述べたことがなかった。

 ある人が不審に思ってそれを阿部に問うと、阿部は笑って、

 『自分の意見を言って、もし失言だった場合、それを言質にとられて

  職務の失策となる。だから、人の言うことをよく聞いて、善きを用い、

  悪しきを捨てようと心がけている』と答えたという」松平春嶽『雨窓閑話稿』≫


 しかし、ペリー来航・・

≪「何もしない」ことで政治を動かす。

 「不作為の政治」の名手でもあった阿部の政治手法が、この場合には災い
 
 したというべきである。≫


≪彼らがやったのは、結局のところ人事異動による対応であって、

 組織そのものを改編するには至らなかったのである。≫



≪幕末の政治状況は、複雑である。

 しかし、そこに属した者を思想的な派閥に分けると、意外とわかりやすくなる。

 まず、幕府を助け、現在の幕藩体制を維持する、という佐幕最右翼は、

 井伊直弼。
 
 幕府は助けるが、大幅に政治体制を変える、という佐幕左派に、

 幕臣、勝海舟や土佐藩の山内容堂・・≫ら。

≪幕府とはケースバイケースで協力しながら、権力獲得を目指す攘夷右派の

 薩摩藩。

 幕府と距離を置き、必要なら幕府の手先を殺し、攘夷を実行する。

 攘夷最左翼の長州藩や水戸藩士。≫

  
 戊辰戦争直後は、佐幕左派が、攘夷右派の薩摩藩に敗れたといえる。




 徳川慶喜という問題・・

≪・・筆者は慶喜の政治的信頼感のなさ、

 言い換えれば誠実さの欠如について指摘したい。≫

≪慶喜が個人として有能であったことは間違いない。

 しかし、騙し合いの代名詞のように言われる政治の世界でも、

 「誠実さ」がない人間は絶対に大きな仕事を成し遂げられない。

 「この人についていくと、途中でハシゴを外されるのではないか」

 と思えば、誰も従わなくなるのである。≫



 西郷隆盛の南洲遺訓にも、

≪制度やしくみより、まずは人物である。

 指導者が立派であれば、制度はうまく回る。

 指導者がだめならば、いくら良い制度をつくってみたところで

 意味がない、というのである。≫




<目次>
第1章 徳川幕府が気づかなかった売国への道―井伊直弼と田中角栄(田中角栄を唸らせた、北京の宿舎
敵の敵は味方 ほか)
第2章 生き残った山内容堂、殺された坂本龍馬(「兵隊やくざ」と「ノブレス・オブリージュ(高貴なる責任)」
遠山の金さんが見つけた土佐藩江戸火消し ほか)
第3章 「真珠湾攻撃」なき戊辰戦争で失敗した、松平容保(京都守護職という「銃座」
京師の地を死に場所としよう ほか)
第4章 西郷隆盛にとっての、「島津久光」という失敗(西郷の「田舎者」発言に憤然とする久光
君主であることを忘れ、家臣であることを忘れ ほか)
第5章 水戸藩と長州藩、維新さきがけの組織疲労(組織維持のコツは「倦まずたゆまず」
指導者として最低限持たなければならない条件 ほか)






最終更新日  2015.05.31 21:55:34
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カテゴリ:日本史・世界史

【楽天ブックスならいつでも送料無料】「戦国大名」失敗の研究 [ 瀧澤中 ]
瀧澤中「戦国大名」失敗の研究 (PHP文庫)・・本能寺の変後の織田家重臣の明暗

2014年刊




 本能寺の変後の、織田家重臣の明暗・・


 そもそも、秀吉が「人たらし」になった理由・・

≪武家としての背景がなく、独自の家来も持たず、一兵卒から叩き上げた

 秀吉の出世術の一つは、織田家の中に、自分に好意を持つ人々をつくっていく

 ことであった。≫

 秀吉は、槍働きの代わりに、「人たらし」を自然と身につけたが、

 それが政治力を高め、絶大な力となった。

 特に、さまざまな普請を通して、商人たちには、「秀吉についていると

 商売になる」と思わせ、利益供与を行うことで分厚い人脈ができた。

 
 一方、

 柴田勝家も、面倒見の悪い男ではなかったが、秀吉のような大名や土豪から、

 文化人、商人たちに及ぶ人脈はなく、結果、資金がなかった。


 もともとは信長子飼いの佐久間信盛が追放された理由は、

「(所領を増やしてやったのに)新しい家臣を雇うこともなく、

 その所領を金銀に換えるとは何事か。言語道断だ」

 という、ダメ管理職の典型のような態度にあった。



 そして、本能寺の変・・

≪もちろんどの織田家重臣も信長の死で背景を失うが、しかし自分で人脈をつくり

 政治力を蓄えてきた者とそうでない者の差が、背景を失った瞬間に出る。≫






 関ヶ原の合戦や大坂夏の陣での教訓・・

 五奉行のうちの一人、増田長盛は、関ヶ原の合戦において、

 西軍にいながら、家康に内通するも、

 戦後裏切りを認められず、幽閉され、息子の盛次が父の汚名を晴らすべく

 大阪城に入城したことを知り、自害する。

 この長盛の生き方に対して、瀧澤さん、手厳しいです。

≪増田長盛の内通行為を「生き残るため」と弁護するならば、筆者は、

 「生き残るためならば死ぬ気で戦うべきだった」と言いたい。

 命や家を護るのに命を賭けないということが、はたして戦時に可能なのか。

 増田長盛や毛利輝元を見れば、すでに出ていると言えよう。≫


 関ヶ原の合戦後、大阪城に籠城していれば、秀吉子飼いの武将は

 秀頼に刃向うことはなかったろう。

 立花宗茂は主張したが、毛利輝元以下が拒否した。

≪要は籠城の決断力の欠如と、そしてそれを指揮する指揮官の不在によって、

 これは選択されたなかったのである。

 戦わなかったがために追いつめられた例は、歴史上いくらでもある。≫


 



<目次>
第1章 武田勝頼の致命傷
第2章 足利義昭のしぶとい首
第3章 織田家臣団の有能ゆえの危険な未来
第4章 あり得なかった関ヶ原合戦の計算違い
第5章 なぜ秀頼は豊臣家を守れなかったのか
終章 政治力はいかにしてでき、いかにして失うか






最終更新日  2015.05.31 20:34:37
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2015.05.30
カテゴリ:日本史・世界史

河合敦「関ヶ原 敗者たちの復活戦」

グラフ社

2009年刊



 以前追っかけていた?!、立花宗茂つながりで手に取った本。

 関ヶ原の合戦後、西軍についた大名の多くは、改易・減封されますが、

いったん改易された後、復活を果たした大名が、数少ないもののいました。

 その理由を探っていますが、現代の左遷人事など不遇期の過ごし方の

参考になると思っています。


 立花宗茂の場合・・

≪力を蓄えた牢人時代≫があった、といいます。

 牢人時代の≪この間、彼は単に徳川家に御家再興を懇願するばかりではなく、

 余暇を利用して自分のスキルを、驚くべき速さで向上させていっている。

 宗茂は牢人時代に、中江新八や吉田茂武(しげたけ)から弓術の免許を受けた

 ことがわかっている。

 また、妙心寺の了堂宗歇(りょうどそうけつ)に帰依して、禅の修行にも

 励んだとされる。

 このように、心身ともに鍛え、己を磨いているのである。

 
 もともと宗茂は、丸目蔵人頭長恵(まるめくろうどのとうながよし)から

 剣術の免許を得ており、剣の達人でもあった。

 さらに後年の記録によれば、連歌や茶道、香道、蹴鞠(けまり)、狂言

 などに通じていたことも判明しており、おそらくそうしあ文芸・遊芸に

 磨きをかけたのは、この牢人時代だったと思われる。


 自暴自棄にならず、心身の鍛錬に励んだ宗茂。

 結果としてそれが彼自身の器を大きくし、将軍秀忠や家光の信頼を

 勝ち得ることになっていくのである。≫


 つまり、「武のスキル」・・宗茂自身、数々の戦いで戦功を挙げ、

 なおかつ、軍略や戦術など深い軍事知識を有していたこと。

 それに加え、「武のスキル」だけでなく、「文のスキル」である連歌や茶道、

 香道、蹴鞠(けまり)、狂言に通じていたことで、

 平時置いても重宝されたといえる。

 さらに、宗茂の性格は、裏表がなく、人に愛される性格であった。

 結果、余人を持ってかえがたい人物となった。

 ・・これが、宗茂復活の秘訣かもしれません。



【中古】 関ヶ原敗者たちの復活戦 /河合敦【著】 【中古】afb

<目次>
いぶし銀の粘り強さ築城の名手 丹羽長重
ナンバーワンに執着した猛将茶人武将 上田重安
武を捨て、風雅に生きる歌人大名 木下勝俊
十数年の努力で復活した粘り勝ちの男 岩城貞隆
旧領を上回る石高で復活した奇跡の男 新庄直頼
三天下人に抜擢されたできる交渉人 滝川雄利
コネに翻弄された水軍の一族 来島康親
己の矜持を貫く不敗の名将 立花宗茂







最終更新日  2015.05.30 11:59:22
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2015.04.04
カテゴリ:日本史・世界史

【楽天ブックスならいつでも送料無料】ミシュレ伝 [ 大野一道 ]
大野一道「ミシュレ伝 1798‐1874―自然と歴史への愛」

藤原書店

1998年刊



 ジュール・ミシュレは、1798年8月21日、パリ、
 
 トラシー街16番地に生まれた。

≪ジュールは洗礼を受けていない。

 革命の余波さりやまぬ当時、すべての教会は閉鎖されていて、

 翌1799年12月にならなければ開かれないからである。≫

 幼児洗礼を受けられなかったことが、ミシュレの宗教観に、
 何か決定的な影を投じている。

 また、父親は印刷所を営業していたが、1812年、ナポレオンの政令
 により、活動停止に追い込まれる。
 反政府的な言論活動を少しでも抑圧したいナポレオンの意向により、
 一家は収入を断たれ、困窮に陥る。

≪貧しく育ち、革命の理想を父からたたき込まれていたミシュレが、
 めぐまれない人や、時の王政復古という反動政権に反抗する人々に対し、
 深い共感を抱いていたことはまちがいない。≫



≪歴史教師とは、自分として新しい見方なり事実の発見をすることなく、
 これまでに分かっていることを、分かりやすく生徒に伝える働きをする人間と考えよう。

 歴史研究家とは、何らかの個別事項に関して新しい見方なり発見なりをした人、
 あるいはなそうと日夜努力している人と考えよう。

 歴史家とは、独自の世界観のもとに人間の歴史全体の意味なり意義なりを
 説くことのできる人と考えよう。≫ 

 ミシュレの中には、この3つが併存していた。
 
 社会的には、教師でありながら、研究活動を行い、やがて歴史家となった。 
 

 
 『フランス史』の「序文」にて・・

「私はヴィーコのみを師としていた。

 生きた力に関する彼の原理、人類は自らを創造するというその原理が私の本と教育とを
 作った」

「彼はデカルト主義を攻撃した。

 単にそのドグマチックな部分のみではなく・・その方法に関してもである。」

 デカルトは、「歴史の研究を嫌悪し、人類の共通感覚を軽蔑し、個々人の知恵に
 ゆだねられるべきものを技法へと還元することにこだわり、
 幾何学的方法を、厳密な証明を含むことの最も少ないものごとにも適用しようとした等
 を攻撃した」

「しかしヴィーコはデカルト主義の恩恵も認めていて・・
 
 『われわれは真実の判定基準を個々人の感覚においたデカルトに多くを負っている』

 とも述べている。」

 つまり、デカルトは、中世的な呪縛を断ち切り、自己の頭で自由に考えて真偽を判定する
 近代的精神を生み出した点で、絶大なる功績を持っている。

 しかし、純粋意識の絶対化をはかることになったため、
 歴史性、つまり物事の時間内での生成という現実を見失い、個々人を超え、ある種共通の
 感覚をもって人類が集団として生きているという現実も見失ったという点を、
 ヴィーコは認めなかった。

 ミシュレは、ヴィーコとの出会いを通して、歴史家の世界観を手に入れた。




 『世界史入門』のおいて、

「この小さな本は」「世界の歴史を、自由を求める戦いとして、運命的世界に対する自由
 の不断の勝利として、要するに永遠の7月(革命)としてながめるものだった。」


 『フランス史』においては、

 ミシュレはフランスを「一人の人として眺めた」

 つまり「フランスがフランスを作った」のであり、
 「フランスは自らの自由が生み出した娘」だからである。



 
 「進歩は決して持続した直線的なものではない。
 
  それは螺旋状の線を描いている」
 
 歴史は、前進と後退を繰り返しながら、

 しかし長い目で見れば、何らかの方向・・自由と平等へと動いている。




 「しっかりした学識の上に乗った想像力」・・これがミシュレの特色だった。




<目次>
少年ミシュレ―『覚え書』を中心に
青春の肖像―初期の『日記』を中心に
若き教師の歩み
歴史家として立つ
『フランス史』の世界―(中世
ルネサンス以降)
栄光への道の陰で
危機を越えて原点へ―「民衆」の発見
革命、この永遠なるもの―『フランス革命史』を中心に
騒乱の中で恋が…そして新しい生へ
大いなる自然の発見
歴史と自然とを結んで―晩年の日々






最終更新日  2015.04.04 09:40:38
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2015.04.03
カテゴリ:日本史・世界史

《みすず書房》フィリップ・アリエス 杉山光信訳歴史の時間 【中古】afb
フィリップ・アリエス「歴史の時間」

訳 杉山光信

みすず書房

1993年刊



 冒頭にあるロジェ・シャルチェによる解説「歴史との親密さ」より。

≪1954年、この書物があらわれたとき、フィリップ・アリエスは40歳であった。

 職業としては、1943年にかれが入った熱帯果実についての研究所の資料センター

 の責任者であった、≫

 そのため、アリエスは、『日曜歴史家』を自称した。




 1954年時点の、アリエスの主張は、当時としては珍しいものでした。

≪歴史学を「史実についての客観的な知識」として定義するのではなく、

 「諸構造の科学」と定義すること。

 歴史学の企てを、政治や軍事にかかわる史実と同様に、

 経済や社会にかかわる現象などの歴史の史料の全体を組織することで、

 一つの全体史の企てと性格づけること。

 歴史家はそれぞれのものの感じ方の背後にある「心性の構造」を見つけだすために

 史料にたいして「精神分析」をすべきであると主張すること。

 「相互に他に還元できない閉じた全体的な構造」間での比較のなかにしか

 歴史学は存在しないとすること。≫




 アリエスは、「歴史との親密さ」を主張した。

 それまでの歴史学から「歴史との親密さ」を取り戻すためには、

「自分の文化、自分の時代、自分の家族の外に存在したものを理解しようという

 関心、差異への好奇心なのである。

 そこに、他者と対決することなしにはアイデンティティはないし、

 現代と出会うことなしには生きた伝統はなく、

 歴史の非連続の理解なしには現在の知性はない」と指摘した。

 



<目次>
第1章 子どもが歴史を発見する
第2章 マルクス主義の歴史学と保守の歴史学
第3章 現代の人間の歴史への参加
第4章 歴史を前にしての態度・中世
第5章 歴史を前にしての態度・十七世紀
第6章 「学問的」歴史学
第7章 実存的な歴史学
第8章 近代文明のなかの歴史学






最終更新日  2015.04.04 00:01:47
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2015.03.22
カテゴリ:日本史・世界史

【楽天ブックスならいつでも送料無料】【まとめ買いでポイントアップ_KDKW】立花宗茂「義」という生き方 [ 江宮隆之 ]
立花宗茂 「義」という生き方 (新人物文庫)

江宮 隆之

KADOKAWA/中経出版

2014年刊



 宗茂の誕生年月、場所とも諸説あるが、

 永禄10年(1567)8月18日生まれ、

 豊後国国東(くにさき)郡筧(都甲荘筧城。大分県国東郡安岐町(あきまち))

が有力である。

 宗茂と名乗ったの時代は晩年の一時期のみと短く、

 統虎、鎮虎(しずとら)、宗虎、正成、親成、尚政(なおまさ)、俊正、経正、

 信正、立斎などと次々に諱(いみな)を変え、その数は十にも及んでいる。




 下剋上の戦国の世の中で、

 ≪おそらく最も武人としての節を通して生き抜いたのが、立花宗茂であったろう。

 宗茂は「武将」として卓抜した采配を振るい、その実力を遺憾なく発揮し、

 さらには表裏のない人柄と生き方とによって、味方ばかりか敵方の武将までも魅了した。≫


 その宗茂の節を通す生き方は、義父と父より受け継いだものであった。

≪斜陽であっても大友家を最後まで守る。

 これが道雪と紹運の決意であった。これは、主君の「恩」に「奉公」という形で報いる、

 という九州の武将に残っていた鎌倉時代的な士風がその根底にあったからである。≫


 そして、このことは、

≪最も苦難の中にあった主家・大友家を見限ることなく、大義に生きようとした宗茂を、

 太閤秀吉は最大に評価した。

 秀吉が知った「宗茂像」は「律義で誠実、勇気があって知謀にも優れている」

 というものであった。≫

 「立花宗茂、その忠義は鎮西一、その武勇また鎮西一」






 また、宗茂にとって、関ヶ原の合戦で改易後の浪人時代から大名復帰までの時期が

 最も苦しい時期であった。

 ≪こんな宗茂から、現代人の我々が学ぶことができるのは、

  決して諦めないこと、

  今の不遇を嘆かないこと、
 
  やる気を失うことなく常に前のみ見て生きること

 (これは希望を持つという人生の原点でもあるが)、この三点に他ならない。≫


≪人はどんなふうに生きたらいいのか、それを、宗茂の浪人時代が教えてくれる。

 不遇な時期を経験して再生した男は、人間としてさらに成長し、その後のステップアップに

 役立つことになる。いわば、プラス志向で生きることが、さらなるプラスを呼び込むという

 ことである。≫



 関ヶ原の合戦で西軍について再登用された大名は宗茂しかいないといわれているが、

 実際には他にもいます。
 
 陸奥中村・相馬義胤(6万石→嫡男・利胤に陸奥中村6万石)

 越前大野・織田秀雄(5万石→扶持米3000俵)

 加賀小松・丹羽長重(12万5千石→陸奥白川10万石)

 磐城平・磐城貞隆(10万石→信濃川中島1万石)

 筑後内山・高橋直次(1万8000石→常陸柿岡5000石)

 伊勢神戸・滝川雄利(2万石→常陸片野2万石)

らであった。

 このうち、高橋直次とは、高橋家(紹運)のあとを継いだ宗茂の実弟であった。


 陸奥中村・相馬義胤(6万石→嫡男・利胤に陸奥中村6万石)

≪関ヶ原の戦いでは大坂に嫡子・三胤(蜜胤・利胤)を残し、自らは所領の守りを固め、政宗に相馬領を通過させた。
 義胤の娘は岩城貞隆の正室となっており、相馬、岩城、佐竹は連帯している。
 慶長7年(1602年)、牛越城下において相馬野馬追のさなかに義胤に対し、関ヶ原で徳川方に与しなかったとして
 改易されたものの、蜜胤の訴訟や本多正信の説得などがあり、
 同年10月、嫡子をもって相馬氏による三郡の再統治を認められた。≫



 河合敦『関ヶ原敗者達の復活戦 負けてもなお生き残る人物とは』グラフ社、2009年
 
も、読んでみたい。


<目次>
序章 「義」の人・立花宗茂
第1章 かくあるべき幼児教育
第2章 一人娘の婿養子
第3章 二人の父
第4章 秀吉と柳川一三万石
第5章 文禄・慶長の役
第6章 ◆(ぎん)千代という生き方
第7章 関ヶ原合戦
第8章 家臣団の苦労
第9章 大名への復帰
終章 最後の武人






最終更新日  2015.03.22 08:42:29
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2015.03.21
カテゴリ:日本史・世界史

【送料無料】 名将言行録 現代語訳 講談社学術文庫 / 岡谷繁実 【文庫】
立花宗茂・・名将言行録 現代語訳 (講談社学術文庫)

岡谷繁実

訳 北小路 健、中澤 惠子

2013年刊



 立花宗茂の章・・


≪宗茂の人柄は、温純で寛厚で、人徳があって驕ることがない。

 功があっても自慢することがない。

 人を使うのも、おのれの意にしたがってしかも自然である。

 善にしたがうこと、あたかも自然の流れのようである。

 佞人(ねいじん)(口先上手なゴマすり人間)を避けて遠ざけ、

 奢侈を禁じ、民に対しては撫するように恩を与え、

 士を励ますには義をもってした。

 そのために士はみな、宗茂の役にたつことをしようと楽しみにした。

 その用兵ぶりは、奇襲といい正面攻撃といい、いずれも天性の妙を

 発揮した。ゆえに、攻めればかならず取り、戦えばかならず勝利を得た

 のである。≫



 関ヶ原の合戦で西軍についたため改易されたものの、

 徳川秀忠に認められ、陸奥の棚倉の大名に復活し、その後、

 旧領の柳川城主に返り咲きます。

 その理由を、秀忠はこう述べています。

「以前に僻遠の小邑に封じて置いたが(関ガ原の合戦ののち三年間、

 宗茂は陸奥棚倉に移されていた)、それに対して怨みもせず、

 いかりもせず、ただただ義命に安んじていたことは、

 まことに満足に思っている。それゆえ、このたび柳川の旧封を授けるから、

 ますます武備を修めよ」

 それに対して、宗茂は、落涙してその恩を深く感じた。


 また、宗茂自身、敵になりながら復活できたことをこう振り返り、

 家中のものたちに訓戒しました。

「しかし考えてみると、一つに当家の武勇が道雪以来、世に恥じることがない。

 これらのことなどをご賞玩(しょうがん)あったせいでもあろうか。
 
 そうだとすると、今後はいっそう上下ともに武備を忘れてはならぬ」



 立花家の家風・・

「戦は兵数の多少によるのではない。一和にまとまった兵でなくては、

 どれほど大人数でも勝利は得られないものだ。

 道雪以来わしにいたるまで、少人数をもってたびたび大勝利を得た。

 これは兵の和による。その一和の根本は、日ごろから心を許しあって

 親しんでいることによって、ただ一言によっても身命を捨てるのだから、

 大将たる者は心得ておくべきことだ」




 現場主義・・

 天正二十年(1592)四月、征韓の役にて、

 宇喜多秀家が諸将を集めて軍議を開いた際、

 秀家が、「それは太閤にうかがってから出発することにするか、

 それともうかがわずに出発するか」と問うた。

 福島正則と加藤清正はそれぞれ意見があわない中、

 小早川隆景が宗茂に意見を求めたところ、

「拙者はかつて”将在軍,君命有所不受(※1)”(将が戦場に臨んでいるときは、

 君命を受けずに行動することもある)ということばを聞いたことがあります。

 いま、海を渡って兵をだしているというのに、事ごとに内地におられる殿下に

 うかがいをたててから事にあたろうとすれば、おそらく時機を失ってしまいましょう。・・」

 (※1)『史記・孫子呉起列伝』の言葉




 宗茂の謙虚さ・・

「数年いろいろと試してみるが、人間というものは、戦場での働きについては、

 後になるとたいそう飾り立てて申したがるものだ。

 それは、われながら少し働きが足りなかったと思えばこそ、

 なお大袈裟にいいたがるのであろう。

 まだ働きが足りぬと思うのであれば、それはまことの侍の道を知っている者だ。

 少しの働きを大きく自慢することの多いのは仕方のないことだ」


≪小瀬甫庵が『太閤記』を編輯(へんしゅう)するとき、宗茂に「貴殿の記録を」と求めた。

 宗茂は笑って「拙者のしたことは天下の公論に基づいたもの。

 どうして名をあげるために、その功績を記録するようなことがあろうか」といって、

 何も与えなかった。≫






<目次>
北条長氏(早雲)
太田資長(道潅)
山中幸盛(鹿之助)
毛利元就
武田晴信(信玄)
上杉輝虎(謙信)
直江兼続
織田信長
柴田勝家
池田輝政
蒲生氏郷
島津義久
伊達政宗
戸次鑑連
高橋鎮種
立花宗茂
豊臣秀吉
黒田孝高(如水)
福島正則
加藤清正
真田幸村
徳川家康






最終更新日  2015.03.22 08:00:07
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2015.03.14
カテゴリ:日本史・世界史

【新品】【2500円以上購入で送料無料】【新品】【本】孤闘 立花宗茂 上田秀人/著

上田秀人「孤闘―立花宗茂」

中央公論新社

2009年刊


 これまで読んだ「立花宗茂」像とは、一線を画した解釈でした。


 女城主だった妻・◆千代(ぎんちよ)との確執の本当の理由はどこにあったのか?

 高橋家の長男でありながら、戸次(立花)道雪の養子になったのはなぜか?

 ただ単に、道雪から懇請されたからというのはあまりにナイーブではないか?


 その仮設は、道雪が好きな人にとっては、不愉快な解釈かもしれません。



 家康などと同じような境遇にあった宗茂に対して、側近はこう言います。

「さよう、父上である高橋鑑種さまよりも、道雪どのよりもすぐれた将となりなされ。

 それしかございませぬ。」


 逆境からスタートした宗茂ですが、タイトルが示すとおり

 孤軍奮闘する中で、部下や領民を味方につけ、

 敵からも一目も二目も置かれる存在になることが、

 自分自身を活かす道であることを理解して悪戦苦闘します。

 それは、常に、寡兵を持って大軍と戦う「負けない」戦いの繰り返しでした。

 のちに、「立花が関ヶ原に参加していれば、負けていた」と家康にいわしめましたが、

 宗茂に率いられた立花の三千は、他の大名の一万の兵に匹敵するといわれる

 少数精鋭部隊でした。

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最終更新日  2015.03.14 08:21:17
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