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2009.10.31
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カテゴリ:歴史と文化
 大阪城公園内から、戦国時代の遺跡が発見され、これが有名な石山本願寺である可能性が高まっている。浄土真宗の本山であり、拠点でもあった石山本願寺は、寺院様式の城郭建築であったとされる。織田信長と対立して、10年戦争を繰り広げたことで、戦国史に名を残している。信長との和睦の後、石山本願寺は炎上したと記録されている。秀吉は大阪の地の利に目をつけて、本願寺跡に大阪城建築を命じた。秀吉の大阪城は難攻不落の城として、大坂の陣まで存続していくことになる。
 浄土真宗は、戦国武将や他の寺院などと対立を繰り返してきた。特に、織田信長とは長期にわたり、激しい戦いを続けてきた。信長が近畿地方に勢力を拡大し続ける中で、唯一本願寺勢力だけは屈服しなかった。それには、本願寺信徒たちの身を捨てての参戦があったからだろう。大阪は海運の中心にあり、中国地方や四国九州などに航海できる。堺や博多と並ぶ商業の中心地を形成できることを認識した信長は、本願寺顕如に大阪退去を求めた。これが戦いの導火線になった。 
 戦国時代の本願寺は、戦国武将と互角に戦える武器と兵を擁していた。周辺を戦国大名に包囲されていた信長は、本願寺勢力との直接の対決を避けて、和平工作によって支配下に置こうと試みたが、本願寺顕如は毛利や武田と同盟することで信長に対抗できると考え、全面的な戦いを挑むことになる。信長は北陸地方の本願寺勢力を滅亡させ、石山本願寺を包囲する。毛利水軍との戦いに勝った織田勢は、石山本願寺への兵糧の運び込みを切断することに成功した。不利を悟った顕如は1580年に大阪退去を認めることになる。1570年に信長との戦いを始めてから、多大な犠牲を出した後の和睦だった。発見された石山本願寺跡は歴史の貴重な証人になるだろう。





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Last updated  2009.11.02 08:06:57
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