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歴史と文化

2010.04.25
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カテゴリ:歴史と文化
 歴史上、黒海艦隊を設立したのはロシア帝国であり、軍港セヴァストポリは、黒海艦隊の母港として機能してきた。ロシア帝国の滅亡、ウクライナ共和国の消滅、ソビエト連邦の解体によって、黒海艦隊は消滅の危機に何度も立たされた。ところが、そのたびに政治的な思惑による妥協が行われ、黒海艦隊は存続してきた。ロシア帝国も、ソビエト連邦も、ロシア共和国も、地中海へのルートを守る艦隊として、黒海艦隊を重要視してきた。黒海艦隊を消滅させることは、地中海への出口を閉ざすことにつながるから、受け入れられないと考えている。
 軍港セヴァストポリのウクライナへの返還が、2017年に迫っていた。これは黒海艦隊の所属問題で対立したロシアとウクライナの政治的妥協策になる。ソ連解体時に、黒海艦隊がウクライナに所属するのか、ロシアに所属するかで激論が続いた。その妥協策として、黒海艦隊をウクライナ側とロシア側に分裂させることにした。ウクライナは軍港セヴァストポリを2017年度までロシアに貸すことで、二国間の対立になることを避けている。しかし、返還期限が迫ってきた。
 オレンジ革命で成立したウクライナ政権は、反ロシアの姿勢を強めて、セヴァストポリの奪還を計画していた。極秘裏にNATO側への接近も企てていた。NATO側にしてみれば、セヴァトポリ軍港ほど邪魔な存在はない。そこで、ウクライナを西欧に勧誘する政策を企てた。ウクライナに経済の自由化を求め、旧ソ連の構成国を引き入れる政策になる。これに反感を強めたのがロシアのプーチン政権だった。ウクライナがロシア圏から離脱するならば、低価格で提供していた天然ガスと原油を国際価格に引き上げるという脅しを突きつけた。この資源価格の対立が激化して、ロシアによる天然ガスの供給停止という事態を引き起こしている。
 オレンジ革命は失敗に終わり、ウクライナは経済困難に立たされてしまった。経済の自由化は、経済弱者であるウクライナにとって、残酷な幕切れを用意していた。西欧化すれば、豊かな生活ができると信じていたウクライナ人にとって、経済的苦境は予想外の出来事だった。大統領選挙で、親ロシア政権が生まれた背景になる。安い天然ガスと原油が欲しいとなれば、ロシア政府と妥協するしかない。2017年度に返還されるはずだった軍港セヴァストポリスは、なんと25年間もの期間延長が決まっている。見返りとして、天然ガス価格の値引きが実現した。
 ウクライナの南に位置するクリミア半島は、クリミア・タタール人の本拠地である。ロシア帝国による占領政策によって、イスラム勢力はクリミア半島から排除された。スターリン時代には、タタール人すべてがシベリアに移住させられている。クリミア半島を開拓したのはロシア人であり、クリミア自治共和国の多数派はロシア人になる。ウクライナ政府は、南の領土がロシアであることに不満を持ち、独裁者スターリンと交渉した。ロシア人ではないスターリンは、クリミア半島をウクライナに寄贈することにした。セヴァストポリが流転の運命にさらされる悲喜劇の始まりだった。






Last updated  2010.04.27 18:21:51
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2010.04.12
カテゴリ:歴史と文化
 ポーランドの大統領一行がロシアのスモレンスクに向かう途中、豪雨のために政府専用機が墜落するという悲劇が起きている。視界不良の霧の中をパイロットは強行着陸しようとして失敗し、政府の首脳部が80人以上も死亡している。ロシアの管制官は、着陸を中止するように求めたが、パイロットは悪天候をついて着陸を試み、飛行場近くに墜落した。このため、現役のポーランド大統領が墜落死するという惨事に見舞われている。
 それほどまでにポーランド側が着陸にこだわった理由は、「カティンの森」事件の式典に参加する予定だったからになる。「カティンの森」事件は、ソ連とポーランドの間に横たわる歴史的惨殺事件である。独裁者のヒトラーとスターリンはポーランドの分割に合意して、この地域を軍事占領した。ポーランド軍は抵抗したが、ドイツ軍とソ連軍とでは戦力に差がありすぎて抵抗できなかった。そういう状況の中で、ポーランドの将校たちはソ連側に不服従を貫いたので、スターリンは将校たちの殺害を命じた。
 収容所に入れられたポーランド軍数万人のうち、2万人以上が行方不明になって戻らなかった。ナチスドイツとソ連の間で戦争が開始された時、スモレンスクに侵入したドイツ軍は、カティンの森の惨劇現場を発見する。ドイツのゲッペル情報相は、ソ連の非人道的な仕業として、批判の矛先をソ連に向けた。ドイツ軍の発掘調査の結果、スモレンスク地方の森には、4000人以上のポーランド将校の遺体が埋められていることが判明した。ドイツ軍は遺体を発掘して、反ソ連の宣伝材料に使った。ソ連側はドイツ軍の陰謀であるとして潔白を主張した。
 第二次大戦はソ連の勝利に終わり、ポーランドは社会主義体制に組み込まれていく。この過程で、カティンの森事件は、すべてを抹殺されてしまった。ソ連の支配下におかれたポーランド政府に調査能力はなく、ソ連が崩壊するまでカティンの森事件の詳細は国家機密にされてきた。ソ連が崩壊した後、プーチン首相がスターリンの命令によって虐殺が行われたことを認めている。ロシアの政治家がカティンの森事件を公式に認めたのは初めてだった。スモレンスクで記念式典が行われることになり、ポーランドの大統領は出席のためにmロシアに向かった。
 ポーランドは、東ローマ帝国時代に王国を形成したほどの古い王国だった。強国のドイツとロシアにはさまれていたおかげで、領土略奪の対象になり、何度もポーランド国家が消滅させられている。国家の消滅を味わったので、ポーランド人の独立に対する姿勢は強い。当然ながら、ポーランドを滅亡に追い込んだドイツとロシアに対する敵愾心が強い。カティンの森式典に大統領が出席することにこだわった理由になる。この墜落事件が、ポーランドの外交政策がどう影響を与えるかを読み取ることは難しい。
 






Last updated  2010.04.12 23:03:09
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2010.01.04
カテゴリ:歴史と文化
 安政の大獄に連座して、不遇の身の上にあった慶喜を歴史に再登場させたのは、島津久光の推挙だった。勅使を護衛して江戸に入った久光が、どうして慶喜を政治の舞台に登場させたのかは分かっていない。薩摩藩は将軍後継争いの一橋派であり、慶喜の才を認識していたのかもしれない。いずれにしても、文久の幕政改革がなければ、歴史に埋没していたはずの慶喜が政治の表舞台に登場して、幕末史は白熱化してくる。
 慶喜には、もともと政敵が多かった。譜代大名で構成される幕閣は、水戸徳川家を尊王攘夷運動の拠点であるとして、警戒していた。水戸藩の浪士たちは、大老井伊直弼を暗殺さえも実行している。その水戸からやってきて、将軍後見職に就任したのだから、江戸城で疎外されたのも無理はない。将軍周辺からは、実権を奪われることへの警戒もあったので、江戸城の執務は針のむしろだったろう。慶喜が才能を発揮できたのが、京都の地だったのは自然の道理になる。
 水戸出身の慶喜は元来尊攘派であり、朝廷の下に幕府があることをわきまえていた。朝廷から評価されたのも、その一点にある。しかし、騒乱の京都に乗り込んだ慶喜を待っていたのは、倒幕を狙う過激な尊攘派だった。長州と薩摩が危険な存在であることは認識していても、薩長を威嚇できるだけの武力を幕府は保持していない。となれば、朝廷の力を借りて、長州と薩摩の勢力拡大を抑えるしかなかった。公家たちは表面上幕府に従っていても、本音では討幕を狙う薩長の考えに動かされていく。
 徳川一族の中で軍略の才を持っていたのは、初代の家康と慶喜くらいしかいないのも事実だろう。将軍職は儀礼や行事が多く、政務を握っていたのは老中になる。将軍は独裁者であるよりも、人形であるほうが御しやすい。そこで、温和な家茂が後継者に選ばれたのだが、このとき慶喜が将軍に選ばれていたならば、幕末の歴史は大きく変動していたはずである。幕末の動乱において、ほとんどなすすべを知らなかった家茂を将軍に仕立て上げてしまった幕府首脳部の判断力の誤りは大きい。
 慶喜の軍略を見せつけたのが禁門の変になる。八一八の政変と池田屋事件に誘発された長州は京都を囲み、京都御所に押し寄せた。そもそも、長州兵が全く抵抗を受けずに、京都近辺に布陣したというのも不可解な出来事になる。さらに、御所の戦いにおいて、敗北寸前の幕府軍を救ったのが西郷隆盛率いる薩摩軍というのも歴史の皮肉になる。
 薩摩と長州が手を握れば、倒幕が可能であることを予感した坂本竜馬の才覚が歴史の流れを変えてしまう。毛利家の弱体化を狙った第一次長州征伐は、西郷隆盛の軍略で和睦に終わり、長州藩は存続することになった。薩長同盟が成立すると、幕府は軍事的に対抗できなくなる。結局、詰めの段階で慶喜は天下の形勢を見誤っている。自らの限界を察知した慶喜が、将軍職就任を拒否し続けたのは、本音だったかもしれない。
 鳥羽伏見の激戦の最中に、将軍慶喜が大阪城から脱出したことで、幕府軍は総崩れを演じて終わる。慶喜が朝廷への徹底抗戦を避け、戦わずに江戸城を明け渡したことで、徳川幕府は終焉した。これも慶喜の戦略と考えると、その功績は大きい。徹底抗戦を叫ぶ武断派を抑圧して、無用な犠牲者の数を減らすことができた武将は、歴史的に見ても少ない。幕府の武断派に暗殺される覚悟がないと、なかなかこういう決断はできない。慶喜は弱腰の将軍ではなかった。






Last updated  2010.01.09 19:22:25
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2010.01.01
カテゴリ:歴史と文化
 徳川幕府が崩壊して、新政権が明治期に生まれたことは、歴史的な必然だったろう。しかし、歴史は紆余曲折を重ねて前に進む。倒幕の旗を掲げても、多くの大名家は幕府に従順であり、倒幕運動を発火させるきっかけさえもつかめない情勢にあった。幕府側は、京都に広がった尊王攘夷運動に対抗すべく、会津藩や新撰組などを京に送り込んでいる。その結果として、新撰組による池田屋事件が勃発し、禁門の変の契機となり、長州征伐につながっていく。池田屋事件がなければ、長州藩が決起するきっかけが起きたか分からない。勇猛果敢な長州人でさえも、討幕の兵をあげるには、追いつめられる必要があった。
 同様に、薩摩藩を覚醒させたのが寺田屋事件になる。薩摩藩には、保守派と攘夷派の二つが複雑に同居していた。倒幕の思想を持つ藩士は、上層部に理解されずに孤立していた。それでも、西南雄藩の中では最大の勢力を持っていた。歴史が順調に前に進んでいけば、薩摩が倒幕の旗を掲げたことは間違いない。しかし、島津久光が薩摩の実権を握ったことで、歴史は想定外の動きを強めていく。
 久光は徳川と手を握り、公武合体を目指すという考えに取りつかれていた。この時代、薩摩は倒幕の要という役割を期待されていたのに、それとは逆の行動を取り始めていた。朝廷は尊攘派の勢力下にあったために、公武合体などの妥協策を受け入れる人間は少なかった。そこで、京の尊攘派の排除と幕府の改革を断行するために、久光は1000名の武装兵を連れて上洛する。そして、寺田屋事件につながる。
 寺田屋には、全国から攘夷派の志士が集まり、久光の上洛を倒幕の発火点にしようと待ち構えていた。その中心になっていたのが薩摩藩士だった。彼らは京都所司代と関白の邸宅を焼き打ちする案を寺田屋で練っていた。久光の入京と同時に騒乱が起きれば、幕府は薩摩藩を処分せざるを得なくなり、薩摩の戦いが始まる。そういう展開が予測できただけに激派は、大久保らの説得を受け付けなかった。薩摩藩の安泰を第一に考えるか、それとも討幕を第一にするかの難しい分岐点だった。
 久光は説得に従わない藩士を殺戮することを命じる。暗殺部隊には、同じ攘夷思想をもつ腕利きを選抜している。久光の送り込んだ部隊が寺田屋に到着すると切りあいが始まった。命令に抵抗した者に対する処分は苛烈だった。多くは惨殺され、負傷した者も切腹させられた。説得を受け入れて降伏した藩士は、何とか生き残ることができた。護送途中に切られて川に投げ捨てられた者もいたというから、尊攘派に対する敵意を感じることができる。
 この寺田屋事件を高く評価したのが朝廷になる。尊攘派のテロや脅迫に悩まされていた朝廷は、幕府改革の勅使を出すことに同意する。そして、勅使の警護役として、久光が江戸に向かうことになる。幕閣の中心は譜代大名であり、外様や大藩は政治中枢部から遠ざけられてきた。その慣例を破って、外様雄藩による合議制を目指そうと久光は考えていたらしい。久光が幕府の首脳陣として推薦したのが一橋慶喜だった。幕府中枢部からうとまれていた慶喜が政治の中心に登場する舞台が設定されていく。(続く)
 






Last updated  2010.01.03 15:24:39
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2009.12.25
カテゴリ:歴史と文化
 パナマ運河は大西洋と太平洋を結ぶ唯一の手段になっている。ここが閉鎖されたり、破壊されることは、世界経済に強い影響を与える。アメリカ東海岸から西海岸に向かう船舶や艦艇は、アルゼンチン沖を回らねばならなくなる。パナマ運河を守るために、アメリカは心血を注いできた。パナマ運河はパナマに存在するけれど、それを支配してきたのはアメリカ軍だった。アメリカ海軍の艦艇は、パナマ運河を通行できるサイズに設計されている。
 パナマ運河が完成したのは、1914年になる。最初、この地域に運河を建設しようとしたのはフランスだったが、資金が底をついて、アメリカに引き継がれた。当時、パナマ地方はコロンビア領だった。そこで、アメリカ政府はパナマを独立させる画策を行い、コロンビアから切り離すことに成功する。独立したパナマ政府と条約を結び、運河地域の租借権を手に入れた。建設された運河はアメリカ領であって、パナマ政府は口が出せなかった。この状態は運河が返還される1999年まで続いいてきた。
 パナマの大統領が非民主的な独裁者であろうとも、親米的な政権であれば、米国政府は支援を続けてきた。隣国のコロンビアは、左翼ゲリラと軍事政府の内戦が続いていて、かつ世界最大の麻薬生産国である。コロンビアで生産されるコカインの大部分は、パナマを通過する。パナマ経済は運河の収入と麻薬の輸出入で潤っていた。その利益を独占していたのがノリエガ将軍だった。ノリエガはCIAと結びつくことで頭角を現し、パナマの権力を握った。大統領選に落選したノリエガは選挙を無効にして、権力の温存を狙った。パナマの政治的な危機を察知した米軍がパナマに攻め込み、ノリエガを逮捕する。パナマの危機は米国経済の危機につながる。
 民主主義と麻薬撲滅を掲げるアメリカ政府は、独裁者と麻薬ルートの切断に成功したはずだった。ノリエガ将軍を逮捕してパナマから排除すれば、民主的なパナマが誕生すると期待したのである。しかし、統制を失った麻薬密売ルートは、むしろ規模を拡大している。通過するだけで数千億円の収入をもたらすコカイン取引が減少することはなかった。ノリエガが消えて国家統制がなくなり、麻薬取引量は自由度を増した。ここに、中南米の現実が見えている。
 パナマには、山脈が中央にそびえている。運河を建設するには、山脈を切り開くか、トンネルと通すか、運河を峠越えさせるかの選択しかない。当時の技術では、ひな壇式の運河を作って、一段ずつ船舶を上昇させて峠を越えさせるしかなかった。熱帯雨林を切り開いて運河を建設するには、様々な難関が立ちふさがった。パナマ運河は野心的な産物であり、不可能に挑戦する時代の思想を反映していた。現在だったならば、環境問題や政治的な思惑から、とうてい運河の建設は不可能だろう。それゆえに、米国政府はあらゆる策略と手段を使ってパナマ運河を維持してきた。パナマがこのまま独立を維持できるのか、それともコロンビア内戦に巻き込まれていくかは、予断が許せない。






Last updated  2009.12.25 20:43:40
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2009.11.23
カテゴリ:歴史と文化
 世界最古の都市がダマスカスであることは、古代から語られている。ダマスカス郊外の遺跡には、1万年前からの痕跡があるというから、氷河期の去った後に人類がさっそく住みついたらしい。乾燥地帯の広がる中東地域では、貴重なオアシス都市であり、バラダ川の水路を利用した農耕地域だった。ダマスカスが都市として栄えたのは、ローマによる東西貿易の起点として機能した時代とウマイヤ朝の首都であった時代だった。旧市街の城壁には、ローマ時代の門が残されているというから、歴史の長さは半端ではない。
 ダマスカスが裕福な都市であれば、それを狙う勢力が破壊と略奪を繰り返すことは避けられない。モンゴルの侵略の時には、ダマスカスは徹底的に破壊され、多くの人々がサマルカンドに連行されたという。それでも、多くの古代都市と異なって滅亡にいたらなかったのは、東西の中間地点に位置するという地理的条件とオアシスにあるだろう。
 ローマ時代の交易は、ダマスカスをシルクロードの起点にしていた。すべての道は、ダマスカスを経由してローマに至るから、交易都市として最も豊潤な時代であったことは確かだろう。ビザンチン帝国が滅亡し、イスラム勢力が台頭して東西貿易が衰退すると地方の一都市に衰退していく。交易が陸路から海路に変更されたこともダマスカスには痛手になった。
 ダマスカスは歴史の宝庫であることはわかっている。しかし、歴史的な遺産が重層的に積みあがっているので、大規模な遺跡調査は不可能な情勢にある。遺跡の上に現代の都市が構築されている宿命が発掘を困難にしている。それゆえに、地下に何が埋まっているかさえも歴然としない。現代シリアの首都でもあるから、世界最古の都市は砂に埋もれたままにするしかないだろう。
 ダマスカスには、世界最古のウマイヤド・モスクが現存している。ローマ時代の教会を改築してモスクを建設しているから、さまざまな様式が組み合わされている。イスラム教の聖地でもあり、このことがダマスカスの存在価値を高めたことは確かだろう。多くの古代都市が廃墟として地面に埋もれているのに、ダマスカスは現代都市の機能を有しているということに驚かされる。イスラム勢力が十字軍と戦うために築かれた城壁がダマスカスに残っているだけでも、奇跡というしかない。






Last updated  2009.11.23 17:24:15
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2009.11.11
カテゴリ:歴史と文化
 飛鳥寺と呼ばれる寺院は、「法興寺」という名が歴史的な名称になる。飛鳥時代には、すでに一部で仏教が受容されていて、小寺院などが建設されていた。しかし、異国の神である仏教を信仰することに旧勢力の反発は強く、蘇我氏も本格的な寺院を建設することはできなかった。日本古来の神を信仰していたのは、軍事面に勢力を持つ物部氏であり、蘇我氏単独で対抗することは不可能だった。病が流行ると仏教信仰のせいにされて、寺院が焼き討ちされたほどである。
 天皇家の中でも、蘇我氏系統の聖徳太子が仏教に深く帰依していたので、崇仏派が少数であったことにはならない。どこまでも私的な崇仏であり、公の場で仏教を崇拝することは断罪される危険があった。政治的な思惑が絡み、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の対立が高まり、戦乱が起きる。聖徳太子が先陣を切るほどに事態は切迫しており、それは天皇家内部の主導権争いをも意味している。588年、先制攻撃を仕掛けた蘇我氏側が物部一族を滅ぼし、仏教はようやく日の目を見ることになった。その戦勝祈願として、聖徳太子の四天王寺と蘇我馬子の法興寺が建設されることになる。
 遺跡の発掘調査の結果、飛鳥法興寺は五重塔を中心に、3つの金堂が並ぶという画期的な様式を取っていたことが判明している。朝鮮半島の寺院建築を参考にしたと想定される。百済から多数の技術者が渡来して、金堂や五重塔の建設作業にあたった。ようやく、596年に寺院の中心部は完成した。538年に仏教が伝来してから、数十年の歳月が流れていた。
 大化の改新で蘇我本家が滅亡してからも、法興寺は栄え続けた。奈良に遷都すると飛鳥の寺は解体され、移築されている。飛鳥の地に残されていた寺は、本元興寺と呼ばれたが、規模は縮小されたらしい。極楽坊に飛鳥時代の瓦などが残されているところから、この段階で飛鳥の寺の役割は終焉した。鎌倉時代になるまで、いくつかの建物は残されていたのに、雷火にあって塔などが全焼した。わずかに焼け残った金銅仏が飛鳥の文化を伝えている。






Last updated  2009.11.11 16:41:25
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2009.11.08
カテゴリ:歴史と文化
 池田屋事件ほど、日本の歴史の流れを変えた突発的な事件はないだろう。徳川幕府の倒幕に動くきっかけになったといえる事件になる。その意味では、新撰組の切り込みによって流された血に、大きな意味がある。統制を強める幕府と反発する諸藩という図式は、恐れを知らない長州の下級藩士によって変動させられていく。八・一八の政変で不利な立場に立たされた長州藩は、形勢挽回の機会を狙って動き始める。偽装した炭屋の倉庫から、大量の武器や倒幕の密書が発見されたことで、池田屋事件は幕を開ける。
 新撰組は捕縛した古高俊太郎を拷問にかけ、反幕勢力による御所焼き討ちの供述を得た。その夜、京都守護職の会津藩とともに、新撰組は祇園界隈の探索を行った。新撰組は3手に分かれ、近藤隊10名は木屋町通の徹底的な捜索を開始した。会津藩の到着が遅れ、新撰組単独で行動せざるを得なかった。捜索開始から3時間たって、土佐藩の定宿である池田屋に御用改めに踏み込んだところ、宿屋の主人が志士に通報するために階段を駆け上がった。そのあとを追った近藤勇は、二階に長州藩の志士たちを発見する。池田屋には、各藩の激派が集まり、捕えられた古高奪還を謀議していたのである。総勢は二十数名だという。いずれも剣の名手であり、新撰組にも厄介な相手だった。
 近藤隊の配置は表門に3名、裏門に3名、正面から切り込んだのが近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の四人だった。踏み込まれた志士たちは、新撰組と戦う者と、二階から中庭に飛び降りて裏門に走るものに分かれた。裏門で待ち構えていた3人はたちまち切り崩されて、浪士の逃亡を防ぐことはできなかった。戦闘中に沖田は病に倒れ、藤堂は眉間に深手を負って屋外に引いた。近藤と永倉の二人だけで、数十分戦い続ける。やがて、土方隊が到着し、加勢を得た新撰組が勝利を収める。戦闘で討ち死にしたものと捕縛したものを合わせると14名だった。明け方には、京都各地で浪士の掃討が行われ、20名以上が捕縛された。
 池田屋事件に激高した長州藩士は、軍勢を整えて京都に向かって進発する。こうなると、流れを止めることのできる者はいない。京都の御所近辺で、長州軍と幕府軍の戦いが開始された。幕府方は、薩摩と会津と桑名の兵で構成されていた。全軍の指揮を執ったのは、薩摩の西郷隆盛という。この蛤御門の変で敗北した長州藩は恭順の意を示すが、徳川幕府は長州征伐を決定する。二度にわたる長州征伐を行ったことで、幕府は財政的にも軍事的にも衰弱していく。長州藩は農兵部隊を組織して徹底抗戦を行い、国境地帯で幕府軍を打ち破ることに成功する。これで明治維新の流れが決まった。






Last updated  2009.11.08 10:33:58
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2009.10.31
カテゴリ:歴史と文化
 大阪城公園内から、戦国時代の遺跡が発見され、これが有名な石山本願寺である可能性が高まっている。浄土真宗の本山であり、拠点でもあった石山本願寺は、寺院様式の城郭建築であったとされる。織田信長と対立して、10年戦争を繰り広げたことで、戦国史に名を残している。信長との和睦の後、石山本願寺は炎上したと記録されている。秀吉は大阪の地の利に目をつけて、本願寺跡に大阪城建築を命じた。秀吉の大阪城は難攻不落の城として、大坂の陣まで存続していくことになる。
 浄土真宗は、戦国武将や他の寺院などと対立を繰り返してきた。特に、織田信長とは長期にわたり、激しい戦いを続けてきた。信長が近畿地方に勢力を拡大し続ける中で、唯一本願寺勢力だけは屈服しなかった。それには、本願寺信徒たちの身を捨てての参戦があったからだろう。大阪は海運の中心にあり、中国地方や四国九州などに航海できる。堺や博多と並ぶ商業の中心地を形成できることを認識した信長は、本願寺顕如に大阪退去を求めた。これが戦いの導火線になった。 
 戦国時代の本願寺は、戦国武将と互角に戦える武器と兵を擁していた。周辺を戦国大名に包囲されていた信長は、本願寺勢力との直接の対決を避けて、和平工作によって支配下に置こうと試みたが、本願寺顕如は毛利や武田と同盟することで信長に対抗できると考え、全面的な戦いを挑むことになる。信長は北陸地方の本願寺勢力を滅亡させ、石山本願寺を包囲する。毛利水軍との戦いに勝った織田勢は、石山本願寺への兵糧の運び込みを切断することに成功した。不利を悟った顕如は1580年に大阪退去を認めることになる。1570年に信長との戦いを始めてから、多大な犠牲を出した後の和睦だった。発見された石山本願寺跡は歴史の貴重な証人になるだろう。






Last updated  2009.11.02 08:06:57
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2009.10.28
カテゴリ:歴史と文化
 ボスニア人の定義は難しい。ユーゴスラビア政府は、ボスニア地域に住む人々をボスニア人と定義しようとしたが、各民族の抵抗の前に通用しなかった。ボスニア地域には、カトリックのクロアチア人、正教徒のセルビア人、イスラム教徒のムスリム人が数百年間にわたって共同生活を行っていた。オスマントルコ帝国時代には、イスラム教徒が優遇されたので、イスラム教に改宗した人々が多数生まれた。その集団をムスリムと呼ぶ。自分たちの信念で改宗を拒否した人々が、クロアチア人とセルビア人になる。
 もともとは一つの民族なので、外観や言葉で3つの民族を区別することはできない。違いは、どこまでも宗教的な価値観にある。かつてのユーゴスラビア政府は、民族意識が民族対立につながることを恐れて、3者を平等に扱ってきた。一番人口が多いのがムスリム人であり、次がセルビア人になる。不利な立場に立たされていたクロアチア人たちは、セルビア人に対抗するために、ムスリム人と手を握る。少数派に転落したセルビア人は、ボスニア地域に独立した自治政府を建設する。この自治共和国を巡って、残酷な戦いが勃発した。 
 ボスニア紛争で悪者にされたのがセルビア人になる。民族浄化を行ったという罪に問われて、11年の刑を受けたのが「鉄の女」ビリャナ・ブラブシッチだった。セルビア人の首脳として、国際世論の批判の的になり、戦争責任を問われて受刑していた。現在になってみると、民族浄化を行っていたのはセルビア人だけではないことが明らかになっているが、それでセルビア人の罪が消えるわけではない。殺戮と監禁と凌辱という悲劇がボスニアの地で繰り返された。その憎しみの激しさは限りなく強く、修復することは不可能に近い。
 ボスニア紛争は、何が真実なのかを鋭く問いかける紛争になった。TVで流れる映像は断片的なものに過ぎず、一部しか浮かび上がらせない。真実はずっと深く、知られることなく隠されている場合が多い。数百年間にわたって隣人として暮らしてきた人々が、憎悪と復讐の思いに駆られて武器を握り、隣人をにらみながら生きていくのはつらい。国際社会は、そのボスニアを黙ってみているしかない。長年、大国に支配されてきた民族の思いを理解できる人間などそういない。数百年たつと、おそらく憎しみが消え、友人として暮らす社会が成立するかもしれない。






Last updated  2009.10.30 11:11:42
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