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天碧の果て

天碧の果て

零戦概要




緒元
制式名称 零式艦上戦闘機二一型
機体略号 A6M2b
全幅 12.0m
全長 9.06m
全高 3.5m
自重 1,680kg
正規全備重量 2,674kg
発動機 栄一二型(離昇940馬力)
最高速度 533.4km/h(高度4,200m) 発動機|              上昇力 6,000mまで7分28秒
降下制限速度 629.7km/h
航続距離 3,350km(増槽あり)/2,222km(正規)
武装 翼内20mm機銃×2(携行弾数各60発)
胴体7.7mm機銃×2(携行弾数各700発)
爆装 30kg又は60kg爆弾2発

零式艦上戦闘機(れいしきかんじょうせんとうき: 以下「零戦」と略)は、旧日本海軍の主力戦闘機。旧海軍の艦上戦闘機としては実質的な最終形式で、日中戦争の途中から太平洋戦争の終わりまで戦い続けた。太平洋戦争初期に連合国の戦闘機を駆逐したことから、主交戦国アメリカから「ゼロファイター」の名で恐れられた。設計は三菱だが、三菱と中島飛行機で生産された。

開発について
零戦の開発は、昭和12年(1937年)9月に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。三菱は零戦の前の艦上戦闘機である九六式艦上戦闘機に続いて堀越二郎技師を設計主務者として開発に取り組んだ。十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は堀越氏らが「ないものねだり」と評するほど高く、ライバルの中島飛行機が途中で辞退したため、三菱単独の開発となった。昭和14年(1937年)4月に陸軍各務原飛行場(岐阜)で試作一号機が初飛行、翌昭和15年7月に制式採用された。
要求性能
この「十二試艦上戦闘機計画要求書」に記載された要求性能値の設定においては様々な通説があるが、零戦の仕様は「昭和十一年度 航空機種及性能標準」の艦上戦闘機の項に基づいて決定されている。
以下にその内容を示す。
機種
艦上戦闘機
使用別
航空母艦(基地)
用途
1.敵攻撃機の阻止撃攘
2.敵観測機の掃討
座席数
1
特性
速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適し、且つ戦闘機との空戦に優越すること
航続力
正規満載時全力1時間
機銃
20mm1~2。1の場合は7.7mm 2を追加。弾薬包は20mm 1につき60、7.7mm 1につき300
通信力
電信300浬、電話30浬
実用高度
3,000m乃至5,000m
記事
1.離着陸性能良好なること。離艦距離 合成風力10m/sにおいて70m以内
2.増槽併用の場合6時間以上飛行し得ること
3.促進可能なること
4.必要により30kg爆弾2個携行し得ること
ここで目を引くのは航続力が距離ではなく滞空時間で示されている事、目的はあくまでも「敵攻撃機の阻止撃攘」と「敵観測機の掃討」とされ、特性においても「速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適」する事が第一であり、対戦闘機戦闘は「戦闘機との空戦に優越すること」と方法については触れられていない。
重要なのは、一般に言われているように「長距離進攻をする攻撃機の護衛」や「格闘戦における旋回性能が九六式艦上戦闘機に優越」、「速度と旋回性能の両立」等は一切書かれていない事であろう。

航続力
「昭和十一年度 航空機種及性能標準」において、艦上爆撃機は「高度2,000m 巡行160ノット以上で800海里以上」、艦上攻撃機は「高度2,000m 巡行140ノット以上で500海里以上」、陸上攻撃機は「過荷重1,300海里以上」と記載されている。
この事から、性能標準において滞空時間で航続力を示すのはどちらかと言えば異例であり、艦爆や艦攻に要求されている航続距離と巡航速度から算出した滞空時間が4時間であることから、零戦に求められた6時間の滞空能力は護衛に用いるには過大であることが判断できよう。
ならば何故、そのような長時間の滞空能力が求められたのか?
理由は単純で、艦上戦闘機が運用される航空母艦は陸上基地と異なり、早期警戒の為の対空見張り網を構築できないため、常に艦上戦闘機を滞空させ、高々度から対空監視(戦闘哨戒)を行う必要がある(昭和11年当時、レーダーは実用段階まで至っていない)。
このような運用を前提とする場合、対空時間が長ければ長いほど突発的な事態(交代機が故障で上がれない等)において監視網に穴が空きにくいと言う利点がある。
武装
用途の1.に挙げられている「敵攻撃機の阻止撃攘」を可能にするため、当時としては大威力の20mm機銃の搭載が求められている。
では、どのような敵攻撃機を想定していたのか?これも「昭和十一年度 航空機種及性能標準」に記載されている、300km/h以上で突入してくる800kgの魚雷や対艦爆弾を搭載した艦上攻撃機や、1,500kgの魚雷や対艦爆弾を搭載した陸上攻撃機を一撃の下に撃墜するには、炸裂弾が使用可能な20mm機銃が必要であると判断された為であろう。

防御
欧米で重要視された防御能力は要求項目に記載されておらず、当然ながら設計においてはほとんど考慮されなかった。これは日本で実用可能なエンジンが欧米のものより低出力であることと、当時の技術力で実用可能な20mm級機銃弾に耐えられる防弾装備の重量が嵩むことから、無防弾として軽量化を図り、速度や運動性等を向上させることで被弾確率を低下させた方が合理的と考えられたためである。
ちなみに、戦闘機の防御・防弾能力についての記載が出てくるのは「昭和十八年度 航空機機種及性能標準」からで、燃料タンクの防弾については、同年末より生産されている五二型の後期生産型から翼内タンクに自動消火装置が、操縦者の防弾については、翌昭和19年より生産されている五二乙型から防弾ガラスが付加され、更に五二丙型からは防弾板が追加され、一部の機体は胴体タンクに防弾ゴムを装備している。
設計に使われた技術
九六式艦上戦闘機から引き継がれた技術として、全面的な沈頭鋲の採用、徹底的な軽量化と空気力学的洗練、主翼翼端の捻り下げ、スプリット式フラップ、落下式増槽等がある。これらは零戦の高性能の実現にも大きく貢献している。日本の艦上戦闘機として零戦で初めて採用された技術には下記のものがある。
引き込み式主脚。日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機についで2番目。
飛行時車輪を機体内に格納して空気抵抗を削減する仕組み。米国から輸入したチャンス・ボート社製戦闘機V143の引き込み脚を模倣しているため、零戦そのものがV143をコピーした戦闘機であるという誤解が大戦中のみならず、現在でも一部海外で存在する。
定速回転プロペラ。恒速回転プロペラとも呼ばれる。日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機についで3番目。
超々ジュラルミン(ESD)。住友金属で開発された新合金で、主翼主桁に使用されている。後に米国でも同様の合金が実用化されている。
操縦索の剛性低下。
零戦の特徴である"低速から高速まで自由自在に機体を操ることができる"能力を実現させた技術として有名。人力式の操舵では操縦装置を操作した分だけ舵面が傾く。高速飛行時と低速時では同一の舵角でも舵の効き方が全然異なるため、操縦者は速度に合わせて操作量を変更しなければならない。そこで、零戦では操縦索を伸び易いものにし、高速飛行時に操縦桿を大きく動かしても、舵面は風の抵抗を強く受け操縦索が引っ張られて伸び、結果的に適正な舵角が自動的に取れるようにしている。全ての操縦索に採用されたと誤解されがちであるが、採用されたのは昇降舵につながる操縦索のみである。
戦闘機としての特徴
500km/hを超える最高速度と高い運動性能、長大な航続距離、20mm機銃2挺の大火力を併せ持ち、パイロットの高い技量もあって太平洋戦争の緒戦において無敵ともいえる活躍を見せたことから、太平洋戦争初期の優秀戦闘機と言われる。
1941年にドイツでは「Fw190A」、イギリスでは「スピットファイアMk.V」の配備が開始されている。この2機が最高速度600km/hを超える高速機であることから、50km/h以上劣速の零戦でこれらに対抗するのは困難とする評価もある。ところが、実際にオーストラリアのダーウィンで数度行われたスピットファイアMk.Vと零戦の空戦では、全て零戦が優勢に戦っている。
第二次世界大戦初期において、陸軍の一式戦闘機「隼」と並び遠隔地まで爆撃機を援護することができた数少ない単発単座戦闘機。
ボルトやネジなど細部に至るまで徹底した軽量化を追求したため、極初期型はいささか行き過ぎた軽量化が施されており、昭和16年4月に二一型140号機が急降下飛行時に空中分解して墜落、操縦していた下川万兵衛大尉が殉職するという事故が発生したため、開戦直前まで主翼構造の強化や外板の増厚といった対策工事が行われている。

実戦
1940年9月13日、零戦は大陸戦線で初陣を飾り、被撃墜無しで敵機27機全機撃墜という伝説的な戦果を報じた。但しこの戦果は日本側の記録であり、日中両軍が把握している参加兵力と損害は、それぞれ中国軍戦闘機34機(I-152×25、I-16×9)中撃墜13機撃破11機、零戦隊13機中被弾3機、着陸時に大破全損1機(主脚故障のため)である。その後も大陸戦線での零戦の活躍は続き、初陣から一年後の1941年8月までの間、戦闘による損失は対空砲火による被撃墜2機のみで、空戦による被撃墜機は皆無という一方的な戦いを演じた。
太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃は全くの奇襲であったため、敵戦闘機との空戦は少なく地上銃撃で活躍。
開戦直後のフィリピン爆撃では、台湾から出撃する陸攻隊を援護し、短期間にフィリピンのアメリカ陸軍航空隊を壊滅させた。
南太平洋での戦いにおいても長い航続距離を生かし、ラバウルからガダルカナルやニューギニアを攻撃した。
緒戦における零戦の戦闘能力は高く、アメリカ軍から積乱雲と零戦に遭遇した際に任務遂行の放棄を容認する正式な命令が出たほどであった。
戦争中期の1942年6月、アリューシャン列島のダッチハーバーに近いアクタン島の沼地にほぼ無傷で不時着した零戦(パイロットは頭部を強打して死亡)をアメリカ軍が捕獲、これを徹底的に研究することで明らかになった零戦の弱点を衝く対抗策として、「サッチ・ウィーブ」と呼ばれる編隊空戦法がアメリカ軍に広く普及することになった。
戦争中盤以降、アメリカ軍は2,000馬力級エンジンを装備するF6FヘルキャットやF4Uコルセア等の新型戦闘機を投入するようになっていった。逆に零戦は、防弾装備の追加や武装強化などによって重量が増える一方、エンジン出力があまり向上しなかったため、最高速度や上昇力等の飛行性能を大幅に向上されることができなかった。さらに緒戦から中盤の戦いでベテランパイロットを多数失ったこともあり、徐々に苦戦を強いられるようになっていった。
戦争末期には、マリアナ沖海戦の結果、アメリカ軍に占領されたマリアナ諸島等から日本本土に侵入する新型爆撃機B-29の迎撃も行ったが、零戦の高高度性能ではB-29迎撃には不足であったため、撃墜は困難であった。
後継機(雷電や烈風など)の開発が遅れたため、零戦は終戦まで日本海軍の主力戦闘機として戦わざるを得ず、また戦争末期には大型爆弾用の懸吊・投下装置を追加して、代用艦爆(戦闘爆撃機)や神風特別攻撃隊用の機体としても使用された。最終的に生産された零戦は10,000機以上に及ぶ。
名称について
当時の軍用機は採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっていた。零戦が制式採用された昭和15年は皇紀2600年にあたり、下2桁が「00」になったため「零式」という名称になった。なお陸軍では同じ年に採用した兵器を一〇〇式と命名している(例:一〇〇式司令部偵察機、一〇〇式重爆撃機)。海軍は昭和17年に零戦の水上機型である二式水上戦闘機などを最後に年次名称を廃止したため、大戦後期に主力となった局地戦闘機「紫電改」や「雷電」などには年次名称は無い。
一般に「「零戦」を「ぜろせん」と読むのは誤り」と言われるが、当時の新聞報道に「兵士たちにはゼロセンと呼ばれており・・・」という記述があることから、「ぜろせん」「れいせん」の両方が使われていたと考えられる。
連合軍が零戦に付けたコードネームは「Zeke」。ただし三二型は出現当初、それまでの二一型とは異なり翼端が角張っていたためか別機種と判断され、「Hamp」(当初はHap)というコードネームがつけられた。
改良型
性能向上や戦訓の取り入れのため、段階的に改良されている。当初、発動機の換装は一号、二号、機体の改修は一型、二型と表されていたが、1942年夏に連続した二桁の数字(最初の桁が機体の改修回数、次の桁が発動機の換装回数を示す)で示すように変更されたため、既存の一号一型/一号二型は一一型/二一型と改称、二号零戦/二号零戦改と仮称されていた新型零戦は三二型/二二型と命名された。後に武装の変更を示す甲乙丙を付与する規定が追加されている。因みに「二一型」「五二型」は、それぞれ「にいちがた」「ごーにーがた」と読む。
以下に改良に伴う形式、発動機、主翼、各種装備の変遷を示す。時系列ではあるが時期を正確に表現したものではない。例えば四一型の計画時期は五二型と同時期である。また表現の限界から全ての装備変遷について網羅したものではない。この他にも胴体銃の廃止等が行われている。

派生型
引き込み式主脚の代わりにフロートを付けた水上戦闘機型の「二式水上戦闘機」や複座練習機型の「零式練習戦闘機」、胴体に20mm斜銃1挺を追加した夜間戦闘機型、通称「零夜戦」などがある。
十二試艦上戦闘機計画要求書の内容
零戦に関する書籍やサイトなどで必ずといって良いほど引用されている「十二試艦上戦闘機計画要求書」は大抵、「1.用途 援護戦闘機として敵の軽戦闘機よりも優秀なる空戦性能を備え、迎撃戦闘機として敵の攻撃機を捕捉撃滅しうるもの」の1文から始まっているが、これは最初に引用した書籍の著者の創作であり、実物には「1.目的 攻撃機の阻止撃攘を主とし尚観測機の掃討に適する艦上戦闘機を得るにあり」と記述されている。
他の計画要求書と異なる書式や海軍用語として用いられない「軽戦闘機」や「迎撃戦闘機」、海軍の公式文書には通常用いられない「として」と言う文言が入っている時点で創作、若しくは捏造を疑うべきであろう。
零戦は日中戦争における戦訓を設計時に取り入れた
よく、「日中戦争戦訓からの要求として、旋回性能と長大な航続力が求められた」等と書かれているが、昭和11年に取りまとめられた「十二試艦上戦闘機計画要求書」により、昭和12年度に設計、試作が開始された十二試艦戦に、昭和12年に勃発した日中戦争の戦訓を取り入れることは時系列から言っても到底無理な話である。
これは、十二試艦戦が零式一号艦戦一型(後の一一型)として九六式陸上攻撃機の護衛に参加し、絶大なる戦功をおさめていた事と、前述の捏造された「十二試艦上戦闘機計画要求書」が併記されている事例が多い事から起こった誤解であろう。
実際、日中戦争における戦訓が取り入れられたのは「昭和十三年度 航空機種及性能標準」からである。 この中で「遠距離戦闘機」項の用途に「陸上攻撃機援護」と記載されており、これが戦訓に基づく陸上攻撃機の護衛の為の大航続力を持った機体である。この護衛専用機の開発が日中戦争に間に合わなかったため、たまたま実戦化間近で長大な滞空時間、即ち航続力を持っていた零戦が代役として大陸に派遣されたのである。
ちなみに、この護衛専用機は「十三試双発陸上戦闘機」として試作要求が出され、試作機が作られたものの制空戦闘機としては不適とされ、二式陸上偵察機を経て夜間戦闘機「月光」として用いられることとなる。

20mm機銃役立たず説
零戦に搭載された20mm機銃は「低初速であるため弾道が下がりやすい小便弾の上に弾数が少なくて役立たず」と一般には信じられている。
この20mm機銃はエリコンFFをライセンス生産した九九式一号銃、FFLをライセンス生産した九九式二号銃及び両者の改良型であり、初速は一号銃(FF)が600m/s、二号銃(FFL)が750m/s、携行弾数は60発ドラム給弾(一一型~三二型搭載)/100発大型ドラム弾倉(二一型~五二型搭載)/125発ベルト給弾(五二甲型以降搭載)となっている。
初速について見ると、同時に搭載されていた7.7mm機銃が740m/sであることを考えると、一号銃でも極端に遅い訳ではなく、二号銃では僅かであるが逆転している。とは言え一号銃の初速では、弾丸の信管の不具合もあって、B-17の防弾板を至近距離でなければ貫通できないことを海軍が捕獲した実物で確認している。高初速の二号銃の採用は、弾道改善のためではなく貫通力改善的な意味合いが強いようである(先行して信管の改良も実施)。集弾性については、主翼に二号銃を4門搭載した紫電/紫電改では指摘されていない事から、零戦の主翼構造がやわで発射時にぶれがおきる事が原因とも考えられる。
また、特に初期の60発ドラム弾倉という携行弾数は決して多くはないが、零戦のみならず同時期の欧米機も似たようなものであり、改良によって最終的には倍以上にまで増加していることを考慮する必要がある。
坂井三郎氏をはじめとする元零戦搭乗員が述べている様に、九九式20mm機銃、特に一号銃が対戦闘機戦では使いづらく、対大型機戦でも「絶大」と言えるほどの威力を発揮できなかったのは事実であろう。しかし、一号銃を装備する零戦が開戦直後に苦労しつつもB-17を撃墜し、米軍に大きな脅威を与えていたという事実を考えれば、「役立たずだった」との評価は的外れと言っていいだろう。
なお12.7mm機関砲の威力に不満を持った陸軍も、ドイツからのモーゼルMG151/20(所謂「マウザー砲」)輸入と並行して「ホ-五」と呼ばれる20mm機関砲を開発し、三式戦闘機「飛燕」の後期型や四式戦闘機「疾風」、五式戦闘機に搭載した。ホ-五は後述のブローニングM2を参考に開発されたホ-一〇三 12.7mm機関砲の拡大型で、九九式ニ号銃の後期型やMG151/20に引けをとらない初速と発射速度を持つ上に、同調装置装備により集弾性で有利な機首装備も可能であったが、弾丸が軽量であるため威力の面ではやや見劣りした。
なお、一般に最高の航空機関銃と評価される米軍のブローニングM2 12.7mm機関銃は高い初速と発射速度を持つが、重量が29kgと一号銃より6kg近く重い、炸裂弾が用意されていない、ベルト給弾機構が故障しやすい等の欠点もあったことも併記しておくべきであろう。

二一型最強説
零戦は初期型の二一型の完成度が最も高く、五二型を始めとする後期型は改良型ではなく改悪型であったという説が存在する。
零戦は三菱と中島で生産されていたが、開発会社の三菱が二一型-三二型-二二型-五二型と次々に新型零戦を生産していたのに対し、中島では様々な理由から昭和19年半ばまで二一型を生産していた。ところが五二型配備後の軍令部への機材補充の要求には二一型を要求するものは存在せず、実戦部隊において、低速で高高度性能と火力に劣る上に高速域での横転性能が低い二一型は鈍いとして嫌われており、激戦が行われていたソロモン方面の基地戦闘機隊には、二一型ではなく高速・大火力かつ高速域の横転性能が改善された二二型や五二型等の新型零戦が優先的に配備されていたという事実が存在する。
これは、空戦の形態が日中戦争の頃の単機同士による巴戦から複数機による一撃離脱へと変化したため、それに適応して一瞬に大量の弾丸を叩き込める五二型(特に丙型)が好まれていた事を示している。
また、航続距離において二一型は傑出していると言われるが、これは落下式増槽に加え、胴体内タンクに正規全備時の62Lの2倍を超える135Lの燃料を搭載するという例外的な運用を行った場合のことである。これと同じ条件、即ち落下式増槽を含む全燃料タンクを満載にした状態での航続距離を比較すると、燃料タンクの小さい三二型や「栄」より燃費の悪い「金星」を搭載した五四型を除く零戦後期型(二二型や五二型各型)と二一型の間に大きな差はなく、三二型でも二一型の90~95%程度となる。なお、二一型以前の零戦は機体内燃料タンクを満載にした状態では飛行制限があるが、三二型や二二型、五二型にはそういったものはない。

発動機|                    形  式                    |主翼
---+--------------------------------------------+-----------
栄一二|一一型                                         |翼端折り畳みなし
 〃 | +-→二一型----------------→四一型(計画のみ)           |翼端折り畳みあり
栄二一|     +-→三二型                                 |翼端切り落とし(角型)
 〃 |         +-→二二型→二二甲                         |翼端折り畳みあり
※1 |                 +-→五二型→五二甲→五二乙→五二丙-----→六二型|翼端切り落とし(丸型)
栄三一|                                 +-→五三型-→六三型|  〃
金星 |                                 +-→五四型-→六四型|  〃
---+--------------------------------------------+-----------
   |←   九九式一号機銃   →|←         九九式二号機銃          →|20mm機銃の形式
   |← 60発 →|←    100発     →|←    125発ベルト給弾     →|20mm機銃の弾数
装備 |←          7.7mm機銃          →/←   13mm機銃   →|副兵装
   |←       防弾装備無し      →/←        防弾装備有り       →|防弾装備
   |←         小型爆弾のみ          →|←  250kg  →|←※2→|爆装

    ※1:栄二一、栄三一甲、栄三一乙  ※2:500kg爆弾


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