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【草加の爺に挑戦状!!】
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都合四百三十二人が同時に腹を切ったのであった。
その血はその身を浸して、死骸は庭に充満した。屠所の肉に異ならず。 かの、已亥(いがいの)年(つちのといのとし、唐の粛宗の乾元二年759、史思明・安禄山の将 が燕王と称して、安慶緒・安禄山の長子を殺して范陽に帰り帝を僭称した時)に五千の貂錦(貂・て んの皮を冠に飾りとして付ける事)胡塵(野蛮人・ここは安禄山が立てる塵)に滅び、さんずいの童 關の戦に百万の士卒が河に溺れたのもこれには過ぎないだろうと、哀れであることは目も当。てら れず。言うにも言葉もないのだった。 主上・上皇は此の死人どもの有様を御覧ずるに、肝心が御身に添わず、ただ呆れてぞおわしまし ける。 主上・上皇は 五宮の為に 囚われ給う事 付けるたり 資名(すけな)卿 出家の事 光巌天皇等 官軍の手に移らせらる さる程に、五の宮の官軍共が主上と上皇を取り参らせて、その日先ず長光寺(ちょうこうじ、滋 賀県近江八幡)に入れ奉り、三種(さんじゅの)神器並びに玄象(げんじょう、玄上とも書く、琵琶 の名)・下濃(すそご、琵琶の名)・二間(ふたま、清涼殿の廂の間。天皇守護の祈祷をする僧がいつ も伺候する場所)の御本尊(仏菩薩)に至るまで、自ら五宮の方に渡らせられた。 秦の子嬰(しえい、公子の嬰の意、始皇帝の孫。二世皇帝の兄扶蘇の子)が漢祖(沛公)の為に 亡ぼされて、天子の璽符(じふ、天子の御印と割符)を首に懸けて(自殺をする意を表す)白馬・ 素車(そしゃ)に乗って車に只道(しどう)の傍らに至り給いし亡秦の時に異ならない。 日野資名 が 出家する 日野大納言資名卿は殊更に當今(とうぎん)に御奉公の寵臣であったが、如何なる憂き目を牟るだ ろうかと身を危ぶんで思われたので、その辺の辻堂に遊行の聖があった所におわして、出家すべき 由を宣いければ聖はそのままに戒師となって是非なく髪を剃り落そうとしたが、資名卿は聖に向っ て、出家の際には何とやらん、四句の偈を唱える事があるとか聞いているが、と仰せられたのだが その聖はその文を知らなかったのであろう、汝是畜生發菩提心(にょぜちくしょうほつ」ぼだいし ん)とぞ唱えられた。 三河の守友俊も同じく此処にて出家せんとて、既に髪を洗ったのだが、これを聞いて、命が惜し さに出家すると言っても、汝は是畜生であると唱え給うことの悲しさよ、と笑壺に入って笑われけ る。 天皇等は 官軍に警護されて 京都に入られた 因果 歴然 の 理 かくの如くに今まで付き纏い参らせた卿相雲客(殿上人)もこれかれと落ち留まって出家遁世をし て退散してしまったので、今は主上・春宮・両上皇の御方々様にも、經顯(つねあき)・有光(あり みつ)卿の二人より他には供奉(ぐぶ)仕る人も無かった。 その外は皆、見慣れぬ敵に打ち囲まれて、怪しげなる網代輿に召されて、都に帰り上らせ給え ば、見物の貴賤が岐(ちまた)に立って、あら、不思議や、去年先帝を笠置にて生捕り参らせて、隠 岐の国に流し奉りしその報いが三年の内に来たりし浅ましさよ。 昨日は他州の愁いと聞いたけれども、今日は我が上の事と当たれりとは、斯様の事をや申すの にであろう。この君も又、如何なる配所へと遷されさせ給いて、宸襟を悩まされことであろうか と、心有る者も心なき者も見る人毎に因果歴然の理(ことわり)を感じ思いて、袖を濡らさぬ者とて は無かったのだ。 千葉屋(ちはやの)城 寄せ手敗北の事 六波羅陥落 の報を聞き 千剣破城の寄せ手 南都の邦に 引き退く 死傷 多し さる程に、昨日の夜、六波羅が既に攻め落とされて、主上・上皇皆関東に落ちさせ給いぬと、翌 日の午の刻(正午)に千葉屋に聞こえたので、城中では悦び勇んで、ただ籠(こ)の中の鳥が林に出で て遊ぶ喜びをなし、寄せ手は贄に赴く羊が駈られて廟に近づく如き思いをなす。 何様、一日も遅く引くならば、野伏はいよいよ勢いが重りて山中の道は難儀するであろうと言う ので、十日の早旦に千葉屋の寄せ手の十万余騎は南都の方へと引いてゆく。 前(さき)には兼ねて野伏どもが充満している。 後からは敵が又急に追い懸る。 すべて大勢が引き立てたる時の癖であれば、弓矢を取り捨てて親子兄弟を離れて、我先にと逃げ ふためきたる(ばたばたして逃げる)程に、或いは道もない岩石の際に行き詰まりて腹を切り、或い は数千丈と深い谷の底に落ち入って、骨を微塵に打ち砕く者、幾千萬と言う数を知らない。 始め味方の勢を帰さじとて寄せ手の方から警護を据え、谷合の関、逆茂木も引き除けて通る人が 無いので堰き落とされては馬に離れ、倒れては人に踏み殺されて二三里の間の山路を、数万の敵に 追い立てられて一軍もしないで引いたので、今朝まで十万四騎と見えた寄せ手の勢が残り少なに討 ちなされ、僅かに生きた軍勢も馬・物の具を捨てない者はいない。 されば今に至るまで、金剛山(こんごうせん、大阪府と奈良県との間に聳える金剛山脈の最高峰) 麓、東條谷の路の辺には矢の孔、刀の疵がある白骨が収める人もいないので、苔に纏われて累々 (るいるい、積み重なった様)たり。 されども宗徒の大将達は一人も道には討たれずに、生きたる甲斐はないのだが、その日の夜半ば かりに南都にこそ落ち着かれたのだ。 巻 の 十 千壽王殿 大藏谷に 落ちられる事 尊氏の二男千寿王 鎌倉を 落ちる 両使は京に上らんとして、途から引き返す 足利治部大夫尊氏が敵になったることは、道が遠いので飛脚はまだ到来していない。鎌倉ではか つてその沙汰もなかった。 かかりし所に、元弘三年五月二日の夜半に足利殿の二男千壽王殿が大藏谷を落ちて行方知れずに なってしまった。 これによって鎌倉中の貴賤がすはや大事が出で来たるはとて騒動は斜めならず。京都の事は通が 遠いので未だに分明の説も無く、毎事に心もとないとて、長崎勘解由左衛門入道と諏方木工(すは のもく)左衛門入道との両使で上京する所に六波羅の早馬が駿河の高橋にて行き会った。 名越殿は討たれ給いて、足利殿は敵になられた、と申しければ、さては鎌倉の事も心配であるよ とて両使は取って返し、関東へと下ったのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026年05月20日 08時56分15秒
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