神慮に依る 「野辺地ものがたり」
第 二十五 回 目 この道、この所、即ち、この現在生きている真実は、大でもなく、小でもない。自でもなく、他でもない。以前からあるのでもなく、今現在に出現したのでもないので、絶対の真実として在るのである。同様に、人が佛道を修證するに際しては、一つの法を得るとは、法全体に通達する事であり、一つの行に遭遇することは、唯一絶対の行を修行することである。この時、絶対の真実が実現しているので、道に通達(つうだつ、物事を明らかに心得ていること)した為に、悟りによって悟られる限界がはっきりしないのは、この場合の悟るということが、仏法を窮め尽くす事と全く同じになって、悟る、悟られるの関係が成り立たないからである。自分の身に修得したところが、必ず知覚分別となって意識(慮知、りょち)で捉えることが出来ると考えていてはならない。悟りの究極は直ちに、完全に、実現するのではあるが、真実の存在は必ず現成(げんじやう)しているものでは無い。実現しているということは、これと決定して捉えることの出来ないものである。 麻浴山寳徹(まよくざんほうてつ)禪師が扇を使用しているところに一人の僧がやって来て、次のように言った。 「風性常住(ふうしやうじやうぢゆう、風の性質は常に目の前にある。四大・地水火風 のうちの風性とは、動くことである。動くことそのものを忘れて、風性の常住を概念で捉えることの誤りを説く為の導入である)、無處不周(むしょふしう、廻らざる所なし)なり、どういう理由で和尚はその上に、扇などを使うのであるか?」と。すると師はこう答えた。「お前さんは唯単に、風性常住を知っているだけで、風がどんな場所にも通っていく道理を、本当には理解できていない、馬鹿者であるよ」と。僧が反論していった。「無處不周底(むしょふしうち、底・ち は 的 の意の助辞)の道理とは一体どの様なことでしょうか?」と。これに対して、師はただ静かに扇を使うだけであった。僧はこの禅師の無言の説法に対して深々と禮拝して感謝の気持ちを伝えた。 佛法の證験(しようけん、確かな証拠)と正傳(しようでん)の活路(くわつろ 仏から仏に伝わった生きた仏法の在り方)というのはこのエピソードに示された通りである。風は常住であるから、扇を使ってはいけない。扇を使わなくとも風を感じなければ駄目だと思うのは、常住も風性も、両方共に理解できていないからである。 元来、風に譬えられる諸法は、仏法としてあるから、大地は常に 黄金 であり、ガンジス河や揚子江のような大河は常に 酥酪(そらく、牛乳を煮詰めて作る美味の食物) と言うべきであるが、これは仏道者が修行をする時に完全に実現されるのである。 ― 以上が道元著「正法眼蔵」の 現成公按 の拙訳でありますが、この思想の実践が 只管打座(しかんたざ) となり収斂している。各自がそれぞれの 身心脱落 の行によって「仏」となる道である。「ほとけ」とは道元によれば、「もろもろの悪をつくらず、生死に着するこころなく、一切衆生のためにあはれみふかくして、かみをうやまひ、しもをあはれみ、よろずをいとふこころなく、ねがふこころなく、心におもふことなくうれふることなき、これを佛となづく」と言っていますよ。 一般に、新しい考えや思想は、独創的な文体によって初めて可能になるのであって、そういう意味では 「何を」・what よりも「如何に」・how の方がより大事なことなのが納得できますね、実際のところ。