自分自身との対話・その四十九
今回は、人生の花見気分の追加を書いてみようと考えました。 今朝、起きがけに与謝野晶子の 「 清水へ 祇園をよぎる 朧月夜 今宵会う人 皆美しきかな 」の歌が、何故か頭から離れなかったからであるが、この乙女ティックな気分に溢れた晶子の和歌が、自称万年十歳の能天気な老人の、何気なく人生を振り返った際の感懐に、何とはなくにピッタリな感じがしたからでもある。 私が人生の途上で出会った人々が、皆美しかったかどうかはこの際しばらく不問に付すとして、美しくく、懐かしく思い出される人々の数が多いことだけは、間違いのないことである。 そして又、悦子との幸せこの上ない生活を送ることが許されていた、数十年間はとりわけ幸福感に包まれて、謂わば無我夢中でいられたし、能村氏との望外に遣り甲斐のある仕事に恵まれた、これまた数十年も、悦子との私生活にいやが上にも彩を加えて、幸せ感を倍加させてくれている。 この際立って有難かった二人の恩人も、既にこの世を去って 悟りの世界 に遊んでいるようだ。私はもうしばらくこの娑婆と呼ばれる迷いの世界に留まって、某かの御恩報じが叶うならばと、密かに念じつつ、願わくは余り見苦しくない晩年を送りたいものと、神に御加護を期待しているが、どのようになるのか、予測はつかない。とにかく、その時々での自分のベストを尽くしたい。その思いだけで、他には何の望みも持ってはいない。 それにしても、人間界は様々な災難や大障害が次から次へと、これでもか、これでもかと襲ってきては善男善女の心を痛ましめる。 今、地球上ではコロナウイルスのパンデミックが到来する寸前の状況にあり、我が日本国もその嵐の渦に巻き込まれつつあり、未曽有の混乱状態を呈しつつある。 それにしても我が国では大災害が続発し続けている。神戸を中心とした地震、東北大震災、九州での地震、台風や豪雨での各地の大惨禍等など、枚挙に暇がないとはまさにこの事を言うのであろう。 耳を疑うような人災、野蛮人そこ除けの凶悪な行為の続発、これはもう平和な国などと言う戯言を発していられるような状態でないことは、誰の目にも明らかな筈なのだが、平和ボケした我々には、その実相がぼやけていて、見極め難い様子である。 所で、旧約聖書の読みの方だが、「列王記」を読了してこれから「歴代誌」にかかるところである。ユダヤ民族と彼等を指名したヤーウェ、これはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神などとも呼ばれるが、唯一絶対の神なのだが、この神と人間との関係は本当に一筋縄では行かない複雑なものであって、多神教時代の古代世界にあって、謂わば新興の新宗教であったキリスト教の神の地位が、実に不安定なものだったことが、私のような異邦人には明瞭に見て取れる記述が、延々と記されている。 乱暴に要約すれば、時代が経つにつれて神との聖なる約束を忘れ、勝手な行動を恣にする人間集団に対て、神は飽きることもなく辛抱強く働きかける。残酷な殺戮も厭わない。一時は正道に戻るも、またぞろ神との約束を忘れ、忘恩の行為に赴く人間たち。 人間とは過ちを犯す動物である。それを、人間の愚かな習性を糺す神の制裁が、表面的に過酷に過ぎ、非情に見えるのも事実である。しかし、神を真に信じるのであれば、そう、まっとうな人間は当然ながらら、真実の神を信じなくてはならないのだが、神を信じる以上は、その神の御意思に背いた時には、正当な処罰、然るべき制裁の鉄槌を甘んじて受けなければならない。 これは、何時、如何なる場所に於いても当て嵌る事であろう。私は、そう固く信じる。 そして、人間は社会的な動物であるのだから、集団成員の誰が犯した行為も、集団全員が責任を免れない。そう、連帯責任なのだから。自分だけは例外だと盲信している呆気(うつけ)者がいても、呆気者は何時の時代でも、何処の場所にでも大勢いるようであるが、神の正義は厳正にして動かす事は許されない。 私は、他人を批難しているのではない。自分を悲しくも、反省へと駆り立てているだけに過ぎない。 弘法大師空海は弟子の死に際会して、「悲しいかな、悲しいかな、………」を繰り返し連呼したとか。私もまた同じ言葉を何度でも繰り返さなければならないのだ、「悲しいかな…」と。 花の命は短くて苦しきことのみ多かりき、と林芙美子は色紙に書いたそうである。花の命と見定めたなら苦しい事ばかり多く思い出される筈もあるまいと、人様に対して 美しい花などを誇らしげに誇示出来ない私などは、花の時節は短くて、楽しきことのみ多かりき、とでも日記の片隅に記したい気分でいる。 苦しいと感ずるのは誰でも一様であろう。苦しい背景があるからこそ、人生はいやが上にも美しく、且つまた限りなく愛おしい。そう、強く感じるのではあるまいか。 平和で、何の苦労も感じない「極楽」での生活は、さぞかし楽で、平安無事であろうが、その見返りには単調で、退屈極まりない時間の「苦しみ」が、永遠に、平板に続く苦しさを想像してみ給え。想像しただけでうんざりしてしまうではないか。 人間に限らない、生きとし生ける者にとって、この世はトータルとして素晴らしい世界である。その事実を今現在生の只中にあってよく享受出来ている者は、理屈抜きで知っている。実感出来ている。 そうだ、この世こそ、究極の極楽であり、天国なのだ。余計な考えは止めて、自分に許されている限りの楽しみを味わい尽くすに如くはない。泡の如くに生まれては消え、生まれては消えする生命ではあるが、一瞬は同時に永遠でもある。この時間の不思議を体感する者に、現に限りない、無限の幸せが無条件で与えられている。我々生命体は地球と言う、類まれに美しい惑星地球が生み出した、正統の子供たちなのであるから、その無限に準備された幸福を、余すところなく享受しつくそうではないか。 幸福を感じる事に、何の遠慮がいるものか。地球という偉大なる母親は、無際限な慈愛に満ち、我が子である物質と、そこから綻び出た花々である諸生命体を、大きな慈愛の光で包み込んでいて、くれるではないか。ただ、人間の無謀で、浅はかな営みだけが、様々な災いや惨禍を呼び込む基を作り出しているだけ。人間よ、悔い改めよ。身を正し、生まれでたばかりの赤心を取り戻す努力を、しようではないか。 現に、正当な罰が、然るべき考慮の下に施されている。我々は素のままの自分を取り戻す努力をするだけで良いのだ。様々な余計な心配は、杞憂に過ぎなかったと知る時まで。