自分自身との対話・その五十三
「辛い!」そう口の中で独り言のように呟くのが、最近の私の無意識な習慣、癖のようになっている。別にいつも辛いと感じながら生きているわけではない。単なる口癖にしか過ぎない。確かに、そうなのであるが、無意識にもせよ実際に「辛い」と感じていない者が、思わず知らず口走ってしまうにもせよ、辛いなどとは言わないであろう。 であるからには、私の無意識の識閾下では、少なくとも某かの、辛さを感じつつ生きていることになる。 辛いと感じながら生きる事は、そんなに恥ずかしい事ではないから、その事実をむきになって否定する必要もあるまいとも思うのだが、それでも何だか辛いの表現にある、人生否定の響きが私を何故か怯えさせる。けれども出来れば「嬉しい」とか、「楽しい」とかの肯定的で、前向きな言葉を発するような、発言を自分の口からは、期待(?)してしまうのだ。 これまでの人生を振り返って見るときに、自分の中に「第三者的な他人の眼」が入り込んだ、十歳か十一歳くらいの思春期の始まりに、「辛い」は言葉にならなくとも、私の生きる際の 基調低音部 を構成し始めていた。その最たる時期、無意識に自殺を願望する非常に暗く、暗鬱な高校時代なのである。 何故、あの時期にそんなにも自分の死を望んだのかは、今では全く分からなくなってしまっているが、恐らく生きる衝動の中には、半分以上は死への衝動が、隠れるように潜んでいるような気がする。 それはそれとして、最高に楽しい時期は、勿論、運命の女性・悦子との出会いから宿命の永別までの四十年間であった。無我夢中に楽しかった。 その反動として「辛い」のかもしれないが、むしろ悦子によって長い間、遮断されていた暗い情念が、またぞろ顔を出して来たと考える方が、自然であろう。つまり、振り出しに戻っただけなのだ。 それにしても、人生で四十年以上も「楽しく、嬉しい時間を経験できた」なんて、なんて幸せな人間なんだろうか。物語のヒロインが「千年も、万年も生きたいわ」と呟く場面があったけれど、願望としてはわかるのだが、少々欲張り過ぎるように思うのは、私の持って生まれた貧乏人根性の現れなのだろうか。 私も人並みに欲張りだけれども、千年の幸福、万年の有頂天は夢にも期待しない。と言うよりは、その能力が最初から欠乏しているのだろう、きっと。 幸せの余韻、幸福の思い出と充実感の手触り。お陰で今も、十分過すぎる程に満ち足りていられる。感謝、感謝、またまた感謝。 足るを知った者として、人生ってなんて素晴らしいのだ。生きるって苦しさを伴っていてさえ、これほどに素晴らしかったなんて、人間冥利に尽きるではないか。誰に感謝すれば良いのか。勿論、直接的には私の両親に始まり、無慮無数の人々の御蔭様なのだが、究極は絶対者たる神様、仏様の慈愛に行き着く。 そして、私の場合の幸福への開眼者は愛妻の悦子であるわけで、どうした風の吹き回しでこうなったのか、未だに私には真相が理解できないでいるけれども、兎に角、有難さに涙が溢れるばかりなのだ。 こうして、私にとっての自己理解とは、永遠の未解決に終わるしかないのだけれど、結果よければ全てが善い道理で、少なくとも私にとっては全てが最善に仕組まれていたわけである。 と言うことは、これからも、結論めいた事を言えば、万事が目出度し、目出度しで終わる定めであることは自明なのだ。 こう書いてくると、私にはある決まった不安が頭を擡げる。つまり、誰か具体的には分からないが、自分はこの世で一番の不幸者だと考えている人がいて、その自称最悪最低の幸福弱者が、私に向かって例えば、こんな風に難癖をつけるのですね。 「いい気なもんだよ、全く、実際。世の中には生まれながらに不幸にまとわりつかれて、どう転んでも一生涯 幸福 などというお目出度い物を自分の物にすることが叶わない輩が、五万といて、ひいひいと生まれてから死ぬ瞬間まで、血の涙を流し続けて、神や仏をむしろ恨み続けて地獄に落ちるのだ。それを何だ、貴様は、ちょっとばかりいい目を見たからといって、舞い上がりやがって、自分勝手な詰まらない御託ばかりを並べやがって、一人でやに下がっていやがる」 ―― まあざっと、こんなような啖呵を切って私に言いがかりをつけてくる御仁が、きっと大勢いるに相違ないのですからね。 待ってください、話は最後まで聞いていただきたい。私の申し上げたい事は、私如き者ですら、こんなに幸福感の安売りめいた恩恵に浴することが出来ているのですから、世の中の九十九%のお人は、御自分が認定、或いは判定なさっている事柄に、著しい誤認があることを申し上げたいだけなのですよ。 つまりは、この世に生を享けたもの全てが、現に例外なく幸福を享受出来ている、という事実を指摘したいだけなのであります。 自分を不幸だと感じている人の全部が全部、例外なく何か勘違いをしているか、もしくは勘違いをさせられているに相違ないのですね。これ、私の独断でも何でもない。禅の達人は言っていますよ、「足るを知れ」と。 そもそも人間の欲望にはきりと言うものがなくなってしまった。それは人間の文化が持つ、反面のマイナス要素となっている。ご存知のように、野生のママの動物には本能しか生きる指針は与えられていない。だから動物は本来的に、「足る事を知っている」。獲物を貪り喰らうが、それ以上を決して求めない。自分の生命を繋ぎ止めるだけで十分だと、本能が教えているから。 従って、本能のみで生きる野生動物の生き方は、すこぶる清潔なのだ。 それに比べて、「余計な文化という夾雑物」をしこたま溜め込んだ人間は、野生を逸脱した分、それだけ謂わば野生動物より 不潔 な生き方を余儀なくされている。 人間の誇る人工物・文化そのものが、私たちの生き方にある種の歪みや過誤を齎している。自然な生き方を遠の昔に忘れ去った人類は、その代償として高額な代価を支払わなければならないのだ。 ずばり言ってのければ、我々の生き方はいびつであり、歪んでおり、不潔極まりないわけだ。誰を恨むわけにもいかない。我々が望んで手に入れた「大切」なものなのだから。 文化による恩恵も勿論あるが、幸福をそのまま素直に受け止める能力を、急激に失わざるを得ない事態が到来して久しい。何事も、良いことの裏側には、不都合や悪がついてまわる。この単純な事実をよくよく噛み締めようではありませんか。 そして、生まれた侭の幼子に立ち返り、素直な心を取り戻す努力を、今日からでも始めようではありませんか。そういう気持ちになっただけで、世の中が何かバラ色に見えることを、実地に体験するべきなのです。そうです、貴方は世界で一番のとんでもない幸福長者なのですからね、ホントの話がです。