自分自身との対話・その五十八
旧約の読みは、雅歌、ソロモンの歌を終えた所である。コヘレトの言葉には「空の空、すべて空である」などと表現される箇所があるらしい。そうした如何にも宗教書に相応しいと感じられる言葉には、今のところ遭遇していないけれども、私の今の感受性にダイレクトに触れては来ないけれども、古来から現在に至るまで無数の人々によって読み継がれてきたバイブル・聖なる書物なのだから、これからも心して味読を続けなければいけないと考えている。 私には今、或る漠然とした予感のようなものがある。例えば、長年使い慣れてきた自分の肉体や、精神構造に対する、感謝と畏怖の念とでも言ったら、アバウトではあっても、実感に近い或る「感覚」のクローズアップ化とでも呼ぶのが、今思いつく限りではベストな表現になるのだが、何かもう一つぴったりと来ないものがある。 具体的に言えば、自分の現在ただいま行っている行動や、意識の動きを「客観的」に観察し、分析し、これは何故その様な動きなり、行動なり、生理現象なりが始まったり、始まらなかったり、意識と肉体の反応がどこかちぐはぐであったりするのか。などと、自分が意識しないうちに、意識が勝手に動き出して自分のあらゆる反応や行動に、ある種の違和感、と言うか、驚きの如き感覚を抱いたり。 と、まあ、言葉にすると複雑な印象を与えるかも知れないが、ともかく、一種の意識の「遊離現象」が自然に動き出して、それに畏怖感を感じたり、感謝の念を覚えたり、と様々な自己分裂状態を経験して、不思議の感に打たれている。 自己分裂状態と書いたが、言葉の生理としてそう表現するしか私には、仕方が分からないだけで、実は自己分裂など少しも起こっていないことを、強く意識している。 自己を知らぬ間に眺め、分析している、もう一人分の意識が派生した、と言ってもいい。これは、退歩であって、老化の一種なのかも知れないと、思ったりもしているが、進歩である可能性は、余り感じられないでいる。 つまり、この現象にはある種の「苦しさ」が随伴しているから、そう思うのであって…。この分裂した意識はない方が楽だったので、そう言うのだが、まさしく起こるべくして発生してきた、自然な成り行きであって、病的なそれでは全くないと、感じてもいる。 つまり、幼少期の自他の共存を自覚した境目が、ここでまたもう一つ増えたわけで、第三の自己の誕生とでも呼ぶべきものであって、他の人の事は分からないが、極めて自然そのものの成行きと言えるのだ。 三年程前から麹水を飲み始めて、腸の状態が良くなった為か、長年苦しめられて来た花粉症が劇的に改善した。神のお告げがあった如くに、良いと聞いて即刻実行し、快調、快腸なので毎日欠かさずに継続している。実に有難いと感謝をしつつである。 神とか、仏とか、殆ど抵抗らしい抵抗を感じないで、言葉に出して言えるようになったのも、「老化現象」の一環なのであろうか。 そう言えば、謙虚とか、感謝とか、他者の為とか言う表現も、六十歳を過ぎてから気軽に、ごく普通に口に出せる様になった。こうして考えてくると、あながち老いる事は退歩ばかりを齎すものとも限らないことが分かる。 ごくごくの幼少期に、母方の祖母が毎朝、仏壇に向かって「南無、妙法蓮華経」と繰り返し唱えていたが、あれは宗教心もあるが、声に出して言葉を唱える事で、無意識に自分の健康増進を図っていたに相違なく、そういう実用的な効用がなかったなら、毎日、欠かさずに長時間の勤行は励行出来なかった筈と、大人になってから往時を振り返って、そんな風に思ったりしている。 意識と無意識と、この両者が絶妙のバランスをとって、私たちの行動や意識を操縦してくれている。これもまた、神仏に感謝しなければならないことの一つである。 考えてみれば、自分の物などというものは、何一つ持ち合わせないでこの世に生まれて来て、また何一つ持たずにあの世に旅立っていく我々であるから、この世での事柄は全てこの世で精算してしまわなければならない。 今の私には、自分の命を運んで、行くところまで行く役割しか、残されていない。その他は何をしても、或いは何をしなくとも、誰からも何も言われる気遣いはない。但し、人様の生活や行動に妨害となる迷惑行為をしなければ、という条件が付いている。 これに関しては、私に限らず、誰の場合でも同様であるから、殊更に附言する要もない。 私がただ一つ、これだけは死ぬまで続けようと熱中している行為がある。それは源氏物語の現代語訳であるが、何故にこの不要不急の「仕事」にこれ程、こだわりを持つのか。自問自答してみる。 それは、個人的な行動ではなく、やはり社会的な、他者に向けての行動であるからです。そして、これが一番の動機になっていることですが、それが人々が生きる活力を生み出すエネルギーとなると、確信しているから。 ですから、私の主観的な動機からすれば、大事な、意義あることであっても、人によっては「大きなお世話」ということになりかねない事柄です。ある意味で、確かに「大きなお世話」なのであります。 しかし、この世でとても、とても大切な体験に偶々遭遇した私にとっては、大きなお世話どころか、大きな手助けと考えてのこと。 万人に向かって自由に開かれた素晴らしいフィクションの世界がある。それは人の世のどの様な宝物や宝玉にも勝る、夢の如き、魅惑に満ち満ちたファンタジー空間なのだ。とりわけ、日本人と生まれたからには体験しなくては損、と言うか、勿体無い、生まれて来て本当に良かったと、実感させる、ミラクルワールドなのだから、例え大きなお世話と排除されようとも、多少は強引な宣伝を敢えてするに値する、大きな値打ちのある、本物の中の本物であるからこそ、強く、激しく、アピールし続けなければならないと、人から頼まれたわけでもないのに、浅学非才を顧みず、ドンキホーテよろしく、ある意味自分の恥を世間に晒す嵌めに陥っている。 でも、無駄に終わろうと、黙殺の憂き目に遭おうとも、私としては一度思い立った目標に向けて、果敢に突撃しないではいられない。まさに、運命の出会いが、愛妻との出会いと同等に、絶対者によって仕組まれていた、そう思わずにはいられない、闇雲な衝動に駆られている。 源氏の偉大なる作者は言う。人に語ったからと言って、それがどうなるものでもない。ただ、世の中に生きて来て、見聞きした事柄で、見るにも飽かず、聞くにも飽かず、自分一人の心の内に籠めておくことが出来ないで、自然に語りだしたところ、何だか興が乗って、気がついたら、こんな五十四帖にも及ぶ長大な作品になってしまった。これは、無名の作者の見果てぬ夢の集大成である。お気に召していただけたら、これに勝る幸せなことはありません。と、日本人の最大の美徳で、作者は世界に比類ない珠玉を懐に秘めて、尚且つ、非常に謙虚なのであります。 私の如き、おせっかい焼きの野人が是非とも、頼まれもしない提灯持ちをしなくては、どうにもならない瀬戸際に、もうすでに久しい以前から追い詰められているのであります。 この世での全てに絶望した、お気の毒なお方が、居られましたら、是非とも、自暴自棄の最中にでもこの物語に注目して、騙されたと思って、ひと時でも結構ですから、時間を割いてみてください。 世界観が一変することは、請合いです。嘘でも、一回、騙されて見てくださいませ、どうぞ!