自分自身との対話・その六十四
私はわざわざ断るまでもなく、凡俗中の凡俗である。謙遜でも何でもない。ありのままを正直に述べているに過ぎない。大きな野心もなければ、だいそれた下心もなく、ただ只管に、生かされてある存在である。 だから、人様に誇るべき何物をも、悲しいかな持っていない。ただ、自ら密かに心の中で誇りに思っている事はある。 ここまで書いてくれば、私のブログの有難い読者である少数の奇特な御方は、ああ、またもやあの事を書き出すのだな、と感づかれた筈です。はい、御明察の通りであります。 理由は不明ながら、不肖・古屋克征、念の為に申し添えますが、姓の方は問題ありませんが、下の名前の方が、正しく読まれた事がただの一度もありませんので、申し添えたいと考えたのですが、正しくは「かついく」と言います。昭和18年の八月に生まれており、戦時下ですので、敵に「克(か)ちに征(い)く」と言う御時勢に合わせて名付けられたもの。母親は、かついく、だなんて、おお嫌な呼び名だこと、と最初思ったそうです。そのせいかどうかは知ませんが、母親は専ら私を「かつ坊」と呼び続けて、私が成人してからも、それは変わりませんでしたよ。 それはともかく、愛妻悦子は終生私を「かついく さん」と呼び習わしてくれましたね。悦子の生まれた青森では、英語風に下の名前を「さん」とか「君」とかの敬称を省くのが普通で、この事からも、悦子が何故か夫を常に一目置いた形で接してくれていたことが、よくわかるのでした。 そう言えば、成人した後に息子たちから聞かされたことですが、「あなたたちのお父さんは、とても偉い人なのですからね」と、常々教えていたとか。だから、子供たちも、何故か理由は分からないながらも、偉いお父さんを、優しくて時に怖い母親が無条件に尊敬していた事を、肌で感じていたようです。 こんなエピソードがありますよ。 当時の私は若手のテレビドラマ・プロデューサーでしたから、仕事では数百万から数千万、時には億単位の大金をその職能上で動かす権限を持っていましたが、身分はサラリーマンですから、個人の収入としてはまあ貧乏の部類に属する、しがない生活を送っていたわけであります。 ですから、子供たちにも「家は貧乏なのですから、贅沢は出来ませんよ」と口癖のように言っていた。所が父親の私は、仕事上で、職能の性質上、酒席での接待が欠かせませんでした。良いの、悪いの、の問題ではありませんで、当時はそれが必要であった。必然的に帰宅が遅くなる。夜明け方になるのもしょっちゅうでした。 ある時、駅から歩いて十分、子供の足でも十五分という距離に我が家、賃貸の団地があった。幼い息子二人は駅前からバスも出ているが、タクシーに乗りたいと駄々をこねた。妻は、「家は貧乏なのだから、そんな贅沢は許しません」と子供たちの要求を断固として、撥ね付けた。 それは、それで済んだのですが、数日後、二人の息子は何か重大な決意の表情を面に浮かべながら、妻に言ったそうである。「お母さん、あのお父さんの毎日使っているタクシーは、止めてもらわなければダメだね。貧乏な家が益々、貧乏になってしまうからね」と。言葉に出さなくとも、子供達の思っていることは手に取るように分かります。本当に家のお母さんたら、僕たちにはとても厳しいのに、お父さんにはとても甘いのだから。公平に家族に接してくれないと、僕らが困ってしまうのだ、と。 後日、妻は苦笑しながら、こう言ったものだ、「私、本当にどう言ったらよいか、困ってしまったわ。あのお父さんのタクシー代は、家計から出るのではなく、仕事の経費なのよ。そんな説明をした所で、子供達が素直に納得してくれるとは、とても思えなかったから」と。 子供を育てるという仕事は、本当に大変なのだと、うっかり者の私はつくづくと実感したものだった。 サラリーマン現役の時には、子育てにはノータッチできた私だったが、定年後は、学習塾の講師という形で小学生から高校生までの子供や若者と接する事で、自分の息子達には出来なかった子供への指導や教育に、曲がりなりにも役割を果たす機会を持つことになった。 子供に接するチャンスは、大人達とのそれ以上に、「学習」や「学び」について、より深く、幅広く考える時間を与えられる事となり、有意義で楽しい体験を重ねる事となった。 自分の子供達とは、大人になってから、長年の夢であった お酒を一緒に飲む 機会を、嫌というほど持つことが出来ている。実に、私としては、至れり尽くせりの至福の時間の贅沢を、これ以上はない程に満喫出来ている。ただただ、頭を垂れて神仏に、その広大無辺の慈愛に、衷心より感謝の念を捧げるのみ。 実に、山あり、谷あり、起伏に富んだ人生であったが、思い残す事は一つとしてない。悦子の事に関しても、名残惜しい、という本音を押し隠して、十分に満喫し尽くした。そう、言い切っているが、人間の欲望には限(きり)も限りないので、それこそ、千年も万年も一緒に暮らしたかった。共白髪、と言っても私の方は禿頭で毛髪半分以上を失ったから、ハゲの爺さんと、白髪の婆さんであったろうが、しわくちゃの老人夫婦が仲良く肩を寄せ合って、鶴や亀の如くに生きたかったよ、本音の本音を言えば。 でも、思い切りの良い悦子が、潔く、実に見事に死んでいった姿を目の当たりにした時、これで善かったのだ、何から何までが。そう、得心することが出来た。その点からも、悦子は私には過ぎた素晴らしい女性であったと、遅まきながら二度惚れし直した次第。 前に、永劫回帰というフリードリッヒ・ニーチェの用語を使ったが、これは心底から信じている私の確信であって、永劫の時間経過の中で、私と悦子はそれこそ永劫回数出会いと邂逅を繰り返すわけなので、その事を思えば、私の辛抱しなければならない時間など、物の数ではない。 ですから、永劫回帰なる言葉や概念は、私の為に出来ていた言葉であって、決して借り物や、人真似の安易な着想ではなかった。 神さえも創造してしまった(?)人間の一人であるから、永劫の時間の中での繰り返される出会い・邂逅と言った概念を勝手に(?)に使ったからと言って、別に人を驚かせることにはならないだろう。そんな風に、自分流を堂々と主張する、私の如き変人が居たって、それ程罪作りとも思わないのであります。 えつこ曼荼羅つれづれ草と命名したので、もう少し、悦子に直接関連した事柄を述べてみましょうか。そう、今改めて読み直している Bible の本ですが、新婚の頃に悦子が私にプレゼントしてくれたもの。当時、私の妻と自ら称することがよほど嬉しかったと見えて、「克征さんへ 妻 悦子 より 51.11.30」と妻の手跡で書かれている。当時は、例によって何とも思っていなかったが、改めて後から見直す度に彼女の熱い思いが偲ばれて、思わず知らず目頭が熱くなる。 当時の悦子は、あれこれと私の物を買って、私に与える事に無上の喜びを感じていたらしい。らしい、と言うのは、これもやはり、後になって当時を振り返った私の気づきから、そう書くのである。 「昭和54年8.18 克征 36歳の誕生日プレゼント 妻悦子より」と記された、高価なモンブランの万年筆を収めた立派なケースにも、悦子の手で、書かれています。 ある時、或る女優さんから、「古屋さんは、とてもお洒落なのですね」と声を掛けられた。自分をお洒落などとは夢にも思ったことのない、野暮天を自認する私です。余りに思いがけない言葉だったのでそれも相手が女優さんだったこともあって、慌てた私は、「いえ、いえ、とんでもない。いつも家内が、これを着なさい、あれを着なさいと言って、買ってくれた物を、ただ身につけているだけですから」と、なんともはや、愛想のない返事をぶっきらぼうに返してしまった。そう、反省したのも、後になっての事でした。思えば、女性が、女性の目線で愛する者を、少しでも見良くしたいと細心の注意を傾けた結果が、女性の感性にフィットして、お世辞混じりの褒め言葉となった。「有難うございます。○ ○ さんにお褒め頂いて本当に嬉しいです」とか、何とか、答えておけばよかったものを。野暮な男は、どこまで行ってもスマートには行けないものですね。 所で、こんな野暮天に首っ丈、だった悦子も、余程のゲテモノ好きだったわけですが、対象となった私の方は、飛んだヒロイモノを労せずして手中にした、果報者だった。 私はつくづく、自分自身を 悪運が強い と考えている。また、実際その通りだと思うのだが、ちょっと謙遜して、我々夫婦を割れ鍋に綴じ蓋、丁度釣り合いの取れたカップルだと思うのだが、私は構わないのですが、相手の悦子が余りに可愛そうと感じるのは、惚れた欲目からだろうか。いや、いや、そうとは決して思えない。悦子は何処に出しても、誰にも引けを取らないれっき(歴)とした最高レベルの女性である。いえ、いえ、私の過褒な形容と仰る。これについては客観的な証拠があって、知る人ぞ知る、明々白々の事実であります。諄いので、これ以上は言い募りませんが、さて、その素晴らしい女性で、しかもとびっきりの美人女性が私の妻に、それも、押しかけ女房さながらな経緯で、そうなったについては、悪運ながらに、やはり運が人一倍つよかったのだと、結論づけて置くことに致しましょう。毎度、御退屈様で御座いました。 こうした形の「自己対話」も、満更ではないと、ひとり悦に入っている子どものような、ボケ老人。彼は今、懸命に自己の道を模索し続けているところであります。まだ、今の段階では……。