自分自身との対話六十七
聖書の旧約聖書の部分は、一応は、一通り読了した。けれども、内容理解に関しては殆どが 上の空 の状態にしか過ぎない。然るべき解説者がマンツーマンで付いてくれて、適切な解説を施してくれない限りは、十全な理解などは覚束無い。 これでも、若い頃からキリスト教信者ではないけれども、素人にも大まかな聖書理解が可能なような解説書やら、その他折に触れて、断片的ながら、旧約、新訳の別を問わずに、聖書には様々に接してきており、全くの初見ではなかったのだから、宗教書というものは専門家でもない限りは、十分に行き届いた理解というものは、なかなか難しいものなのであろう。 理解が難しいのは、何も宗教ばかりではない。一人の人間を正しく理解することだって、それに劣らないくらいに難しいことだ。しかし、誰に対してもその難しい作業をしようなどとは、誰も考えたりはしない。その場限りの人間関係では、その必要性も皆無だから。 しかし、自分の生涯の連れ合いともなると、そんな暢気な事は言っていられない。謂わば必死にならざるを得ないから。必死だろうが、そうでなかろうが、理解などという元から難解な作業は、その性質を変えてなどはくれないのだ。 所で、またもや私の「十八番」とも言える 悦子談義 の続きを、飽きもせずにまたぞろ書こうというのは、私の知識や関心が極端に狭隘だからという理由だけではなく、この世に生を受けて、最も強烈な影響を受けた、そのたった一つの理由による。 だから、私は自分にとって一番書きたいことだけを書くのみ。 今、悦子の幸せそうな顔がありありと脳裏に浮かぶ。「お父さん、素敵!」と満面に笑みを浮かべた悦子がテーブルを挟んで、ソファーの上に座っている。私はカラオケのマイクを片手に、五木ひろしの「細雪」か何かをいい気分で唸っている。多分、悦子の隣には彼女の親友・長谷礼子さんが、静かな佇まいで拍手かなんかを私に送っている ―― こういう実に平和で、庶民的で、無邪気な時間が、何度も、何度も繰り返し展開した。これだけでも、私の人生は比類もなく、素晴らしいものであったことが、分かっていただけるのではないだろうか。自分でも、そう思うし、何て幸福な生をエンジョイしたのだろうかと、しみじみ感じる。 しかし、私の十代は概して暗かった。暗かったばかりではなく、かなり深刻に厭世的であった。この世の苦しみを自分一人が全部背負い込んでいるような気分だった。何故そんなにまで暗く落ち込んでいたのかは、自分の事ながら皆目見当がつかない、今になってみれば…。 だから、自分に恋人、そう、恋人と呼ばないまでも、自分を愛してくれる異性が出現するなどとは、とても想像出来なかったし、ラブストーリーなどというものは、みんな他人事と考えていた。 それで、齧り始めていた覚束無いドイツ語で以て、ゲーテの「若きウエルテルの悩み」の原書に敢えて挑戦してみたり、随分と無茶苦茶なチャレンジも厭わなかった。天才で物質的にも非常に恵まれたゲーテに突拍子もなく憧れて、七十歳を過ぎた彼が十六歳の乙女と恋をした事実を知った時、思わず知らずゆだれが出るほどに羨ましく感じたことを、昨日の事の如くに明瞭に覚えている。 そんな私が、である。三十歳を目前にして、見目麗しい乙女から「愛の告白」を受けようなどとは、神ならぬ身の知ろう筈もなかったのだ。 人生とは不思議、且つ、皮肉なもので、強く願っていることは容易に実現しないで、夢にも思い描かなかった理想が、突如夢想だにしなかった形で瓢箪から駒の如き形で、実現したりする。 で、提案ですが、この世に絶望している人がこのブログを読んでいて下さったなら、もしくは、それに近い状態だと自らを自己診断される人が仮にいたとするならば、その人こそが、恵まれた輝かしい近未来を目前にしている。そう、考えて頂きたい。神は、仏は、その様な自分を過小評価している御人をこそ、第一の救済ターゲットとなさっておられるのですから。 親鸞上人の悪人正機の説をここで持ち出すまでもなく、救済の最大の目標は、実は最も謙虚なる者、自己を微弱で最悪と自己判定する人の、最悪の瞬間を待って、おもむろに救済の手が下される。いや、いや、その最も卑しむべきとの自己認識をこそ、最も尊いと尊重なさるのが真の 絶対者 たる存在の、必要が要請される刻(とき)なので、神仏はその紛れもない自己認識に照応して、慈悲心の発揚を開始するのだ。 これは、私の言葉だが、尚且つ私の言葉ではない。この事は、ある意味で自明すぎるくらいに明らかなので、これ以上の言葉を必要としない。 信じようが、信じまいが、それとは無関係に、絶対の真実は存在している。その理(ことわり)を知れば良い。 自力か、それとも他力かとの疑問がしばしば問題になる事があるけれども、二者択一でなくてはならない必然性はないわけで、自力であり、同時に他力であって、何も不都合はない。 けれど、啐啄同時という表現で表されている如くに、タイミングが非常に重要であろう。ヒナ鳥が卵から孵る際に、卵の内側から雛が殻を嘴でつつくのと、母鳥が外から啄くのとが同時でないと、上手くいかないと言う。それと同様のことが、画期的な事態の変化については言えるのである。 これは今までに、悦子にしか話したことのない、正真正銘の私の 内緒事 なのですが、内緒事と言っても別段他人に聞かれるのが憚られる様な内容ではなく、人として余り他人に大声で話さないほうが礼儀に叶っていると考えるので、それともう一つ、これに携わった相手の人が居られる訳で、そのプライバシーを大切と考えるので、誰にも話さずにいた事柄だった。 しかし、それも謂わば一種の「時効」が成立している程に時間が経過してしまった今では、実害はないだろうと判断したので、秘密の箱を開ける気になったのである。 なんだかもったいぶった、気を持たせる言い方が続いているので、単刀直入に申し上げましょう。 私は悦子と結婚する前に、少なくとも、三度、結婚していて不思議はない相手と、不可思議な擦れ違いを経験している。大真面目で、真剣にその女性と結婚するつもりでいたし、相手も私に負けず劣らずに、私との結婚を望んでいた。客観的な状況も、個人的な気持ちの在り方から言っても、それは間違いのない事実だったと思う。 しかし、何か目には見えない不可思議な力が働いて、私と相手の女性は結びつかなかった。これを運命と呼んでしまえば、それまでのことで、何も不思議などは存在しない。 ただ、悦子と電撃的な、奇妙な邂逅を経て、幸せな結婚生活へと導かれた時に、ああ、そうか、あの不思議な力は、このためにあの瞬間瞬間に私と相手の方に働きかけ、然るべき方向へと導いたのだ、とストンと納得がいったのだから、これも不思議と言えば不思議な現象ではないだろうか。 それもこれも、私が悪いと言えば、悪いのだ。何故ならば、悦子は永劫の時間の間、ひたすら私との再会をのみ念じて余念がなかったのに、私の方はと言えば気の遠くなるような永劫の時間経過があったとは言え、悦子の記憶を忘却の彼方に置き忘れてしまって、すっかり失念してしまっていたのであるから。どう考えても私が悪いに違いないのでした。 自慢ではないが、私は正真正銘の 凡人 であり、普通の盆暗(ぼんくら)なので、永劫という時間の経過に耐え切れずに、忘却という自然の流れに容易く乗ってしまった。そして、安閑として惰眠を貪ってしまった。その為体(ていたらく)が悦子に掛けなくともよい気苦労を掛ける結果と、なってしまった。悦子には実に済まない気持ちで今は一杯なのだが、次の邂逅の折にも、再び、三度、同じ過ちを犯すであろうことは自明なのであります。実に不甲斐のない自分だと反省頻りなのだが、こればかりは直すことが不可能であろうから、次の機会には精々私のなけなしの愛情を、あるったけ振り絞って、悦子の有難い愛情に応えたいと、衷心から念じてはいるのであります。 バカは死ななきゃ治らないとか。私のバカは程度が度を越しているので……。いや、いや、よそう、よそう、こんな私でも悦子は全身全霊を込めて、私を全面的に受け入れて呉れるのに間違いないので、私は自然体で彼女の愛情を素直に受け入れる事に、専念したいと思う。悦子さん、どうぞ、宜しくお願い致します。悦子の優しい笑顔が私の目の前でにっこりと笑って、無条件の許容を示してくれている。有難いことであります。有難い事であります、本当に。