自分自身との対話・その七十三
叩けよ、開かれん。求めよ、与えられん。とイエスキリストは言う。 狭き門から入れ、とも。野に咲く百合の方が、栄華を誇ったソロモン王よりも豪奢な衣装で着飾っている、とも喝破している。見事だと思う。この言葉だけを取ってみても、イエスが神の子である証明は既になされている。人間には、どのような天才であっても、この様な語句を口にする事は出来はしないのだ。 聖書を繙く時に、イエスキリストは様々な奇跡を何気なしに、事も無げに行っている。その見事な実施で難病からたちどころに解放された当事者や、不可思議千万な奇跡を目の当たりにした人々は、イエスの神性を文句なく信じた。ただ、ユダヤ教の宗教的支配者たちだけは、イエスをメシアとは認めず、邪魔者として排斥し、尚且つ殺し抹殺しようと意図する。 イエス自身も、彼を人間界に或る一定の目的のために送り出した父なる神も、それをよくよく承知していた。否、と言うよりも御自分の愛子を重罪人と一緒に磔の刑にかけるのが、父なる神の最初からの計画であった。そして、当然の如くにイエスは無残にも刑場の露と消えた。その後に復活という謂わば人間にとって驚異的な劇が仕組まれていたとは言うものの、神ならではの破天荒な計画は、つつがなく遂行される。 これは、人類の罪咎を救済する神の御業であると言う。そうであろうか、そうでもあろう。それだけであろうか、と私は疑うのだ。何故なら、人類による罪や咎はいまだに救済されず、ますますその量を増やしている。これは、神の誤算であろうか? いや、いや、そんな筈もない。現状も、すでに神は織り込み済みであろうから。然らば、我々はイエスの死をどう受け止めたらよいのか。 神による無償の愛の顕現。神は斯も偉大なる愛情を無条件で私たちに示された、何の見返りをも期待せずに。 爾の隣人を己自身の如くに愛せよ。左の頬を打たれたならば、右の頬も差し出せ。絶対の慈悲そのものである絶他者にして初めて言える、徳高い言葉。 だから、イエスキリストの磔の刑は、復活を待たずに完結した。そう見るのが本当だろう。神は我々人間と同じ低い地平にまで降りて来られ、甘んじて最悪、最低の境涯に身を置かれた。それも最愛の我が子にそれを課された。 人間である私は思うのだ。自身で耐え忍んだ方が、どれだけ苦しみ、悲しみが少なくて済んだことか、と。 この神による無限の愛情の傾注、有り余る慈愛の顕現。( えっ、証拠を示せ、ですって…。あなたは、そう仰るあなたは、本気でそう仰るのでしょうか? いえ、いえ、こう聞き返したのは、私にとって改めて証拠を示すことなど、思いもよらぬ事だからなのです、実際 ) 事新しく述べるまでもなく、この世は「奇跡」の集合体にほかなりません。見るもの、聞くこと、全てが不思議・奇跡の連続ではありませんか。もし、本当に、マジで「奇跡の証拠を」と言うのでしたら、私も真面目にお答えいたします。あなたが生きている事自体すでに奇跡の最たるものではないでしょうか。空を見上げてごらんなさい。太陽や、月や、無数の星星が煌めいているではありませんか。風が、野の草木があなたに語りかける声が、聞こえないのでしょうか。あなたが現に此処、地上に在る不思議を篤と噛み締めて見てください。改めて、証拠をなどと言われると、冗談を聞いたのかと、耳を疑ってしまうのは、私だけでは無いはずです。 私が申し上げたい事は、我々は全員が「絶対者たる神」の申し子なのだ、という紛れもない事実なのです。キリスト教徒であろうと、なかろうと、でありますね。つまり、イエスキリストと同列に置かれて然るべき神の愛子(いとしご)にほかなりません。 私が、折りあるごとに、最悪、最低の境遇に喘いでいる者こそ、最も神からの愛に浴している。そんな風に、一見は奇妙に聞こえる 逆説 を度々口にするのも、故あっての事なのですよ。 可愛い子には旅をさせよ。昔の人は言っています。可愛いと思う子供だからこそ、危険を伴う旅という環境に敢えて身を置かせて、子供の成長を密かに願うのが、子を持った親の務めと言うもの。手元において見守り、甘やかす親バカを事前に排す賢い育児法を、経験上から学び、それを子々孫々に伝えた。 人間の、人の親の人情の機微をよく弁え知った先人の知恵であります。昔より、全ての面で現代の方が勝り勝れている。そうした俗耳に入り易い迷信が、知らぬ間に私達を毒している。悪しき進歩主義の弊害であります。何かがプラスになれば、何かがマイナスになる。これが、解りきった道理と言うものです。が、とかく私たちは目先の幸運に目がくらんで、この初歩的な道理を忘れがちであります。 全てがよいなどという、子供だましの目くらましから、早く脱却するに如くはないのです。 同時に、全てが悪い。最悪だ、と絶望する悲観主義からも、早々に逃れて、健全で明るい心の健康も一日も早く取り戻したいもの。影が出来るのは、身近に日差しがある何よりの証拠ではありませんか。視点を少しだけ変えれば、全く異なる展望が開けるのは、謂わば当たり前の事であります。そしてまた、その影の色が濃ければ濃いほどに、指している日差し、光の強さが強いと知るのが、初歩的な知恵と言うものでありますね。 世の中、明るいと見るのも、暗いと感じるのも、共に誤りと認識しよう。そして、ごく常識的な人生観を身に付け、自然に身内に湧いてくる感謝の気持ちを、大切に保持しよう。これが、何よりも人間として大切な基本なのですから。出来れば、素直な、プラス志向の心を育て、人々と共に明るい未来に向けて足取りも軽く歩み続けようではありませんか、如何? そして日本に於ける極めて男性的、理知的、プラス思考の代表のような御方に弘法大師空海がいます。切り裂く・男性原理を縦横無尽に駆使して、密教の奥義を見事に打ち立てているのは、誰もが知るところ。即身成仏、密教、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅等、極めて現世利益的な色彩の濃い宗教人でありますが、情けの人でもあり、とても人間臭い御方でありました。若き頃の人生に対する強烈な懐疑の時を経てて、仏教との劇的な出会いを経験なさった。暗黒から、突き抜けるごとき光輝へと大転換した典型例でもあった。現代でも、空海は死んではいない。即身成仏して、庶民とともになお生きておられる。これは仏教とは無縁のところでも、文字通りに信じられ、四国遍路の旅人だけではなく、人生行路の健気な旅人と共に永遠の旅路についておられる。 私がソクラテスやプラトン以外には、宗教関係の人物を多く引き合いに出すのは、特別に宗教心が強いからではありません。宗教心、信仰といった点からすれば、私はごくごく普通の、つまり平均的な日本人の一人であります。ただ、人生を深く考える際に、一番深く、要所を適確に突いていることにかけては、宗教関係者に勝る人が少ないので、自然そうなるだけに過ぎません。 空海を挙げましたので、包み込む・女性原理の代表のような伝教大師最澄も取り上げておきましょうか。何故、最澄を女性的かと言えば、その風貌と筆文字の印象もさる事ながら、比叡山延暦寺を根本道場とする天台宗という、総合大学的な仏教者の育成機関の開祖だからです。よい意味での女性原理をフルに発揮した代表のような存在で、日本では稀有なお方でしょうか。 最澄や空海だけではありませんで、日本には古代から宗教的な偉人が多数輩出して、我々庶民のよき導き手となっている。民族としての宗教心は、他の諸民族と決して引けを取らないものがあることを、歴史が証明してくれています。と言う事は、つまり人生の根本的な命題を深く掘り下げ、人間らしく生きる道を模索する基本的な資質に於いても、同様の事が言えるのです。 どの様なジャンルでもそうですが、何もリーダーや指導者になるだけが能ではないわけで、一人一人が自分自身を正しく教育し、成長させ、充実した日々を力一杯に生き切る。この事が肝心なのであります。 喜寿を迎えた私も、最後の時を迎えるまで、自己を精々成長させ、先祖から受継で来た命の命脈を、その最後を精々輝かしてみたいと、心に決めて居ります。 私の場合には、有難くも、勿体無くも、悦子が地上での活動を終えた今も、私の守り神として「肩の辺りに」位置して、具体的には、右の肩の一メートルあたりの空宙にですが、以心伝心で力を貸してくれていますので、ズボラで三日坊主、その上に意気地なしの能無しですが、何とか大過なく人生を全う出来る確信が持てているわけです。神のご加護と、その広大無辺な慈愛に、感謝、感謝、只管に感謝感激であります。皆様方に於かれましても、どうぞ、御自分の持って生まれた冥加を信じ、辛い時には、その神仏のご加護に頼り、すがり、与えられた命を最大限に輝かす努力をなさってみてください。 同じ時代、同じ日本に生を受けている者同士として、励ましあい、助け合って、日々をエンジョイ致しましょう。