自分自身との対話・その八十八
今回は、或る詩の自由訳から入ります。 淋しい、孤独だ、詰まらなーい 誰かが今日もぼやいている、淋しい、孤独だ、詰まらなーい おいらは、奴は本当に そう思っているのかと、思ってしまう あいつらは、実際、孤独だなんて感じているのだろうか… だってね、一人で、たった一人でいるのって、べらぼうに素敵なことじゃないか 実際、嫌な、ムカムカする人間どもの会話から逃げ出して 腐りきったアイツ等の臭いを避けて ひとりっきりになれる事ほど、素晴らしい事はないじゃないか 一人でいる そして木々が静かに成長している様を 感じる たった一人 夜空の月の光が 外の空気の中で 白く 心を込めて 静まっている ひとりぼっちでいて 感じるんだ 鼓動している宇宙が 静かに 静かに 揺れる 心を落ち着かせる 元気を回復させる 癒してくれる…… 心を静め 元気づけ 癒す それは おいらが一人 静かで偉大なコスモスと向かい あの神経を苛立たせるキーキー声の奴らから離れ 外気の静寂をガリガリとやるのを逃れて 奉 仕 ああ そうだよ 人間は奉仕することを学ぶべきなんだ お金になんかじゃないよ そうだ 命にさ ああ そうともさ 人間は服従することを学ぶべきなんだ 上司になんかじゃないよ 命の輝きにさ こういう人間の顔に浮かんだ それにだ つまり 諸々の神々の眼の中を ずっと覗き込んで来た 人のさ 人は こう言う場合にだけ 完全に人間なのだ つまり 人間性を 越えて 遥かを見ている時にさ これはイギリスの作家 D H ローレンスの詩です。興味のある方は、原詩をご覧下さい。これが彼の最高の詩作品だから訳したのではありませんで、この様な詩は D H ローレンスには沢山あります。偶々これらの詩は私の心に響くものがあったからであります。 彼・ロレンスは二十世紀イギリスが生んだ、徹底した個人主義者であった。彼には甘美でセンチメンタルな恋の歌など一つも見られない。個人と個人との間に友好の架け橋を誰よりも望んだ彼は、遂に絶望へと行き着くしかなかった。彼の名著「チャタレイ婦人の恋人」には彼の思想と切ない祈りとの全てが表現されている。自分の同胞たちに余りに多くを望んだ彼は、その返礼として絶望と強烈な嫌悪の感情を味わう事となる。 私は、二十一世紀に生きるオプチミストの代表のようなこの私には、正直、理解が及ばない所がある。しかし、類似した体験は閲してきている。腐れ切った俗人ども、見栄坊で、自己顕示欲が強くて、女好きで、或いは男好きで、ただただ物欲の権化の様な輩たち。人を、他人を愛してもいないくせに、やたらと好人物めいた顔をして、一円でも多くを相手からふんだくってやろうと、常に手ぐすねひいて待ち構えている狡猾至極なエゴイストの群れ。考えただけでムカムカする、思っただけで虫唾が走る。上に示した詩の心理は殆ど私のものであるとも言える。人間好きで、お人好しで、それ故に裏切られ、臍を咬んで来た若き日の私の、心に秘めた感情の数々に酷似している。 個人主義を克服する手段として人類が考え出したものに、共産主義と社会主義とがある。 共産主義は、財産の一部または全部を共同所有することで、平等な社会を目指すもの。また、社会主義は、個人主義的な自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公平な社会をを目指すもの。 思想は一種の理想を模索する手段ではあるが、理想通りにはいかないのが現実であったことは、歴史が教えてくれている。現在までのところ、大勢は資本主義、民主主義に落ち着いているが、これとて人々が夢想した如くには機能してないのが、実情である。 より現実的で、より欠陥の少ない方へと、水が低きへと流れるように流れた結果が、今日の現実となったので、人類の飽くなき理想追求の夢は、画餅のままで終わる運命にあるのか。 私は、太っ腹な神のようには人類の未来を楽観視できないが、さりとて絶望もしていないわけで、より明るい未来図を予想している。 人々が理想を口にし、未来に良き事を夢見る際に、一様に「公平」と「平等」とを唱える。そんなにも公平と平等とが欲しいのだろうか。これは、奴隷の思想ではなかろうか。いや、ずばり、悪党に支配され、散々嫌な目に遇って来た賤民根性が抜けない輩の、羹に懲りて膾を吹く式の、トラウマ現象ではなかろうか。いや、この際、そうだと断定しておこう。 私見によると、歴史的には sacred king 神聖な神の威光を背景にした王者が支配し、次に war kinng 実力で王者の地位にのし上がった下克上の王、続いて pop king 人気があるので王位に君臨する者、更には、これは全くの私の予測であるが、art king 一芸に秀でたので支配者の立場に立つ者、という順に民衆の上に居て統治する人達の出現である。war kinng と pop kinng との間に商人が実質的に地上を支配していたのだが、残念ながら徳が不足していたので、king とは呼べない不幸な「準王」達が何人もいる。 この私的な王者の順番の中で、最後に位置づけられる art king に私は僅かな、ほんの僅かな希望を託しているのです。 ほかの人の事は分かりませんが、私個人の見解では、支配する側に立つより、支配される側に立ちたい。それも、より良い、少なくとも私よりは数等有能で、賢く、勝れた徳を持ち、神の如き優しさ寛大さとを兼ね備えている 聖人 に、それも名前だけではなく、実質上の掛け値なしの聖人に、人々のトップに立って支配して戴きたいと、心底熱望しているのであります。 但し、人間が人間を支配したいなどという野望を持つのは、大体において、けしからぬ輩にしか生じない実に卑しい、下賎な事でありまして、心正しい、聖人の如き人には、その心の中には、自然発生的に生じる性質のものではないのであります。三拝、九拝して下々の代表がその下賤なる立場に就いていただく。これが本来の筋と言うものなのです。 私如きが偉そうに言うのはなんなのですが、支配欲などという途轍もない欲望は、欲望の中でも最も下位にランクづけされて然るべきもので、まともな人間が正面から望むものなどでは、本来、ないのであります。それを引き受けるからには、それなりの犠牲的な覚悟が必要でありましょう。つまり、神と同等の人類愛に満ち満ちた、真に愛情に相応しい、麗しい心根がいの一番に要求されて然るべきだからですね。 現実に地上の国々や地域社会、或いは企業という同一目標を掲げる大小の集団を率いて統率する大小の支配者達は、生まれついての支配者の様な顔をして居りますが、成り上がり者の下衆根性丸出しと言った卑しい顔付きをしてはいないでしょうか。そうでなければ幸いなのですが、私の見たところ、内面の下劣で賎しい根性が丸見えの面々が、次から次へと目の前に浮かんで参ります。 譬えば、イエスキリスト、もしくは、ソクラテス、釈迦、道元、その他の掛け値なしの聖人達に、この世を実効支配して戴けるのなら、誰も彼もが等しく幸福に、安楽に暮らすことが可能なのでしょうがね。現実にはそのような夢のごとき統治は有り得ないわけで、魑魅魍魎の跋扈する現実社会では、蛇蝎や虎狼に類する恐ろしい欲望をむき出しにのし歩く輩ばかりが、虚名を売り物にしようと、目を皿のごとくにしているのですから、夢忘れたりしてはなりませんよ。 人間の悪い面ばかり嫌というほど見せつけられて来た私ですが、悦子のお蔭で心の健康を取り戻し、人間万歳と心の底から叫ぶことの出来る、まっとうな人間になる事の出来た私ですが、大勢を支配したい、己が権力下に国民全体を置きたいなどと、野心満々の輩を目の前にしますと、善良で無邪気な庶民の為に、少なくとも現在よりは少しでも増しな政治支配の為に、人間では無い、例えば人造人間やロボットの様なもので、善政だけをプログラミンがされた機械が登場したなら、どんなにか社会のため、人々のために役立つだろうなどと、機械大嫌い人間の私でさえ、それならば妥協は出来ると考えたりするのであります。 幸い、歴史的に悪政や過酷な圧政に長年の間苦しまなければならなかった、人々は少しくらいの悪党支配にはめげずに、自分たちの生活をより良くする手法を、営々と構築して来ています。不幸中の幸いとはこのことでして、政治がどんなに悪かろうと、自分たちの事は自分で始末をつける知恵と実行力とを、人々は人体に於ける免疫力のように、自然と身に付ける事が出来ています。 それも、これも、人智などは遥かに超えた神の行き届いた差配の御蔭様であります。 神が支配し、人間が素直に、それに従う。この単純な、当たり前な事が出来さえすれば、この世のことは何事も上手くいくのであります。出来損ないの罰当たりが、たわけた事柄をしでかしたから、それが廻りに廻って、今日の惨状を将来した。明々白々な事実であります。 私たちは、他人の事をあれこれと論うのでは無く、自分の為すべき事をきちんと自分で処理する。この一事を正しく行いさえすれば、何もかもが上手く廻って行くのでありますから、もうしばらくの辛抱を続ければよいのでしょう、きっと。前途に明るい希望の灯を掲げて、今の難局を共に乗り越えようではありませんか!